2022年
6月
04日
土
第23回 賢治と歩む会 2022.6.4
『毒もみのすきな署長さん』と『種山ヶ原』
最近、コロナ感染防止にまつわる規制緩和が進められていますが、まだまだコロナ以前のマスクなしでの日常生活には戻れないのでしょうね…
2018年
5月
17日
木
「賢治 秩父路の旅」を訪ねて 2018.5.5
連休の終わりに特に当てもなく車に乗り出かけた…どこへ行っても混んでいるだろうから寄居近くの川の公園でも行ってみようと言って車を走らせた…
今頃は秩父の羊山公園の芝桜が盛りで秩父街道は混んでいるはずなのだが、10時を過ぎていたのでそれほどでもなかった…
その内に私が小鹿野まで行ってみようかと言うと、ハンドルを握っていた息子が直ぐ同意してくれた…
2018年
2月
18日
日
第14回 賢治と歩む会 2018.1.27
昨年10月28日の「第13回賢治と歩む会」は、元会社の同期に誘われてラオスへ出かけており、休んでしまった…
久しぶりに仲間と会えるので楽しみにしていたが、昼食後に少し横に鳴っている間に出遅れてしまい、懸命に自転車を漕いだ。
何とか定刻前に着いたら、萩原先生が自転車置き場の所で一服していた。私が自転車を止めると、また一本取り出して私に付き合いながら、秋田駒に出かけた時に雪道で難儀した話をしてくれた…
その時は清六さんも一緒だったが、下り坂でブレーキを踏み過ぎ、終いにはブレーキから煙が出てきてしまい、慌てて雪の塊を押しつけて冷やしたそうだ…そして「賢治所縁の地への納経の旅でしたが、吹雪のために実現できなかった。」と最後に着け加えられた…
2018年
1月
04日
木
第13回 賢治と歩む会 2017.10.28
実は10月28日は、ラオス旅行に出かけていて参加できませんでした・・・「第2回の賢治と歩む会」から、欠かさず参加していたので残念であったが、元会社の同期との旅行を約束していて致し方なかった。
第13回ではテレビ放映された「宮沢賢治の食卓」の第三話を鑑賞することになっていたので、録画したDVDを瀧田さんにお預けしておきましたが、ブルーレイディスクであったために再生できなかったそうだ。
確認不足で誠に申し訳なかった・・・でも、萩原先生が「宮沢賢治のサハリン旅行」のお話をしてくださったそうだ。ことらも残念なことをした・・・
これまで「賢治と歩む会」に関するブログの掲載を継続してきたので、今回は第13回の会報から抜粋した記事を掲載させていただく。
2017年
9月
22日
金
『第12回 賢治と歩む会』 2017.7.29
今回は熊谷短歌会の文学散歩『宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて』に参加したメンバーからの簡単な報告を行われた。
私は岩大電気科の東京支部総会で発表した『マイブーム』で使用した資料を再編したDVDを上映し、その報告に代えた。
2017年
8月
13日
日
賢治 秩父調査旅行の歌碑を訪ねて
宮沢賢治が盛岡高等農林学校の2年生の時に、関豊太郎教授に引率されて、大正5年9月2日から1週間にわたり、秩父地方の地質調査にやって来てから100年も経った。
熊谷短歌会では、平成29年5月31日に第6回文学散歩を行い、賢治が旅した秩父路に建立された賢治の歌碑を訪ねた。その時の写真と賢治が秩父路に残した記録を取りまとめた「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」のDVDをご紹介する。時間は、およそ9分弱です。
2017年
6月
27日
火
第11回 賢治と歩む会 2017.4.22
「月夜のでんしんばしら」
始まる前に時間があったので、萩原先生に「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」の企画書を見て頂いた・・・
今日は、遅れて参加される方がおられるとのことで、萩原先生が旅の見どころ話してくれた。長年にわたり賢治一行の足取りを検証し続けてきた萩原先生のお話は興味深く、3名の参加希望があった。
2016年
9月
04日
日
賢治 小鹿野来訪100年・生誕120周年記念
今日9月4日は、宮沢賢治が20歳で、まだ盛岡高等農林の学生だった頃に秩父地方の地質調査のために関豊太郎博士の引率で23名の仲間と小鹿野町にやって来た日から100年目に当たる。
この記念すべき日に『賢治と歩む会』の有志と一緒に「小鹿野町来訪100周年記念」のイベントに参加することになった。
2016年
8月
23日
火
風の又三郎 空白の9月3日 (15)
15.鍋っこ遠足 中学に入るとナベッコ遠足があると言うので楽しみにしていた。私が通っていた奥宮小学校と立岩小学校、それに村から稲庭小学校へ通っていた子供たちが、役場のある菅生の皆瀬中学校に集まってくるのだ。 それでも私の学年は2クラスで80人弱の小さな中学校であったが、楢の木々に囲まれた木造平屋建ての校舎と別棟の職員室があった。更に体育館には屋内ステージに加え丸いドーム型屋根で覆われた屋外ステージがあった。その前には一周300メートルほどのグラウンドが広がり、その横に農業実習の畑があった。それに調理のできる家庭科実習の教室と2階には図書室と先生方の忘年会が出来る程の畳の部屋があった。その1階は大きな厨房と小遣いさんが寝泊まりする部屋があり、そこは先生がたの溜まり場でもあったようだ。 校舎の裏手には草原と松林になっていて、昼には仲間と車座になって弁当を食べた。私よりも6歳年上の兄たちが、統合された皆瀬中学校の第1回目の卒業生だというから、古ぼけて床が継ぎはぎだらけだった小学校に比べれば、まだまだま新しく思えたものだ。
2016年
8月
19日
金
風の又三郎 空白の9月3日 (14)
14.川遊び
この「風の又三郎」には9月7日と8日に村の童たちが大きなさいかちの木がある「さいかち淵」で水遊びした話が出てくる。
『一郎が「石取りさないが。」と言いながら白い丸い石をひろいました。「するする。」こどもらがみんな叫びました。「おれそれであ、あの木の上がら落とすがらな。」と一郎は言いながら崖の中ごろから出ているさいかちの木へするするのぼって行った。そして、「さあ落とすぞ。一二三。」と言いながらその白い石をどぶん、と淵へ落としました。』
こんな遊びを私の村の子供たちもやっていたし、川の中での鬼ごっこや、「毒もみ」の真似事もやったことがある。
2016年
3月
11日
金
風の又三郎 空白の9月3日 (13)
13.夜釣り
この「板戸沼」には何度か夜釣りに行ったこともある。土曜の午後から支度を始め、鯰の餌に小指ほどの太さのミミズを何匹も捕まえ、夕方には沼に到着するようするのだ。
この時は従兄弟二人とすぐ上の兄、それに伯父も一緒でした。この伯父(トッチャン)は「板戸沼」を少し下った所の若畑部落から更に山を越えた新田という不便な山間の部落で育った。ですからどんな物でも修理して使い、アケビの蔓で籠を編んだり、木の皮(マンダの皮)で蓑を作るとか、自分で何とか工夫することが自然に身についていたのであろう。時々、村の人から鍋の修理を頼まれると鉄の鍋でもアルミ鍋でも上手に穴を塞いでくれる便利屋として皆から重宝がられていた。このトッチャンと一緒なら夜釣りでも安心できた。
2016年
3月
06日
日
風の又三郎 空白の9月3日 (12)
12.魚釣り
この「風の又三郎」には村の童たちが魚釣りをする場面は出てこないが、大迫の外川目の近くには沼か溜池はなかったのだろうか。近くに沼がなくても川で魚釣りをしたのかも知れない。
私は小さい頃から魚釣りも大好きでした。それは若い頃からの道楽者で、魚釣りをやっていたおじいさんの血を引いているからであろうか、いや伯父と兄がお酒を吞みながらの魚釣りの話を傍で聞いていたせいかも知れない。とにかく早く魚釣りをやってみたくて仕方なかった。伯父と兄の釣りの話によく出て来るのは「貝沼」と「板戸沼」であったが、「板戸沼」は行ったことはなかったので想像してみるしかなかった。
「板戸沼」には、部落の名前が付いていたが戸平山の向側で奥宮山の直ぐ下にあり、3キロ以上の山道を登って必要があった。一方「貝沼」は隣部落ではあったが、沼への登り口まで2キロほどで、登り坂はそれほどでもなかったので小学生の時に遠足で行ったことがある。
2016年
2月
10日
水
風の又三郎 空白の9月3日 (11)
11.おじいさんの投網
母方の祖父の家に両側に持ち紐の付いた木箱に収められた投網があった。その祖父の若い頃は、たいそうな道楽者だったようだ。冬の夕方に母の実家で従姉弟たちと遊んでいるうちに吹雪がひどくなると、爺さん婆さんの寝床の隣に泊めてもらった。その寝床は、幅広の厚い板で囲まれた中に秋口に乾いた稲藁を敷き詰め、その上をゴザで覆ったフカフカのベッドのようでした。爺さん婆さんの隣は、ほのかな匂いもあったが、とても暖かくて気持ちよく眠りについた。
ところが朝方になると決まっておばあさんの小言が始まるのだ。それは決まっておじいさんの若い頃の道楽や放蕩振りぶりの話で、最後には爺さんが友達に騙されて村一番の田畑を失った話へと続くのだった。この話は子供の頃に何度となく聞かされたが、爺さんはいつも婆さんに背負向けて黙って小言が終わるのを待っていた。今でも田んぼに囲まれた部落の共同墓地の地権者は、爺さん家の屋号・兵助であることからすると、恐らく実際にそんな出来事があったのではないかと思われるのだ。
この投網も爺さんの道楽で買い求めた物であったようだ。秋には柿の渋を投網に塗り込んで乾かし、念入りに手入れをしていた。時には投網を肩にかけて庭先で投網を打ち、その広がり具合を確かめていた。きっと川魚が沢山かかった時のことを思いだしていたのだろう。
2016年
2月
10日
水
風の又三郎 空白の9月3日 (10)・・・現地から
10.どじょう掬い の冒頭でこんなことを書いた・・・『この大迫町は稗貫郡に入るし、その地名からして昔は稗を多く作っていたのでしょうが、「風の又三郎」の時代には田んぼで稲を作っていたと思う。』
すると花巻の鈴木氏から次のようなメールが届いた。
実はこの11日に大迫に行きました。それは、茶谷十六(ちゃたにじゅうろく)氏の講演 「百姓一揆の心と行動」を聴くためでした。
岩手ではあちこちに「一揆の碑」や「義民の碑」が建っております。岩手が貧しかったのはわかるのですが、なぜ一揆が起こったのだろうかと以前から不思議に思っていました。『昔は田圃もそれ程あったわけではなかろうから、年貢の取り立てもそれ程考えられないし』などと語った。
2016年
2月
09日
火
風の又三郎 空白の9月3日 (10)
10. どじょう掬い
谷川の岸に小さな学校のモデルは、花巻の友人・鈴木氏の見聞によると大迫町の外川目にある「沢崎分教場跡」が一番ふさわしいようで、その周りの農家では今でも葉煙草の栽培を行っている。 この大迫町は稗貫郡に入るし、その地名からして昔は稗を多く作っていたのでしょうが、「風の又三郎」の時代には田んぼで稲を作っていたと思う。そして稲作にあまり農薬を使わなかった頃ですから、田んぼを結ぶ堰(用水路)には、どじょうや鮒がいっぱい泳いでいたに違いない。村の童たちは家から笊を持ち出し、どじょう掬いで泥んこになって遊んだことであろう。
2016年
2月
06日
土
風の又三郎 空白の9月3日 (9)
9.落ち鮎の簗
『風の又三郎』のモデルとなった豊沢川の川岸には、大きなさいかちの木がある「さいかち淵」があり、その少し上流には別の谷川も流れ込んでいた。
こんな地形からすると、落ち鮎が集まってくる「さいかち淵」の少し下流の川幅が狭まった辺りに発破をかけた庄助たちが「落ち鮎の簗」を仕掛けたのではないかと思う。
そして簗の噂を聞いた村の童たちの中でも好奇心の強い嘉助や魚捕りの好きな佐太郎などは、今日は鮎が掛かっているだろうと想像しながら興味深く、その様子を見に行ったのではないかと思う。
2016年
1月
10日
日
風の又三郎 空白の9月3日 (8)
8.鮎の友釣りのおとり
『風の又三郎』には『鮎の友釣り』のお話は登場しませんが、岸の土手に大きなさいかちの木があるモデルとなった豊沢川の「さいかち淵」の辺りは、カジカも居る程の清流だったでしょうから、きっと鮎も沢山住んでいたことだろう。庄助が発破をかけた狙いは、鮎だったかも知れない。
私が子供の頃の田舎でも『鮎の友釣り』をやる人は珍しかった。そのころ兄が出張で湯沢市に出かけた折に釣具屋さんに立寄り、スポンジを鮎の形にしたものに色を付けた疑似鮎を買ってきた。この疑似鮎は本物そっくりにできているから、これを使って『鮎の友釣り』をやれば生きた種鮎(友釣りに使うおとりの鮎)がとれるだろうと言って、母方の祖父に預けた。
2016年
1月
05日
火
風の又三郎 空白の9月3日 (6)
6.発破(9月7日のできごと)
『次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところがきょうも二時間目ころからだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。・・・授業が済むとみんなはすぐ川下のほうへそろって出かけました。嘉助が、「又三郎、水泳ぎに行がないが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と言いましたので三郎もついて行きました。』 授業が終り嘉助に誘われて水泳ぎにでかけた又三郎は、抗夫の庄助が発破をかける場面に遭遇した。
『すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて砂利の上へすわってしまいました。それからゆっくり腰からたばこ入れをとって、きせるをくわえてぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思っていましたら、また腹かけから何か出しました。「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。
一郎は手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火をしずかにそれへうつしました。うしろにいた一人はすぐ水にはいって網をかまえました。庄助はまるで落ちついて、立って一あし水にはいるとすぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼおというようなひどい音がして水はむくっと盛りあがり、それからしばらくそこらあたりがきいんと鳴りました。』
一郎に言われて、気付かないふりをしていた子供たちの緊張しながらこの時を待っていた様子が私には良く判る。そんな中で父親が山師だという三郎は、村の童たちよりも発破のことを良く知っていたに違いない。
2015年
12月
23日
水
風の又三郎 空白の9月3日 (5)
5.カジカ突き
谷川の岸の小さな学校の近くには、良く澄んだ川が流れていました。そこには大きなさいかちの木が生えていて、村の童たちが遊びに来るさいかち淵がありました。そのさいかち淵の上流には右の方からもう一つの谷川が入ってきて少し広い河原になっていました。
このような山間の小さな川で、土曜日の午後には承吉や小助など年少の童たちもカジカ突きをして遊ぶことができたと思う。
2015年
12月
12日
土
風の又三郎 空白の9月3日 (2)
2.「風の歌」と三郎の話し、明日の相談
この谷川の岸の小さな学校に転校してきた三郎も三日目となり、村の童たちは三郎にも少し慣れてきて、好奇心の強い嘉助は休み時間に色々と質問したことだろう。すると三郎は前の学校のことや、これまでどんな所へ行ったことがあるとか、少し自慢げに話して聞かせたことでしょう。三郎の父親は山師ですから、値のある鉱脈を探して色んな地方を旅し、その鉱脈が見つかると鉱石の採掘が軌道に乗るまで暫くはその地に止まったに違いない。そんな時に三郎も転校生として、その地の小学校へ通い村の童たちとも仲良くなり、その土地の遊びを楽しんだことでしょう。
しかし、どんな話の成り行きで、三郎が「風の歌」を唄って聞かせることになるのか、私には想像できなかった。でも三郎は山師である父親と一緒に色んな地方に住んだことがある筈だ。その中に「風の三郎様」の伝承を強く信じている地方があって、そこの村の童たちから「風の歌」を教わっていたのかもしれない。そして三郎は、あちこちの地方の出事を話している内につい自慢げに『どっどど どどうど どどうど どどう・・・』と唄ってしまったのでしょうか。しかし、9月12日の章は『先頃又三郎からきいたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。』から始まっており、三郎が「風の歌」を歌ったのは確かなことでしょうが、9月3日からだと間が空き過ぎるようにも思える。また『謎解き・風の又三郎』には、「風の歌」は基本的に風の精が自分に向かって、けしかけ、力づけ、励ますように呼びかける唄だと述べられていた。だとすると高田三郎は、風の又三郎だったのでしょうか。
そんな三郎の話を静かに聴いていた6年生の一郎は、持ち前のリーダーシップを発揮して、転校生の三郎も仲間に入れて、翌日の休みに「上の野原」へ遊びに行こうと持ちかけたのではないだろうか。 そして9月4日の章の初めに、一郎が嘉助、佐太郎、悦冶をさそって「上の野原」へ向かう途中で、こんな会話がある。 「又三郎はほんとうにそごのわき水まできて待ぢでるべが。」 「待ぢでるんだ。又三郎はうそこがなぃもな。」 やはり9月3日土曜日に一郎は、みんなと「上の野原」に行くことを約束していたにちがいないなのです。 (つづく)
2015年
12月
11日
金
風の又三郎 空白の9月3日 (1)
私が「風の又三郎」を知ったのは、小学校3年生の頃でした。私は太平洋戦争の最中に秋田県南部の山村に生まれた。ですから戦後の混乱期は知らずに育ちましたが、物心ついた頃には物資も食料にも不自由し、お蔭で「物を大切」にすることが身に着いたような気がする。
当時、兄が中学校に勤めており、兄が月賦で買い求めた「日本文学全集」が本棚に並んでいた。その中から兄が「宮沢賢治」を取り出し、兄の布団にもぐり込んでいた私に「風の又三郎」を読み聞かせてくれたのです。
2015年
4月
24日
金
賢治が旅した秩父路
4月24日、秩父セメント時代の同期会が秩父の羊山の有恒倶楽部で開催されるので出かけることにした。丁度、『賢治とあゆむ会』の顧問・萩原昌好著『宮沢賢治「修羅」への旅』の秩父旅行を読んでいたので、乗り降り自由のフリー切符を買って早目の電車に乗った。秩父鉄道沿線で賢治が旅した駅を辿ってみようと思ったからである・・・賢治が秩父地方を訪れたのは、大正5年9月2日から8日迄である。賢治が盛岡高等農林学校に在学中のことで、関豊太郎教授、神野幾馬助教授に引率された23名の学生が秩父地方の地質、土壌、林業の調査を目的とした研修旅行であった。その頃の賢治は向学心に燃えていたらしく、7月30日の夜行で上京しドイツ語夏季講習会に参加していたと書かれていた・・・賢治は9月2日に上野駅で一行と合流する前に帝国博物館を見学しているが、その時の短歌が残されている。
○東京よ、これは九月の青りんご、あわれと見つつ汽車に乗り入る
○東京よこれは九月の青りんごかなしと見つつ汽車に乗り入る (上野)
○歌まろの富士はあまりにくらければ旅立つわれも心とざしぬ (博物館)
2014年
12月
22日
月
入門 宮沢賢治を受講して
10月のある日、息子が熊谷市の市報を持って私の部屋にやって来た。市の中央公民館で『宮沢賢治の研修会』があるとの内容であった。早速、火曜短歌会で公民館に行った時に申し込んでおいたら、受講受理の葉書が届いた。
こうして12月1日(月)から22日(月)にわたって4回の講習会に参加した。
第1回目は「宮沢賢治と秩父鉄道」のタイトルで、大正5年9月2日に賢治が熊谷にやってきたことからスタートした。
・9月3日:国神 金崎に宿泊
・9月4日:小鹿野 寿屋に宿泊
・9月5日:三峰山の宿坊に宿泊
・9月6日:秩父大宮(現在の秩父市)の角屋?に宿泊
など、地元で関心の高い事柄を細かく教えてくれた。そして賢治一行の行程と賢治の歌碑の場所などを地図で示してくれたので、9月になったら同じルートを辿ってみたいと思っている。賢治の歌集の本は中々見つからないのでネットで検索したら、賢治の若い頃に啄木に憧れて10年位の間に詠んだ沢山の短歌が残されおりました・・・
http://why.kenji.ne.jp/tanka/tanka.html
第2回目は、賢治の生い立ちを中心に、賢治文学の鑑賞の仕方を解説してくれた。その資料の中でも井上ひさしの書かれた『一人四役・宮沢賢治』は興味深かった・・・以前、井上ひさし演出の『宮沢賢治』の演劇をテレビで観たことがあるが、その時賢治の事を研究している鈴木守氏に連絡したら、井上ひさしは岩手県に住んでいたこともあり、賢治のことをよく調べているよと聞かされたことがある。
第3回目は、『楽しい童話~ことばとストーリー』というサブタイトルでの講演で、具体的な作品として『やまなし』での”ことば”を味わい、『注文の多い料理店』ではストーリーの楽しさを鑑賞した。
『やまなし』は「小さな谷川の底を写した、二枚の幻灯です。」から始まる。私が子供の頃は、まだ学校にプールなどはなく夏休みには毎日川で水浴びをしていた。水中メガネをかけて川底に潜ると夏の強い光が、波の影を砂と小砂利の川底に写し出し、まるで”クランボンの世界”であったことを思い出す。今は上流にダムができ、ダムからの放水で川は濁り、清流の魚・鮎も溯上しななくなってしまった・・・
休み時間に鈴木さんに送ってもらった本(・賢治と一緒に暮らした男、・羅須地人協会の真実、・羅須地人協会の終焉)3冊を角田先生に手渡した。
第4回目は、『賢治の夢・メッセージ・生き方』というサブタイトルであった。賢治はどんなことを悩んだのか・・・①自己認識、②郷土の人々、③死後の世界、④生きるためには~など賢治像を如何に捉えた良いのかの切り口を講義してくれた。そして『よだかの星』を取り上げて、”よだか”は”よたか”のことであるが、「時代劇で手拭の端をくわえ、ゴザを抱えた夜の女性を連想してしまうが・・・」と切り出し、夜鷹は夜になると大きな口を開いて空を飛び、口に入ってくる羽虫を食べて生きて居ると説明してくれた。そして最後に「生きるためには他の命を奪わねばならぬ。」ことを賢治は真剣に悩んでいたのであろうと結んだ。
休み時間に先生の所へ行って、東北地方では通常”ヨダガ”と呼ばれており、宵っ張りの子供に「ヨダガが来るから早く寝ろ。いつまでも起きているとヨダガに呉れてやるぞ!」と脅されるのだと話した・・・
最終講義が終わって、本のお礼に私のところへ来てくれたので先生と一緒の写真を撮らせてもらった。角田先生は埼玉大学の萩原名誉教授に師事しているとのことだったので、鈴木さんにメールしたら文献を参照していると言っていた・・・萩原名誉教授の関連記事(小鹿野町に『雨ニモマケズ』の碑建立)