- 慟哭の愛と祈り -
< 宮澤賢治 銀河への旅 >
昨年暮れにNHK 4K普及の一環として「映像詩 宮沢賢治銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~」が三回にわたって放映され、1月2日に一挙3時間番組として放映された…この番組では、俳優の向井理がナビゲータとして賢治所縁の地を訪ねて撮影され、非常に綺麗な画面で写しだされた…
その前半は、賢治の親友・保坂嘉内が中心で、後半は賢治の妹・トシにフォーカスした構成であった…
その後、NHK Eテレで再放送されたが、1時間に再編集され番組では、向井理のナビゲーション部分はカットされ、妹・トシの部分も圧縮されていたが、とても理解し易い編集だと思った…
この『宮澤賢治銀河への旅』を観てこの本を思い出した…菅原千恵子氏の著書で、これまで何度か目を通したことがあったのでその概略は頭に浮かんできた…この本と同じように賢治の親友・保坂嘉内に焦点が当てられ、妹トシとの惜別が取り上げられていた…
私は、もう一度この本を読み返しみた・・・その場面のTV映像を思い浮かんできて深く印象着けられた…映像で視覚に訴える力は凄いものです。
この本も傷んできたし、文庫本で活字が細かいので単行本が欲しいと思ってアマゾンを検索してみたら、プレミアが附いて高価だったので躊躇してしまった…
< 賢治と嘉内の出会い >
大正5年の春、賢治が寮長をしていた自啓寮の同室に保坂嘉内は入寮し賢治と運命的な出会いを果たす…
嘉内は賢治と同年齢ながら『トルストイを読んで、トルストイのような生き方をし百姓になりたくて入学した。』と堂々と述べたという…
寮の歓迎会で嘉内が書いた『人間のもだえ』という演劇を披露したという…賢治は全智の神、嘉内は全能の神を演じたというが、嘉内の全身赤の扮装が後々の賢治作品に影響を及ぼしているように思う…
私が入学した頃の岩大工学部の同袍寮に於いても新入寮生の歓迎会があり、会食しながら部屋ごとに余興をやらされ、賞品はお酒だった…
賢治が入寮した自啓寮の頃からの伝統が続いてきたのだろうか…
そして『校友会会報』に物足りなさを感じた宮沢賢治、小菅健吉、河本義行、保坂嘉内らが中心となり、大正6年7月1日に文芸同人誌『アザリア』第1号が発行された…そこへの投稿を通して賢治と嘉内は「阿吽の間柄」と言われるほどになり、7月14、15日に岩手山に登った…
そこで二人は「真理の道、無上道、理想の国を目指そう」と誓いあったのだ…これが賢治が後々までも拘った「銀河の誓い」だった…
しかし、青春の激しい自己表現欲を満たす場であった『アザリア』への投稿が厄をもたらすこととなった…
大正7年2月の『アザリア』第5号に発表した嘉内の「社会と自分」という論説の一部が学校側の目に留まり、その文章の過激さが問題視され除籍処分を受けてしまったのだ…このことを自宅花巻で知った賢治は、卒業まで2ヵ月と言うのに父・政次郎に退学すると申し出たという…それほどまでにショックだったのであろう…
そして「銀河の誓い」を果たすために共に勉強(法華経)しようと熱のこもった手紙を嘉内に送った…更に、賢治は、絶望している嘉内を励まし、慰めようと大切にしていた『赤い経巻』さえも送ったという…
それから賢治は盛岡高等農林の研究生となったが、父政次郎の反対を押し切って徴兵検査を受けたが第二乙種となってしまった(大正7年4月)…一方、嘉内は北大受験を目指し明治大学に席を置きながら受験勉強を始めて1カ月余、大正7年6月16日に母・いまが他界してしまったのです…
その時、賢治は『南無妙法蓮華経』を整然と28回も書いて嘉内に送った…
嘉内は受験を諦め実家に戻り農業をやることを決意したことをアザリアの同人・河本義行は称賛し激励するが、賢治は嘉内との精神的な距離感に揺らぎ、あの日の銀河の思い出にすがるしかなかった…こうした変化の中、大正7年の暮れには賢治も少し落ち着きを取り戻し12月26日付けで嘉内に手紙を出している…
ところが、大正7年12月26日には、日本女子大に学んでいた妹・トシ発病の知らせを受けて、賢治と母は看病のために上京することになった…
賢治は毎日のように政次郎に病状記録を書き送っていたが、そのかたわら自分にふさわしい仕事を探し廻ったという…そして賢治は人造宝石の仕事をしたいと政次郎に申し出るが叶わず、妹・トシの快癒と共に花巻へ戻ったという…(大正8年3月)
一方、嘉内は青年団指導者講習会に参加し、農村の改革に取り組もうとしたが、昔からの因習などに阻まれ悩んでいたようで、11月母の一周忌には賢治が書いてよこした「南無妙穂蓮華経」を24回も自分の日記に書き記していたという…嘉内も決して思うようには行かなかったらしく、大正8年の12月1日に東京駒場へ一年志願兵として入営した…その頃の賢治は、相変わらずの店番であったが、賢治は居たたれず青春の思い出、岩手山登山の柏原でたいまつが消えてしまったことなどを書き送った…
賢治は大正9年5月には盛岡高等農林の研究生を修了するが、その頃から菜食主義を徹底するようになり父政次郎も心配したという…そして12月の街中を「南無妙法蓮華経」と唱えながら雪道を歩き廻るようになり、賢治は嘉内の除隊の機を狙って行動を起こした…
それは予ねて嘉内から教わった田中智学主宰の日蓮宗の国柱会へ入会(大正9年12月)したことを知らせ、退役後の方針を定める前の嘉内に「国柱会」への入会を呼び掛けたのである…
嘉内は追い詰められた賢治を心配した手紙をくれたようではあるが、しかし嘉内の日記には呟くように「神はおのれのうちにある」というメモが残されていたという…
それでも嘉内は大正10年1月25日の日記に「一、法華経及日蓮宗の研究」と決意を記したが、その2日前(23日)に賢治は突如家出し上京した…国柱会の門を叩き、文京区菊坂に間借りした。賢治は父政次郎からの為替を送り返し、賢治の人生で初めての自活が始まった…
そして賢治は、共に国柱会に入ろうと呼びかけるが、嘉内は法華経を最優先にする生活を決意できずにいた…
一方、賢治は国柱会の「高知尾智躍の奨めにより法華文学の創作」に取り組み始めていた…そのお陰にて、多くの賢治作品を手にすることができるのだ…
嘉内は自分の人生を歩むべく大正10年7月1日付で甲種勤務演習に応召し東京の兵舎に入営した…賢治は早速3日に嘉内に再会の手紙を書いた…それに折り返して嘉内から「人生の目的、その望みや願いは具体的に何か」との手紙があったのではないかといわれている…賢治は悩み「私には私に望みや願ひがどんなものやらわからない」と同郷の関徳弥に手紙を送っていた…そして7月18日に賢治と嘉内は再会を果たしたのだが…
賢治と嘉内はどんな言葉を交わしたのであろうか…その日の嘉内の日記には、賢治との面会が記され、斜めに線が引かれている事が二人の決別を物語っている…その翌日から年末まで嘉内の日記には、何も記されることはなかった…
この宿命的な宗教論争の末に決別するまでに賢治から70通もの書簡が送られてきたいう…その中で、『・・・吾が友保坂嘉内よ、吾を棄てるな。』とまるで恋人に宛てたような手紙には驚かされた…
この決別から長い切れ目をおいて、大正14年までにわずかに3通の手紙で近況を伝えるだけだったという…
賢治は、この決別を『図書館幻想』という詩に残している…この詩に登場する「ダルゲと名乗るその哲人と、永久のわかれをなせるなり」とあるが、これはまぎれまなく保坂嘉内であろうと思われる…
「国柱会」を目指し、家出までして上京した賢治は、嘉内と共に日蓮宗の信者として生きて行くつもりが、大正10年7月18日の再会が決別となってしまった・・・賢治は東京に居る意味を失くしてしまい、8月11日付けの関徳弥宛ての手紙に「十月頃には帰る予定ですが、どうなりますやら」と書き送っている…その8月に妹トシの病の報せが届き、賢治はこの機を逃さず、書き溜めた原稿をトランクに詰め込み花巻へ持ち帰ったようだ…
これは誰もが納得できる帰花の理由であり、賢治自身も救われたのではないだろうか…
帰花した賢治は落ち着きを見せ、お題目を唱えて街を歩き廻ることもなく、この決別から2ヵ月大正10年9月14日に『夜空の電信柱』を書いた…
右の嘉内が描いた電信柱の絵を自啓寮で同室だった賢治は見ているに違いない・・・この作品では「…二本のはしらがうで木を組んで、びっこを引いていっしょにやってきました。…もうつかれてあるけない。あしさきさきが腐りだしたんだ。」と、二人はもう一緒に歩いて行けないことを暗示しているようだ…
賢治は、妹トシが療養している下根子桜別邸二階に寝泊りしていたようだ…大正10年9月15日『鹿踊りのはじまり』、19日『どんぐりと山猫という』、11月10日『注文の多い料理店』と次々と作品を書いたと言う…
そして12月の『愛国婦人』に『雪渡り』が掲載され、賢治が生前に得た唯一の稿料(5円)だったという…
大正10年12月3日、賢治は稗貫農学校の教諭として月給八十円で迎えられた…
これを機に妹トシが務めていた花巻高女の音楽教師の藤原嘉藤治と意気投合し、賢治の音楽熱が高まって行く…賢治は嘉藤治とレコード鑑賞会を開いたり、日本で初めてバイオリンを製作販売を始めた鈴木政吉(ジャズ・ベーシスト鈴木良雄氏の祖父)の製作した高価なチェロを買い求め練習を始めた…そして嘉藤治の穴の開いたチェロを見かねて、賢治は自分のチェロと取り替えあげたという…
あの『セロ弾きのゴーシュ』に出て来る子ねずみは、この穴からチェロの中に入り、チェロの音色を聴いて病気が治ったのでしょうか…
当時の稗貫農学校は「桑ッコ大学」と馬鹿にされていたようだが、大正11年2月に賢治は『精神歌』を作詞し生徒に誇りを持たせようとした…そして4月8日(釈迦の生まれた日)にあの『春と修羅』を書いた(賢治が外山を訪れ季節とは違うように思われる)…更に4月に『山男の四月』、『イーハトーボ農学校の春』も書いている。5月には『小岩井農場』、6月に『飢餓陣営』を書いた…
こうして賢治は充実した生活を送ってきたが、11月27日に最愛の妹トシが永眠。賢治は多いに落胆しながらも『永訣の朝』、『松の針』、『無声慟哭』を書き残している…
< 羅須地人協会時代の賢治 >
学生時代の友人鈴木守氏は、花巻で本統の賢治を探して実証研究を積み重ね、その論考を自費出版してきました。特に長年にわたり放置されてきた『巷間流布している〈悪女 高瀬露〉の再検証を求めて』活動しております。
『羅須地人協会時代の賢治』に関しましては、是非そちらの鈴木守氏の著書をご覧ください。
『賢治と一緒に暮らした男ー千葉恭を尋ねてー』(平成23年)
『羅須地人協会の真実ー賢治昭和二年の上京ー』(平成25年)
『羅須地人協会の終焉ーその真実ー』(平成25年)
『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著、平成27年)
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(平成28年)
『「羅須地人協会時代」再検証ー「賢治研究」の更なる発展のためにー』
(平成29年)
『賢治の真実と露の濡れ衣』(平成29年)
巷間流布している〈悪女 高瀬露〉の再検証を求めて
鈴 木 守
下根子桜の宮沢賢治の許をしばしば訪れ、賢治とは少なくともある一定期間オープンで親密なよい関係にあり、賢治没後は師と仰ぎながら偲ぶ歌を折に触れて詠んでいることが公になっていて、しかも長きにわたって信仰の生涯を歩み続けたクリスチャンの女性がおります。高瀬露という女性です。
ところが、客観的な根拠がないのにもかかわらず、どういうわけかこの女性はとんでもない〈悪女〉にされております。本人はもちろんのこと、賢治もさぞかし忸怩たる想いでいると思います。
そこで私は、巷間流布している〈悪女 高瀬露〉の再検証を求めて活動して参りたいと考えております。
- 宮澤 賢治 の作品を通して -
< 心象スケッチ 春と修羅 >
大正13年4月20日に賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版し2円40銭で発売したが、殆ど売れなかったと言われている…
私もこの詩集に納められている『春と修羅』を何度か読んでは見たが、賢治の心象スケッチを思い描くことが出来なかった…
しかし、今回『宮沢賢治 銀河への旅』の映像を通して少しだけ理解が深まったような気がした…
< 春と修羅 の舞台 >
その舞台は大正10年8月11日付けの関徳弥宛ての手紙にヒントがあった…戯曲仕立ての手紙には「神」関する部分で一致できなかった二人の若者「蒼玲」と「純黒」が互いに相手を想いながらも決別して行く話なのだ…特にタイトルも書かれていないが、蒼玲は嘉内であり、純黒は賢治自身ではないかと思われる・・・
蒼玲:いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。
俺は只一人で其処に畑を開かふと思ふ
純黒:彼処は俺は知っているよ。目に見えるようだ。そんならもう明日から
君はあの湿った腐植土やみゝづや、鷹やらが友達だ。
そして手紙には「こわしてしまった芝居です」と書き添えられていたとう…
ここ外山高原は、明治時代から御領牧場として南部駒が放牧されていた…
賢治がこの詩を詠んだ場所を推定するもう一つのヒントは『春と修羅』の中にあった…
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
賢治が「天山の雪の稜」に見立てのは、遠くに見える岩手山であったに違いない・・・
< 春と修羅 >
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
私は冒頭の「諂曲模様」の意味が解らず、ここから躓いてしまった…
大正3年盛岡中学を卒業し店番などの手伝いをしていた賢治が、9月頃父の宗友・高橋勘太郎から贈られた『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感動し、以来手放すことのなかった『赤い経巻』の一節にあった…
では、賢治が「ヨコシマ」と思ったのは何故なのだろうか・・・
ひたすらにおもひたれど
このこいしさをいかにせん
あるべきことにあらざれば
よるのみぞれを行きて泣く。
この『冬のスケッチ』は大正9年頃から大正13年にかけての時期だというが、大正10年7月18日の嘉内との決別以降のものと思われる…
賢治は決別してなお深まる嘉内に対する恋情を押さえきれず「あるべきことにあらざれば」とヨコシマな自分の心に罪悪を感じ悩むのだった…
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
賢治が何故自分自信を「修羅」と言ったのか、私にはどうしても理解できずにいたが、次の画面がその疑問に応えてくれたように思った…
それは賢治が熟読してきた『赤い経巻』に説かれていた…
「貪るは飢餓」と「癡ろかなるは畜生」の間の世界に「邪なるは修羅」と教えている…
釈迦はどんな形の恋でも受け入れてくれることを賢治は理解していたはずなのに、同姓の嘉内に対する恋慕を「邪なるは修羅」と自責しながら「おれはひとりの修羅なのだ」(風景はなみだにゆすれ)と詠んだのではないだろうか…
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
嘉内と決別した直後の戯曲(手紙)の中で賢治が蒼玲に「いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開かふと思ふ」と言わしめた農夫の姿は、山梨で百姓することを決意した嘉内と重なって見える・・・その農夫に向かって修羅となってしまった賢治が「ほんたうにおれが見えるのか」と問いかけるのだ…
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
釈迦の教えによれば「みぢん(微塵)」がすべての宇宙を構成する最小単位(原子)であるという…この詩の終盤で修羅となった賢治は(このからだそらのみぢんにちらばれ)と叫んだのだ…
< 春 と 修 羅 >
< 小岩井農場 >
大正11年5月21日 賢治は640行もの長い長い『小岩井農場』いう詩を書いた…賢治は小岩井駅で降りて、真直ぐ北へ向かい、小岩井農場を突き切って鞍掛山南陵で暫く時を過ごし、岩手山神社のある柳沢を抜け、滝沢駅から夜9時頃の汽車で帰ったという…
この小岩井農場をとりまく径は賢治が嘉内との色濃い思い出を辿る旅でもあったようだ…
あの「銀河の誓い」の岩手山登山と同じ年の冬、嘉内の日記に12月23日に小岩井農場の入口の七ツ森に行ったと書かれていたという…
そしてその時の様子を次のような短歌に詠んだ…
・牧場のとりでは雪に埋もりて 若き男は赤き巾振る
・夕闇のデンシンバシラへだたりてひろ野の雪と二人の若者
賢治が種山ゲ原で詠んだ
・よりそひて赤きうでぎをつらねたる
青草原の電しんばしら
を『アザリア』3号に載せたをみて、嘉内は『アザリア』5号に上の二首を投稿した…
賢治と嘉内にとって「デンシンバシラ」は、『銀河の誓い』を交わした二人を意味する大切な言葉であり、この言葉を知らずして親密な二人の世界に入ることができないパスワードのようなものなのかも知れない…
賢治は嘉内と決別した年の冬に小岩井農場を訪れ、嘉内に対する未練心を 『冬のスケッチ』に残している…
ほんとうにおれは泣きたいぞ
一体なにを恋してゐるのか
黒雲がちぎれて星をかくす
おれは泣きながら泥みちをふむ
何とも切ない賢治の苦しい心情が綴られているのだ…
賢治が翌年の春に小岩井農場を訪ねた頃には少し心の整理がついたのであろうか…
その道すがら心象スケッチを手帳に書き留めていったが、この詩では進むべき道へのこだわりが随所に出てくる・・・賢治は自分自身が進むべき道に疑念を抱き始め「本部へはこれでいいんですか」と念押しするような場面が出てくる・・・そして・・・
却って向ふに立派なみちが
堤に沿って北へ這って行く
ほんとうのみちはあいつらしい
賢治は「あそこ」ではなく、わざわざ「あいつ」と表現し、「ほんとう(本部)」への道は「あいつ」だと言い切っているのだ…賢治にとっては、嘉内と共に歩んで行く法華経という一筋の道しか見えていなかったのに、今は・・・
ぐらぐらの雲にうかぶこちら
みじかい素朴な電話ばしらが
右にまがり左へ傾きひどくゆれて
向こうに見える立派な道を嘉内が進み、賢治は地図(法華経)上のこっちの道を進みながら「向ふのみちへ行かうかな」と迷うのだった…
でも賢治はついに一人で生きて行くことを決意する・・・
いまこそおれはさびしくない
たつたひとひとりで生きて行く
こんなきままなたましひと
たれがいつしょに行けやうか
それから「むら気な四本の桜も」と『アザリア』の中心的な仲間だった保坂嘉内、河本義行、小菅健吉、そして賢治自身を記憶の中に想い浮かべのだった…(パート四)
さらにパート7に入ると、嘉内とおぼしき人物が登場してくる…彼は何故か銃を持っているのだ…
すこし猫背ねこぜでせいの高い
くろい外套の男が
雨雲にぐらぐらの空のこつち側を
銃を構へて立つてゐる
あの男がどこか気がへんで
急に鉄砲をこつちへ向けるのか
この銃の男が何度か登場する・・・賢治の嘉内に対する想いの丈なのか、それとも宗教論争の末に決別した嘉内への未練を象徴しているのだろうか…
そしてパート九で四本の桜になぞらえられた四人が登場してくる・・・
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外それた
あのから松の列のとこから
横へ外れた
賢治は「‥‥」としているが、この人物は『図書館幻想』に登場したダルゲと名乗る男、嘉内に違いない・・・
そして「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ」と呼び掛け、君たちと逢えたので心穏やかな気持ちになれたと詠んでいる…
この詩のパート一に
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
とあり、賢治はこの鞍掛山の麓で何かを言いたかったようだ…
賢治らしい難解な表現ではあるが、この冬に悩み続けてきた嘉内に対する恋情に関して、賢治らしい恋愛論を述べているようだ…
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
賢治は自分ともう一つの魂とが永久に一緒に生きて行こうとするのが、相手が男であっても女であっても、それは恋愛だと定義づけたのだ…そして「もうけっしてさびしくはない」と自分に言い聞かせるのだった…
この詩の最後の一節で「かっきりみちは東へまがる(異稿)」と結んでいるが、『図書館幻想』のダルゲが西の空を眺めていたことに対比できる・・・
賢治は「もう決定した そっちへ行くな」と自分自身を制止し、ここで賢治は嘉内とは違った道を生きて行くことに踏ん切りをつけたのであろうか…
< 小岩井農場 >
- 賢治作品に影響を与え続けた 保坂嘉内 -
< 風野又三郎 >
大正13年2月『風の又三郎』の先駆的作品『風野又三郎』を農学校の生徒に写筆させている…
賢治は嘉内のスケッチブックに描かれた風の三郎の祠の絵を見せられ、それも作品のモチーフになったに違いない…最初の作品『風野又三郎』での又三郎は風の妖精だったが…
大正13年「風野又三郎」をもとに、昭和6~8年にかけて主人公が現実の人間に変更された上で、村の子供たちを描いた「種山ヶ原」、「さいかち淵」などが挿話として取り入れられ、二百十日も近い頃、突然に山の分校にやって来た転校生の風貌は、赤毛の髪にりんごのような真っ赤な顔で赤い靴を履いていた…
これも嘉内が書いた『人間のもだえ』の全能の神(アグニ)は、赤毛、肌色赤とよく似ているのです…
< 銀河鉄道の夜 >
嘉内の彗星のスケッチには「銀河を行く彗星は夜行列車の様に見えた」とコメントがあった…
賢治はこれを盛岡高等農林の自啓寮で同室だった嘉内に見せてもらっていたに違いない・・・この絵が賢治に『銀河鉄道の夜』の構想を発想させ、そこに登場してくるジョバンニとカンパネルラという二人の少年は、賢治と嘉内の関係を思わせるのだった…
妹トシの死を悼み、大正12年7月31日~8月11日にかけサハリンを目指して旅をした時の賢治の詩集『オホーツク挽歌』の一編『青森挽歌』は、こう始まる…
―こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる―
賢治は、こうしてイメージを膨らませて行ったのでしょうか・・・賢治はこの『銀河鉄道の夜』の推敲を亡くなるまで続けていいたという…おそらく賢治は決別してしまった嘉内との友愛関係も推敲したかったのではないでしょうか・・・
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コスモス (木曜日, 15 8月 2019 09:52)
詩の解説にこれほど踏み込んだのは凄い、素晴らしいと思いました。
春と修羅を読んだのは20代の頃で自然の中を歩きながら自分の心象を歌ったもので友人の(嘉内)影があることに思いもしませんでした。私の持っている本はかなり古いので解説にもなかったような。嘉内さんの写真を見ると
男らしく、賢治と違い現実を見ているようで社会への関心も高く賢治さんの理想主義についていけなかったのでは。でもこれを機会に賢治さんは自分独自の作品を生み出せたのだから良かったのではとおもいます。
沢山の、資料を良く集めましたね。
あすなろ (月曜日, 14 10月 2019 00:36)
賢治さんの詩は難解ですが何度読んで、解らなくてもいいです。
「春と修羅」をテーマにした音楽があるのですね。この頃知りましたが賢治さんは後世の人々にこれほど影響を与える人になるとはご本人も思わなかったのでは、、、今風にいえば文学のノーベル賞受賞かしら?