2017年
5月
16日
火
むのたけじと同志だった三郎さんからの手紙
5月10日に少し遅くなってしまったが、鈴木守さんの『「羅須地人協会時代」再検証』を三郎さんに送った。それから「宮沢賢治熊谷来訪100周年の年に」題して短歌と随筆を投稿し、掲載された『文芸熊谷 第5号』と私のブログをプリントしたものを同封した。
すると「三郎こけし」と三郎さんからの手紙が入っていた。その中には「むのたけじの葬儀」への参列した事と「偲ぶ会」の様子などが書かれてあった・・・
最近「2020年までに憲法を改定したい」と述べた安倍総理の記者会見が話題をよび、国会でもその質疑が集中的に行われていた。そんなこともあり、改めて「憲法9条」にこだわっていた「むのたけじ」のことが思い出された・・・
2015年
2月
26日
木
『収集こけしとこけし画展』を観て
八木橋デパートでこけし展があり、出展者が家内の女学校時代に教わった体操の先生だというので出かけてみた。松井貞夫という先生で、家内は何千人もの教え子の一人ですから覚えているはずもないが、当時の他の先生のあだ名など話ながら、昔を思い出されていたご様子でした・・・
会場には、沢山のこけしが並べられており、その上に松井先生の切り絵が展示されていた。その切り絵は、極めて繊細なものであった。昔、”滝平二郎の切り絵”を真似て、年賀状を彫り続けたことがあった・・・
2015年
2月
13日
金
岩手物産展が熊谷にやって来た
今年も八木橋デパートで”岩手物産展”が開催されたので出かけてみた。実は、昨年東野の味噌漬けを買い求め、じっくり味わった。その味を求めてやって来たのである。どうも東野地方の漬物では無かったようだが、三点まとめて買った。他には宮古の筋子、鮭の荒、カレイの干物などを買い求めた。
会場を廻ってみると岩鋳の展示販売コーナーがあったので係員に話かけてみた・・・盛岡に居る頃、当時岩鋳の常務をやっていた人の息子さんの家庭教師を小一から小四までやっていたのだと・・・すると、今は3代目の社長に代わって、オーナーの娘さんが副社長をしていると話してくれた。そして彼女がデザインした鉄器がフランスで人気を得て海外に輸出しているそうである。
確かにNHKの番組でも取り上げられているのを見たことがある。更に中国でも人気がでたので、中国本土に支店をだしていると教えてくれた・・・私も教え子の結婚式の引き出物に茶釜をいただと話したら、その頃は全て手作りの品物だから値打ちものだから大事にするようにと言ってくれた・・・
この展示会場の一角に観光協会のパンフレットが沢山並んでいたので、いただいて帰った。その時の袋に印刷されていた冬の岩手山の写真を掲載した。
○ ふるさとの山に向かひて
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな 啄木
○ イーハトーヴォのすきとほった風
美しい森で飾られたモリーオ市 賢治
と袋に印刷されていた・・・
※中央の落葉樹は『一本の桜』だと思うが、この桜が満開の時の写真も眺めて 観たいと、春を待つ気持ちでいっぱいである・・・
2015年
2月
07日
土
如月の蘭展示会を観た
野外では、あまり花を見かけないこの時期・如月に八木橋デパートで蘭展が始まったので出かけてみた。結構広い会場ではあるが、蘭の愛好家が丹精込めて育てた蘭の鉢で埋め尽くされていた・・・外は冷たい北風が吹いているのに、この部屋は一気に春めいた雰囲気を感じさせてくれた。
2015年
1月
17日
土
神戸の大震災から20年
あの朝は、熊谷でも大きな揺れを感じた。それが神戸大震災で会ったのだが、最初は大した報道もなかったような気がする・・・いつものように出社したら、社長に『19日の神戸大学への出張は大丈夫か?』と尋ねられたので、早速神戸大学の研究室に電話してみたが、全くつながらなかった・・・何度かトライしたがコンタクトできず、暫く様子を見ようということになった・・・
しだいに震災被害状況が報道されるようになり、帰宅してテレビを観たら、その被害の甚大さに仰天ささられた。通信網も新幹線もメタメタで、永田町の火災は3日程続いたと記憶している。
その後新幹線も復旧して、神戸大学の教授をお訪ねしたが、どの位経ってかただったのか定かではない。当時、JOMOの若いエンジニアと「ウェヴレット解析」の共同研究をやっていて、神戸大学の教授に相談に行く予定であった。
神戸大学への坂道を登って行くと、いたる所に亀裂が走り、眼に見える段差ができていたのを覚えている・・・この地区は比較的被害が少なかったと言っていたが・・・この「ウェブレット解析」で求めたプロセスの挙動を制御のために活用しようと目論んだが、やはりどうしても位相遅れの問題でオンラインへの適用が難しかった。
その後も何度か神戸大学を訪れたが、震災被害の大きかった地区へ行くのが恐ろしいような気がして足を踏み入れることはなかった・・・震災から20年経った今もそのことが後ろめたく思い出されるのである。
2015年
1月
17日
土
初めての盛岡じゃじゃ麺
○ 初めてのじゃじゃ麺の味楽しみに
家族で囲む昼食を待つ
数日前に盛岡の友達から「じゃじゃ麺」が届いた・・・昔盛岡に居る頃にも「じゃじゃ麺」を食べたことがなかったので、娘に電話で聞いてみた。娘も食べたことが無いというので、娘も呼んでみんなで食べることになったが、作り方も判らないしどうしようかと包装紙を開いたら、中に作り方を書いたパンフレットが入っていたのでホットした・・・
息子にそれを読んでもらいながら台所に立った。まずは家中で一番大きな鍋にたっぷりと水を満たし火をつけ、冷やし中華の添えのようにキュウリを刻んだ。それから葱を刻み、生しょうがとにんにくを摺りおろした・・・麺は15分程茹でるとあったので、タイマーをセットして麺を鍋に投じたが、息子が待ちきれず一本取り出して食べてみたが、やはり硬くタイマーが鳴るまで待った。
茹で上がった麺を笊ですくい上げ、ラーメン丼に移したら中々のボリュームであった。早速用意しておいた具とお味噌をテーブルに並べたが、食べ方が判らなかったので、説明書きを読んでもらい、キュウリ、葱、笙がとお味噌をそれぞれのお好み入れ、麺にお味噌が絡むように良くかき混ぜてと、作法に沿って食べ始めた・・・私はにんにくを少し混ぜて食べたが、これが最高に旨かった。食べ終わったらみんなは満腹となってしまい、「ちーたんたん」ズープを一つだけ作ってみた。丼に生卵をいれ、良くかき混ぜてから茹で汁を沸騰させて一気に注ぐとあったので、その通り作った。それからお味噌を入れて3人で飲んだが、体が温まり美味しかった・・・
今回じゃじゃ麺を食べながら、昔ヒューストンに出張した時の失敗談を思い出した。その時は、私がPMで開発を進めた「SILTAC(多変数予測制御システム」をIBMのACS(Advanced Control System)の開発チームに紹介する目的であった。出来れば世界中のACSユーザーに販路を拡大したいと思ったが、私の英語力では、説得できなかった・・・それは兎も角ヒューストン郊外のホテルに2,3日滞在した時にどうしてもラーメンを食べたくなり、近くの中華料理のレストランに出かけた・・・漢字のメニューを縣命に探したら”味噌と麺”という漢字を見つけ、それをオーダーした。しばらくして出てきたのが”白い麺に黒い味噌”が乗っていたのだ・・・味噌のスープに野菜が盛られた味噌ラーメンを期待していたのに・・・”失敗した!”との思いが強く、その時の味は忘れてしまったが、じゃじゃ麺の食べ方を知っていれば美味しく食べられたのかも知れないと、今、再び思い出している。
2014年
8月
16日
土
冬季分校の先生をした懐かしの若畑
お盆休みの最終日は新幹線も混雑するだろから、16日の午後に熊谷に帰ることにした。すると甥が午前中に泥湯温泉に行ってこようと誘ってくれて、甥の娘と息子を伴って出かけた。甥は私が昔冬季分校の先生をやったことのある若畑、新田、木地山経由で泥湯へ向かうコースを通ってくれた。
この若畑部落で代用教員をやったのは昭和37年の暮れ11月から翌年の3月までの5ヶ月間である。37年は高校を卒業した年で、4月から自宅浪人をしていたが、母が見かねて7月頃東京の予備校へ送り出してくれた。まずは川崎で建設省に勤めていた直ぐ上の兄を頼って上京した。高校の友達も通っているという新宿予備校に通うことにした・・・入って早々に学力テストがあり順位が掲示されたが、名前も張り出されたのでまずまずの手ごたえを感じた・・・
しかし、いつまでも兄の宿舎に居候することもできず、従弟が昔下宿していた家を紹介してもらい、一緒に伺って下宿させていただくことになった。ところが、兄が私のお金を少し増やしてやると大井競馬に出かけ負けてしまったのである。下宿に引っ越しするお金もなく途方くれて、家に電報を打つ羽目になってしまったのである・・・すると翌日の朝早く秋田から兄貴が夜行列車でやって『お前ら何やってんだ!』叱られた。それでも少しばかりのお金を置いて帰っていった・・・
またしても、そのお金も大井競馬場に消えてしまった。最早どうすることもできず、兄と一緒に川崎市役所の前とか川崎駅で野宿(当時アオカンと言われた)し、兄が仕事から帰るまで図書館で過ごす日々が続いた。こんな暮らしに嫌気がさし腕時計と学生服を質屋にいれてお金を借り、秋田に帰ることにした。その時、上野駅でバッタリと入江さんに会ったのである。急行料金はもったいないよと入江さんを鈍行列車に誘い川崎の兄と三人で湯沢に帰ったのを覚えている。
こうして秋田に帰ったのは8月の末頃の気がするが定かではない。あまり勉強するでもない自宅浪人に戻ってしまったのである。
秋も深まりそろそろ雪の気配がする頃、村の教育長が突然やって来て『若畑の冬季分校の先生が見つからなくて困っているから、引き受けて欲しい。』とのことだった。教育長は母方の親戚で、家でくすぶっている私を見かねてのことだったのかも知れない・・・子供たちが帰った後は、静かな所で受験勉強もできるからと言われ代用教員を引き受けることにした。こんな経緯で代用教員をやった冬季分校がまだ残されていたのである・・・校舎の前には鬼ごっこをするほどの広場があり、杉木立などなかったはずだがと思ったが、この杉木立が50年もの歳月を物語っているのだ。遠い昔のことではあるが、古びた冬季分校の前に立ち忘れかけていた記憶が少しづつ甦ってきた。
11月の末頃、本校の奥宮小学校での挨拶を済ませ、リュックに参考書や缶詰などを詰め込み本校から4キロ程の山道を登った。その時は教育長も同行したので、部落の人々が総出で分校に集まっていた。それぞれの家の手料理を詰めた重箱と”どぶろく”を持ち寄っての歓迎会であった・・・高校を卒業した年の二十歳前であったが、少し緊張しながらもお酒をご馳走になった。あの頃は、中学を卒業すると一人前の大人として扱われ、農作業をこなしていた時代であった・・・
2014年
8月
15日
金
兄の三回忌
朝の9時半には、和尚さんが来て読経が始まった。その読経を聴きながら、仏壇の近くの壁を見たら、兄が書いたものと思われる先祖代々の戒名が記された茶色に変色した紙が貼られていた。後でよく見ると、そこには33歳の若さでなくなった三男、そして嫁に行って亡くなった姉の戒名まで、しっかりとした楷書で丁寧に書かれていた。戒名とは仏様になってからの呼び名だそうだから、あの世へ逝ってから、家族の名前を間違えないようにと書きしるしたのであろうか・・・
私も以前に兄に書いてもらったものを持ち帰った覚えがあるが・・・今回、改めてコピーしておらい、兄の戒名を裏に追記して持ち帰った。
それから墓参り出かけたが、生憎の雨の中で兄に煙草を一服供えて帰った。それから車でお寺に行き本堂でお線香をあげ、檀家の仏様が祭らている建屋に入った。そこには檀家800件ほどの仏様の家に一軒一軒に表札が付けられ、まるでマンションのようなただ住まいであった。
このお寺の歴史は古く、地方の殿様・小野寺公の菩提寺であったと聞いている。このお寺の程近くに焼け落ちた小野寺公の山城の跡がある。子供の頃、この城跡に遠足で出かけ、炭化した焼き米を探したことを思い出した。
○代々の戒名を記せし兄は亡く 壁に古びて三回忌かな
○三回忌兄を墓参の雨の中 二十一の孫煙草たむけり
2014年
8月
15日
金
おらが村では ”たぬき” もゴルフをするよ
こけし工房を見学しての帰り際に姪の一人が大声を上げた・・・
三郎さん宅の玄関先にゴルフのクラブを振っている”たぬき”が居たのだ。生憎の雨模様だったので、グリーンに立たせての写真を撮れなかったのが残念であるが、きっと月夜の晩には仲間と連れだって堂々とゴルフを楽しんでいるのかもしれない・・・
最近、たぬきは村里近くまで出没して畑の野菜を食い荒らす嫌われものである。甥も休みの日に僅かばかりの野菜を作っているが、収穫の籠を持って出かけた甥が帰ってきて、『赤くなったトマトと食べごろのトウモロコシをたぬきにやられた。』と言っていた。
2014年
8月
15日
金
こけし工房を訪ねて
兄の三回忌を終えてくつろいでいたら、姪の娘が『こけし大好き』と言い出し、親戚のこけし工房を見に行くことになった。この家は父方のルーツでもあり、帰省した折には必ずお線香をあげに行っていた。兄が亡くなる前年のお盆も一緒に訪問し、古い写真を観ながら昔話を聞いた・・・
こけし作家の三郎さんは兄と同級生で、兄よりも三日前に生まれたと言っていた。彼は宮沢賢治が好きで、居間に賢治の写真と”雨ニモマケズ”の手ぬぐいがのれん替わりに飾られていた。私の一家が火災にあった時には、牛小屋を改造して提供してくれたし、一緒に行った姪二人も兄夫婦と2階に住まわせてもらった。こんなご縁もあり、私が岩大に在学中に花巻に立寄り賢治の記念碑の拓本をとってお届けした覚えがある。
戦後、農村演芸が盛んな頃に賢治の『植物医師』を上演したことがあると聞いた・・・三郎さんが演出で兄が”植物医師”を演じたそうであるが、14歳も年下の私にはその芝居を見た記憶はない。その頃ガリ版刷りの文芸誌を発行し、村の若者に配っていたとも聞いた。
若いころから農村の改革運動に取り組んできた三郎さんが、青年会の有志に推されて皆瀬村の村長さんを務めたことがある・・・その後子供たちが成長し大学に通うようになり、冬場の出稼ぎ行くようになった。そして工事現場に廃材を使って鉈削りのこけしを作り、「東京こけし友の会」の会長西田峯吉氏を訪ねて、助言を頂いたの機に本格的にこけしづくりを始めたと、数年前に発行した写真集のあとがきに書かれていた。それによると全国的に有名な木地山の”小椋久太郎氏”も同じ村内であり、刺激を受ける環境にあった。余談ではあるが、父が郵便配達をしていた頃、人里離れた木地山まで郵便を届けていたご縁で、父親と祖母とも小椋久太郎氏と交友関係にあった・・・
そして1981年4月NHKの朝ドラ『まんさくの花』が始まり、まんさくの木で作ったこけしをNHKに送ったところ、番組後半に主人公の少女のマスコットとしてドラマに登場したと書かれていた。それに乗じて地元の酒造会社が”まんさくの花”とういう銘柄の日本酒を売り出していて、熊谷で秋田に縁のある小料理屋”善”でお目にかかったときは驚いた。その酒瓶には、こけしと同じ筆跡で”万作の花”とラベルに刷り込まれいるではないか・・・このお酒は”冷酒”で飲むと旨いです。
2014年
8月
14日
木
秋田への帰省の旅にて
お盆の15日に兄の三回忌をやるというので14日に秋田に向かった。お盆の帰省で混雑すと思い熊谷から東京駅まで新幹線をお迎えに行き、始発列車に乗ることにした・・・幸い自由席の座席が確保でき山形経由で新庄に向かった。昔は新庄駅で停車の合間に立ち食い蕎麦を食べて空腹を満たすことができたのに、最早立ち食い蕎麦はありません・・・その先はローカル線で湯沢に向かうことになる。のんびり走る列車の窓から景色を眺めながら色んなことを思い出していた・・・
○わずかなる段差をなして連なれる稲穂の黄ばむ帰省の車窓
○処々に見ゆ休耕田に草生へて心寂しく車窓に眺む
○沢山の土産抱へる乗客に席譲りくる若きカップル
○帰省客の開かぬドアに戸惑ひて運転席に駆け寄りて問ふ
○古里の山川早く見たくなり腰落ち着かぬ各駅停車
○家々の防雪林に囲まれてベンガラの屋根ぽつぽつと見ゆ
こうして湯沢に着いてみると、50年も前から上京のとき、帰省のときに見慣れた懐かしい駅舎の改築が始まっていた。工事用のシートに囲まれた狭い通路を通って外にでると甥子が迎えに来てくれていた。
車の中からだんだん近づいてくる故郷の山や川を眺めながら実家に着いた。実家について上着を脱いで落ち着いてみると、開け放しの窓からの風の涼しいこと・・・熊谷ではクーラーをつけないと暮らしてゆけないのに、外からの風は、むしろ寒いくらいで長袖のジャンパーを借りてはおった。排気ガスのない山里の風は美味しかった・・・
2014年
8月
10日
日
台風の中の義母の納骨を終えて
8月9日(土)は熊谷市恒例の”花火大会”が予定されていたが、台風が近づいていたために、急遽中止・順延が防災無線放送で流れた・・・
翌10日に義母の四十九日法要と納骨を予定していたので、台風の動きに気を配りながら当日を迎えた。朝から雨が強く降ったり、強風が吹いたり落ち着かない空模様が続いた。午後1時から法要が始まり2時頃に墓地に着き納骨することになった。風が強くなり傘を持つのが大変な状態であったが、納骨の読経が始まると風も雨もおさまり、お線香も無事供えることができた・・・
○台風の襲来最中の納骨の風雨止みて義母は浄土へ
2014年
8月
02日
土
セメントOB会のバーベキュー大会
8月2日にOB会のバーベキュー大会のお知らせを受け取っていたが、7月2日に義母が亡くなり返事をしそびれていた。同郷の先輩が幹事さんだったので、前日に電話してみたら”飛び入り参加”を許してくれたので出かけてみた。
久し振りに秩父線に乗って大野原駅まで約1時間ほどである。そこは旧第二工場近くの荒川べりのオートキャンプ場であった。昭和53年から7年ほど社宅に住んでいたので、子供連れで魚釣りをした川の崖の上であった。懐かしかったので川原に降りてみようとしたが、入り口が施錠されていた・・・そこから荒川を覗き込むと前日の大雨が濁流となり、釣りをした川原は濁流に飲み込まれていた。
○児と釣りし秩父路流るる荒川は 豪雨を集め川辺を埋づめり
秩父線でご一緒したOB会の会長のご挨拶で会が始まった。そこには懐かしい方々の顔があった。偶然にも隣に大学4年の工場実習の時に私にフォートラン言語を教えてくれた先輩が居た。その頃の熊谷工場にはTRWという機械語で動くコンピュータとIBM1800という最新鋭のコンピュータがあった。このIBM1800に触れるだけで感激した時代であった。
私の指導を担当してくれた先輩は、その時第一工場の原料調合計算のプログラムを開発していた。第一工場から送られてくる石灰石、粘土などの分析結果をコンピュータに入力して、目標の指標に最も近くなるような原料の調合割合を”山登り法”で求めていた。手の動きをアナログ的に読み取る”テレメーター?”に計算結果を手書きすると社有のマイクロ回線を経由して、秩父の第一工場の現場に送られ、ペンが自動的にアナログ的になぞり文字が描き出されるのである。書き手の書体がそのまま遠隔地で再現される極めて人間臭い代物であるが、デジタル通信の発達した今日では、到底想像し難いことであろう。その後、私も原料のブレンディング計算を担当したことがる。その頃は中央研究所に所属していて、OR手法の”目標計画法”を用いて解を求めた経験がある。
『山登り法を教えてくれた先輩も今年の春に亡くなってしまったなあ・・・』と懐かしみながらビールを飲み干した。
○孫連れのOB集ひしバーベキュー 楢の木立を川風よぎる
○それぞれに団扇を持ちて扇ぎつつビール片手に語り止まずも
○あの怖き先輩すでに杖つきて微笑み語る顔に皺見ゆ
○ビール注ぎ持ちくるる後輩の髪薄くなれど若き面影
工場の前でバスが停車したので、窓を開けてシャッターを切った。
その昔、セメント製造プロセスのコンピュータ制御システムの開発プロジェクトを受注し、その責任者として納期管理に苦戦した苦い経験を思い出した。
○送迎のバスより眺めし工場に徹夜徹夜の思い出のあり
○開発の納期遅れし工場の暗がり通ふ不安な夕暮れ
○『開発の責任とれよ』と迫りきし あの怖き顔のつぶさに浮び来
○『開発を終へねばキルン動かぬ』と声荒らげて吾を威圧せり
○次々とパーツ替えども拉致開かず ソフトの一行に原因ありき
先程の大先輩が『日本中のセメント工場で、この工場にしかない設備がある・・・』と話していたのを思い出した。それはセメントの微粉末原料を水に溶かして撹拌して調合するスラリーベースンであった。この工程を経て製造される”超早強セメント”は、何んと打設後2,3時間で固まってしまうと言うのだ。その用途は主に高速道路の補修など短時間で復旧を要する現場で使われているそうだ。
既に湿式キルンの時代は終わり、乾式のSFキルンへと移り変わった時代に、この工場では付加価値の高い特殊セメントを製造するためにスラリーベースンが活躍しているのである。私が入社した頃は、”湿式キルン全盛期”の頃で、第二工場に2本、熊谷工場に5本のキルンが稼働していたものだと懐かしく思い出していた・・・
2014年
7月
25日
金
蝉の抜け殻
○病院の銀杏並木の青々と生気満ちれど病む人もあり
○切り株の根もとの穴より這い出でてヘンスに縋る蝉の抜け殻
ある大学病院に検診のためにでかけた。熊谷の朝は熱帯夜から気温は上昇し、外気温38度の中を車を走らせ10時前に病院に着いた。ジリジリと照りつけていたが、銀杏並木は青く茂り生き生きとしていた。
今日も病院の拡張工事は続けられており、近づいてみると大きな切り株の周りには蝉の穴が沢山あった。樹の幹に縋って羽化した蝉の抜け殻を見かけるがと思い、辺りを見回すと工事用ヘンスの金網に縋る蝉の抜け殻を見つけた・・・命短い蝉の抜け殻を病院近くで眺めると何だか人生の儚さを感じさせられた・・・