2014年
11月
16日
日
第10回熊谷産業展に行ってみた
1988年(昭63年)に熊谷市でさいたま博覧会が開催された。その跡地がスポーツ公園として整備され、ラグビー場を中心に、陸上競技場やドーム型の屋内競技施設も造られている。
ここには息子の術後のリハビリにしばしば出かけた運動公園である。この公園近くの八木牧場のソフトクリームは絶品である。
2014年
11月
13日
木
河口湖のもみじ街道を訪ねて
近所のスパーが募集したバスの日帰り旅行に家内が、数か月前に応募して当選してしまった・・・家内一人で参加させるのも心配だったので、前々日に追加で申し込んだ。
当日は、熊谷駅南口に朝7時半に集合し、総勢41名のバスツアーがスタートした。ルートは東松山から関越に乗り、中央道を経由して山梨に向かい、順調に走行し2時間弱で最初の目的地に到着した。
○ スーパーの募りし日帰りバスの旅行く手も知らず妻に添い行く
2014年
11月
04日
火
荒川沿線の鴻巣コスモス街道
”暑いぞ熊谷”から今年最後の花の便りをお届けしようと”鴻巣コスモス街道”へ出かけた11月4日には、来春の”ポピーの種”を撒くために、除草剤の散布が始まっていた。まだ刈り取られずに残っていたコスモスの花は、盛りを過ぎて色あせたものであった・・・
あまりにも残念だったので、昨年ここを訪れた時に撮影した写真を掲載することにした。トップに掲載した写真も昨年のもです。来年は、タイミングを逃さず新鮮な写真をお届けします。
2014年
11月
03日
月
けもの 青羊(あめ)のCDを聴いて
『けもの 青羊』のHPを開いたら、鎌倉でのライブの案内が掲載されていた。熊谷からは少し遠いので応援に参加できないが・・・お近くの方で、ご都合がつきましたらお出かけください・・・最近、『LE KEMONO INTOXIQUE』という”けもの”のアルバムを入手して聴いています。
2014年
10月
25日
土
岩大電気東京支部大会への参加
最近同期会に参加するチャンスの少なかった金井さんを誘って東京支部大会に参加した。44年卒の同期は40名中9名の参加で、全体の25%を占めている・・・一重に飛世さんの求心力と、まとまりのある仲間だと誇りに思っている。総会でも議長、書紀2名とも我らが同期である。総会の議事は順調に進み、総会後、岡英夫名誉教授の講演会が開催された。『岩手から発信してきたマグネティックス研究 40年のあゆみ』は、大変興味深い内容で、取分け”磁性木材”の実用化研究には関心が集まった。
2014年
10月
18日
土
鈴木良雄 JAZZ LIVE at G Face カフェ
16時頃、息子と車で前橋に向けて出発した。昨年も鈴木良雄と山本剛のジャズライブに行ったところだが、カーナビに目的地をセットして出かけた・・・ところが、17号バイパスを早く降り過ぎてしまい、50号線にたどり着くまでに随分と迂回してしまったようだ・・・だんだん夕闇が迫り来て17時半ころにやっと会場に着いた。会場の席はほぼ埋まっていたが、電話で熊谷から行くので、席をお願いしておいたので、前の方の席に座れた。
2014年
10月
13日
月
妻沼聖天山 奉納薪能を見物
13日、申し込んでおいた”妻沼聖天山の薪能”の日がやって来た・・・運悪く台風19号が、大阪辺りに上陸したと報じられ夕刻から雨と風が強まってきた。聖天さまは何度も行ったことがあるが、雨天の会場”妻沼中央公民館”の場所は全く判らないので、少し早目の16時半ころ家をでた。次第に暗くなり雨も強くなり、私がボランティアで来ている西野の児童デーサービスの駐車場でカーナビを確認した・・・目的地をセットして再び出発したが、通り過ぎてしまった。引き返そうとしたところに食事処があったので、ここで夕食を食べることにした・・・
2014年
10月
11日
土
横浜 JAZZ PROMENADE 2014
2011年に「鈴木良雄とBASS TALK」を目当てに、この横浜ジャズにやって来て、あちこちの会場を巡り歩きくたびてしまった覚えがある。息子は毎年参加していたが、私は久し振りに参加できることになった。
19号台風も近づいていたので心配したが秋晴れの朝、熊谷から湘南新宿ラインに乗った・・・横浜の関内まで2時間ほどかかるので、グリーン券を2枚買った。11時頃に関内駅に到着し、横浜JAZZ PORMENADE参加証のバッチと引き換えて、関内ホールへ向かった。
2014年
10月
04日
土
古民家でのお香と雅楽の夕べ
午後3時過ぎに電話が鳴った・・・以前申し込んで置いた”お香を聞く会”が始まっているという知らせだった。申し込んだときは、『高校生以下の子共同伴でないと参加できない。』と断れていたはずだったのに・・・
それでも、折角だから参加しようと急いで身支度をして案内図をみると、自宅から荒川大橋をわたり、土手沿いに川上に2キロ程走ったところにある”JAくまがやふれあいセンター江南”の近くであった。
2014年
9月
21日
日
倉木麻衣 15周年記念ライブ in 久喜
倉木麻衣15周年記念の全国ライブツアーがスタートし、久喜総合文化会館での開催に出かけた。カーナビに目的地をセットして14時頃に出発した。久喜は大宮から東北線に入るので、行く機会もなかったし車で出かけるのは初めてである・・・息子の運転でカーナビ通りで良かったものをサイドドライバーが指示を間違えて、途中で地元の人に道を尋ねる羽目にになった・・埼玉県も結構広いのです。それでも、なんとか16時前には会場に辿り着くことができた。
2014年
9月
14日
日
渋沢栄一 記念館を訪ねて
朝急に”渋沢栄一記念館”に行きたいと言い出したので、カーナビにセットしてでかけた・・・途中、籠原の娘の家に立寄り娘も誘い、深谷市郊外に向かった。自宅からの距離は20キロほどでしょうか・・・カーナビを頼りに近くまで行くと案内板があり、ほどなく記念館に到着した。
「富岡製糸場」が世界遺産に登録されたのを機に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として富岡製糸場を創った深谷市の三人の偉人たちが脚光をあびて、最近は見学者も多いようである。
2014年
9月
13日
土
秋は Jazzの季節ですね・・・
小曽根真率いる『NO NAME HORSES』の10周年記念ライブが熊谷の”さくらめいと”にやってきた。Jazz好きの息子が3ケ月も前にチケットを手配してあったので、家族3人で出かけた。小曽根真は元々クラシック系であったが、アメリカのJazz専門スクール”バークリー”に留学したピアニストである。今回は彼が率いる『NO NAME HORSES』というビッグバンドで、管楽器系の奏者(12名)が多かったは、私は地味な音色のベースマンの奏でる音色に魅かれた・・・
いつもは3,4人で演奏されるジャズを聴いているが、今回は開演早々に客席の後ろから12人がファンファーレと共に登場したのには、度肝を抜かれた。彼が作曲した『NO NAME HORSESの歩み』は、楽譜通りに演奏しても30分はかかるそうだが、その場の雰囲気でジャズ特有のアドリブが加わるので、ライブが終わってみないと演奏時間は判らないと言っていた・・・熊谷では40分もの交響曲のようなジャズを聴いた。
それでも華やかなビッグバンドの楽しさを存分に味わって、心を浮き浮きさせながら家に帰った。
2014年
9月
08日
月
函館の定期観光バスに乗って
前夜の宴会の興奮も醒めやらねままに、朝4時頃に目が覚めてしまった。昨夜も伊藤さん、桜井さんと枕越しに深夜まで話し込み、私は御先に眠り込んでしまったらしい・・・『李ショウバン・ライン』がどうのという話題の結末を覚えていない。
誰もいないロビーに座り込んでいたら、風呂上がりの人が歩いてきた。どうも、一階にもお風呂が有るらしいと思い、その方向にあるいて行くと”日帰り入浴”もできるような温泉が沸いていた。ふらりと部屋を出たのでタオルなど持っていなかったが、洗面台にタオルがおかれていたので、それを借りて温泉に浸かった・・・誰も居ない浴槽で、『工藤さんの持ってきた”ぢょぱり”は旨かったなあ・・・』などと思いながら、のんびり温泉を楽しんだ。来年の秋田での同期会は何処になるのかなあ・・・寅さんが何んとかしてくれるだろうと思いつつ浴槽で足を伸ばした。
2014年
9月
07日
日
函館の啄木の遺跡を訪ねて
小雨の降る中、熊谷から新幹線に乗り羽田に11時半頃到着した。うろうろしながらJTBから送られてきた書類を航空券に替えようとしていたら、大川さんに会った。彼が、2次元バーコドを端末に読み込ませて手続きをすませてくれたが、それから搭乗手続きをする所で問題が発生である・・・手荷物検査で金属反応・・・上着を脱ぎベルトまで外して、3度ほどチェックゲートを潜りボデーチェックされ、次第にイライラしてきた・・・そしてバッグにライターが4個も入っていると言うのだ。自分にはあまり覚えていないが、出かける度にライターをいれたらしい・・・カバンの中を引っかきまわして4個目のライターを探し出したら、飛行機には1個しか持ち込めないので残りは没収するというのだ・・・私の検査を待っていてくれた山下さんと市川さんが1個ずつ持ってくれたが、それでも2個残ってしまう。そこで若い検査官に「私物だから自宅に送っておいてくれ。」とからかったら、少し困惑したようであった・・・ライターなんかたいして惜しくなかったが、余りにも念入りに検査されたので、そのお返しをしたかっただけなのである。
それにしても搭乗検査は厳しくなったものだ。このカバンの中身は昔も今も大した変わりはないはずで、以前は難なく検査を通っていたのにと、9.11のテロ事件を思い出していた。
それから東京組と落ち合って、生ビールを飲み、かき揚げ蕎麦を一杯食べて函館行に乗り込んだ。発つ時は曇り空から小雨がぱらついていたのに山形上空で緑がかった水をたたえた蔵王のお釜が綺麗に見えた・・・暫くして鳥海山と男鹿半島が見えるとアナウンスされたので、覗いて見たが、残念ながら雲の下であった。
2014年
8月
31日
日
麻衣ちゃんって知ってますか
8月末日に息子に連れられて”倉木麻衣15周年記念イベントに出かけた。最初は車で行こうと思ったが、安全な電車にした・・・高崎線で熊谷から浦和乗り換え、京浜東北の南浦和から 武蔵野線で越谷レイクタウン駅までの約1時間半の旅程である。ここは近年に開発された三階建ての巨大なショッピングモール街である。その上、広大な屋外駐 車場を挟んでアウトレットモールがあるので、多分一日がかりでも見て廻ることができない程に広さである・・・
2014年
8月
22日
金
加山雄三 EXPO Live in 武道館
若大将 加山雄三も77歳になり、喜寿を祝うイベントが開催された。家内が若大将のフアンで、すでにライブの切符を手配していたので、22日に付き添って出かけた。家内は朝から張り切っていたので、9時40分の新幹線に乗り、上野から日本橋の高島屋に行った。そこでは加山雄三ミュージアムが開催されていたので、まずは彼の作品を観るためである。翌日の23日にはトークショーがあるのだが、前日なのでそれほどの人出ではなかった。昨年は同じ時期の高島屋の加山雄三トークショーにやって来たが、大変な混雑で立見席だったのを思い出した。それでも本を購入してサイン・握手会に参加した・・・
2014年
8月
16日
土
冬季分校の先生をした懐かしの若畑
お盆休みの最終日は新幹線も混雑するだろから、16日の午後に熊谷に帰ることにした。すると甥が午前中に泥湯温泉に行ってこようと誘ってくれて、甥の娘と息子を伴って出かけた。甥は私が昔冬季分校の先生をやったことのある若畑、新田、木地山経由で泥湯へ向かうコースを通ってくれた。
この若畑部落で代用教員をやったのは昭和37年の暮れ11月から翌年の3月までの5ヶ月間である。37年は高校を卒業した年で、4月から自宅浪人をしていたが、母が見かねて7月頃東京の予備校へ送り出してくれた。まずは川崎で建設省に勤めていた直ぐ上の兄を頼って上京した。高校の友達も通っているという新宿予備校に通うことにした・・・入って早々に学力テストがあり順位が掲示されたが、名前も張り出されたのでまずまずの手ごたえを感じた・・・
しかし、いつまでも兄の宿舎に居候することもできず、従弟が昔下宿していた家を紹介してもらい、一緒に伺って下宿させていただくことになった。ところが、兄が私のお金を少し増やしてやると大井競馬に出かけ負けてしまったのである。下宿に引っ越しするお金もなく途方くれて、家に電報を打つ羽目になってしまったのである・・・すると翌日の朝早く秋田から兄貴が夜行列車でやって『お前ら何やってんだ!』叱られた。それでも少しばかりのお金を置いて帰っていった・・・
またしても、そのお金も大井競馬場に消えてしまった。最早どうすることもできず、兄と一緒に川崎市役所の前とか川崎駅で野宿(当時アオカンと言われた)し、兄が仕事から帰るまで図書館で過ごす日々が続いた。こんな暮らしに嫌気がさし腕時計と学生服を質屋にいれてお金を借り、秋田に帰ることにした。その時、上野駅でバッタリと入江さんに会ったのである。急行料金はもったいないよと入江さんを鈍行列車に誘い川崎の兄と三人で湯沢に帰ったのを覚えている。
こうして秋田に帰ったのは8月の末頃の気がするが定かではない。あまり勉強するでもない自宅浪人に戻ってしまったのである。
2014年
8月
15日
金
兄の三回忌
朝の9時半には、和尚さんが来て読経が始まった。その読経を聴きながら、仏壇の近くの壁を見たら、兄が書いたものと思われる先祖代々の戒名が記された茶色に変色した紙が貼られていた。後でよく見ると、そこには33歳の若さでなくなった三男、そして嫁に行って亡くなった姉の戒名まで、しっかりとした楷書で丁寧に書かれていた。戒名とは仏様になってからの呼び名だそうだから、あの世へ逝ってから、家族の名前を間違えないようにと書きしるしたのであろうか・・・
私も以前に兄に書いてもらったものを持ち帰った覚えがあるが・・・今回、改めてコピーしておらい、兄の戒名を裏に追記して持ち帰った。
それから墓参り出かけたが、生憎の雨の中で兄に煙草を一服供えて帰った。それから車でお寺に行き本堂でお線香をあげ、檀家の仏様が祭らている建屋に入った。そこには檀家800件ほどの仏様の家に一軒一軒に表札が付けられ、まるでマンションのようなただ住まいであった。
このお寺の歴史は古く、地方の殿様・小野寺公の菩提寺であったと聞いている。このお寺の程近くに焼け落ちた小野寺公の山城の跡がある。子供の頃、この城跡に遠足で出かけ、炭化した焼き米を探したことを思い出した。
○代々の戒名を記せし兄は亡く 壁に古びて三回忌かな
○三回忌兄を墓参の雨の中 二十一の孫煙草たむけり
2014年
8月
15日
金
おらが村では ”たぬき” もゴルフをするよ
こけし工房を見学しての帰り際に姪の一人が大声を上げた・・・
三郎さん宅の玄関先にゴルフのクラブを振っている”たぬき”が居たのだ。生憎の雨模様だったので、グリーンに立たせての写真を撮れなかったのが残念であるが、きっと月夜の晩には仲間と連れだって堂々とゴルフを楽しんでいるのかもしれない・・・
最近、たぬきは村里近くまで出没して畑の野菜を食い荒らす嫌われものである。甥も休みの日に僅かばかりの野菜を作っているが、収穫の籠を持って出かけた甥が帰ってきて、『赤くなったトマトと食べごろのトウモロコシをたぬきにやられた。』と言っていた。
2014年
8月
15日
金
こけし工房を訪ねて
兄の三回忌を終えてくつろいでいたら、姪の娘が『こけし大好き』と言い出し、親戚のこけし工房を見に行くことになった。この家は父方のルーツでもあり、帰省した折には必ずお線香をあげに行っていた。兄が亡くなる前年のお盆も一緒に訪問し、古い写真を観ながら昔話を聞いた・・・
こけし作家の三郎さんは兄と同級生で、兄よりも三日前に生まれたと言っていた。彼は宮沢賢治が好きで、居間に賢治の写真と”雨ニモマケズ”の手ぬぐいがのれん替わりに飾られていた。私の一家が火災にあった時には、牛小屋を改造して提供してくれたし、一緒に行った姪二人も兄夫婦と2階に住まわせてもらった。こんなご縁もあり、私が岩大に在学中に花巻に立寄り賢治の記念碑の拓本をとってお届けした覚えがある。
戦後、農村演芸が盛んな頃に賢治の『植物医師』を上演したことがあると聞いた・・・三郎さんが演出で兄が”植物医師”を演じたそうであるが、14歳も年下の私にはその芝居を見た記憶はない。その頃ガリ版刷りの文芸誌を発行し、村の若者に配っていたとも聞いた。
若いころから農村の改革運動に取り組んできた三郎さんが、青年会の有志に推されて皆瀬村の村長さんを務めたことがある・・・その後子供たちが成長し大学に通うようになり、冬場の出稼ぎ行くようになった。そして工事現場に廃材を使って鉈削りのこけしを作り、「東京こけし友の会」の会長西田峯吉氏を訪ねて、助言を頂いたの機に本格的にこけしづくりを始めたと、数年前に発行した写真集のあとがきに書かれていた。それによると全国的に有名な木地山の”小椋久太郎氏”も同じ村内であり、刺激を受ける環境にあった。余談ではあるが、父が郵便配達をしていた頃、人里離れた木地山まで郵便を届けていたご縁で、父親と祖母とも小椋久太郎氏と交友関係にあった・・・
そして1981年4月NHKの朝ドラ『まんさくの花』が始まり、まんさくの木で作ったこけしをNHKに送ったところ、番組後半に主人公の少女のマスコットとしてドラマに登場したと書かれていた。それに乗じて地元の酒造会社が”まんさくの花”とういう銘柄の日本酒を売り出していて、熊谷で秋田に縁のある小料理屋”善”でお目にかかったときは驚いた。その酒瓶には、こけしと同じ筆跡で”万作の花”とラベルに刷り込まれいるではないか・・・このお酒は”冷酒”で飲むと旨いです。
2014年
8月
14日
木
秋田への帰省の旅にて
お盆の15日に兄の三回忌をやるというので14日に秋田に向かった。お盆の帰省で混雑すと思い熊谷から東京駅まで新幹線をお迎えに行き、始発列車に乗ることにした・・・幸い自由席の座席が確保でき山形経由で新庄に向かった。昔は新庄駅で停車の合間に立ち食い蕎麦を食べて空腹を満たすことができたのに、最早立ち食い蕎麦はありません・・・その先はローカル線で湯沢に向かうことになる。のんびり走る列車の窓から景色を眺めながら色んなことを思い出していた・・・
○わずかなる段差をなして連なれる稲穂の黄ばむ帰省の車窓
○処々に見ゆ休耕田に草生へて心寂しく車窓に眺む
○沢山の土産抱へる乗客に席譲りくる若きカップル
○帰省客の開かぬドアに戸惑ひて運転席に駆け寄りて問ふ
○古里の山川早く見たくなり腰落ち着かぬ各駅停車
○家々の防雪林に囲まれてベンガラの屋根ぽつぽつと見ゆ
こうして湯沢に着いてみると、50年も前から上京のとき、帰省のときに見慣れた懐かしい駅舎の改築が始まっていた。工事用のシートに囲まれた狭い通路を通って外にでると甥子が迎えに来てくれていた。
車の中からだんだん近づいてくる故郷の山や川を眺めながら実家に着いた。実家について上着を脱いで落ち着いてみると、開け放しの窓からの風の涼しいこと・・・熊谷ではクーラーをつけないと暮らしてゆけないのに、外からの風は、むしろ寒いくらいで長袖のジャンパーを借りてはおった。排気ガスのない山里の風は美味しかった・・・
2014年
8月
10日
日
台風の中の義母の納骨を終えて
8月9日(土)は熊谷市恒例の”花火大会”が予定されていたが、台風が近づいていたために、急遽中止・順延が防災無線放送で流れた・・・
翌10日に義母の四十九日法要と納骨を予定していたので、台風の動きに気を配りながら当日を迎えた。朝から雨が強く降ったり、強風が吹いたり落ち着かない空模様が続いた。午後1時から法要が始まり2時頃に墓地に着き納骨することになった。風が強くなり傘を持つのが大変な状態であったが、納骨の読経が始まると風も雨もおさまり、お線香も無事供えることができた・・・
○台風の襲来最中の納骨の風雨止みて義母は浄土へ
2014年
8月
02日
土
セメントOB会のバーベキュー大会
8月2日にOB会のバーベキュー大会のお知らせを受け取っていたが、7月2日に義母が亡くなり返事をしそびれていた。同郷の先輩が幹事さんだったので、前日に電話してみたら”飛び入り参加”を許してくれたので出かけてみた。
久し振りに秩父線に乗って大野原駅まで約1時間ほどである。そこは旧第二工場近くの荒川べりのオートキャンプ場であった。昭和53年から7年ほど社宅に住んでいたので、子供連れで魚釣りをした川の崖の上であった。懐かしかったので川原に降りてみようとしたが、入り口が施錠されていた・・・そこから荒川を覗き込むと前日の大雨が濁流となり、釣りをした川原は濁流に飲み込まれていた。
○児と釣りし秩父路流るる荒川は 豪雨を集め川辺を埋づめり
秩父線でご一緒したOB会の会長のご挨拶で会が始まった。そこには懐かしい方々の顔があった。偶然にも隣に大学4年の工場実習の時に私にフォートラン言語を教えてくれた先輩が居た。その頃の熊谷工場にはTRWという機械語で動くコンピュータとIBM1800という最新鋭のコンピュータがあった。このIBM1800に触れるだけで感激した時代であった。
私の指導を担当してくれた先輩は、その時第一工場の原料調合計算のプログラムを開発していた。第一工場から送られてくる石灰石、粘土などの分析結果をコンピュータに入力して、目標の指標に最も近くなるような原料の調合割合を”山登り法”で求めていた。手の動きをアナログ的に読み取る”テレメーター?”に計算結果を手書きすると社有のマイクロ回線を経由して、秩父の第一工場の現場に送られ、ペンが自動的にアナログ的になぞり文字が描き出されるのである。書き手の書体がそのまま遠隔地で再現される極めて人間臭い代物であるが、デジタル通信の発達した今日では、到底想像し難いことであろう。その後、私も原料のブレンディング計算を担当したことがる。その頃は中央研究所に所属していて、OR手法の”目標計画法”を用いて解を求めた経験がある。
『山登り法を教えてくれた先輩も今年の春に亡くなってしまったなあ・・・』と懐かしみながらビールを飲み干した。
○孫連れのOB集ひしバーベキュー 楢の木立を川風よぎる
○それぞれに団扇を持ちて扇ぎつつビール片手に語り止まずも
○あの怖き先輩すでに杖つきて微笑み語る顔に皺見ゆ
○ビール注ぎ持ちくるる後輩の髪薄くなれど若き面影