立川の統計数理研究所にて
令和元年10月3日 元会社同僚のMさんから次のようなメールが入った…
今日、立川にある「大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立極地研究所」のセミナーに出かけました。
この建物の中に、統計数理研究所もあり、1階のロビー(かなり広い場所です)の真ん中のショウーケースにSILTACが展示してありました。
SSK:システム綜合開発と明示してあり懐かしく、また驚きました。
PCはソードでした、操作卓(スライド)もついていました。
このメールを見てタイムスリップしたかのように50年も前の秩父セメントに入社した頃のことが能理に浮んできた…
< 昭和44年 熊谷工場に配属 >
配属された電気部弱電課計測係のコンピュータ室には、プロセス・コンピュータ IBM 1800 を使ってセメントを焼くキルン(窯)を自動制御しようと日夜取り組んでいた…
まだ FORTORAN(プログラム開発言語)に苦労していた頃、上司中川東一郎と計算機制御の共同研究を始めていた文部省 統計数理研究所の赤池弘次先生が工場にやってきた…
キルンの運転データを3分間隔でコンピュータで収集し、その時系列データを解析して多変数予測モデルを同定しようとする研究だった…
その為には複雑なマトリックス演算がプログラムされていた訳だが、赤池先生がタイガー計算機を凄いスピードで回しながら検算されるのに驚き入れ見とれていた…
私はお湯を沸かし紅茶を入れたり、お昼のお寿司を運ぶくらいしかお手伝いできなかった…その夜、工場長主催の夕食会が開かれたが、それから赤池先生は工場に戻り徹夜で研究に取り組んでいだ…その作業を夕方まで続けられ自ら運転する車で帰って行かれたのを思い出した…
<昭和46年 時系列解析 受講>
この年の春、2年後輩で同袍寮で同室だったG君が入社してきて、同じ部署に配属され、しかも独身寮でも同室となった…彼の初出勤の前夜に祝杯をやり過ぎ、大幅に遅刻させてしまい会社に心配をかけてしまったが、私はそうとは知らず自動車学校で筆記試験を受けていたのだ…
それから5月24日から29日まで、この難しい理論を学ぼうと当時広尾の有栖川公園近くにあった統数研の「時系列解析」の講座に通わせてもらった。赤池先生の講義は楽しかったが、飛躍的な数式展開にはついて行けなかった…
でも、これが糧となる給与をいただくともなれば、学生時代よりも真剣に取り組まざるを得なかった…
会社が終ってから先輩の八木原さんに補講をしてもらい、何とか式と式との行間を埋めることができた…その時に使ったボロボロになったノートは今でも手元にありますよ…
八木原さんは理科大物理専攻で数学に物凄く強い人で、お酒も強かったので何度も一緒に呑みました… ついには八木原さん宅に泊めてもらい、朝一緒に出勤する時に外に出て来た二人の娘さんにアリンコの巣を見つけてあげたことから「アリンコのおじさん」と呼ばれるようになったらしい…
<昭和46年 原料調合システム>
入社後3年目に「原料調合システム」の開発を任された…勿論、先輩方の支援やアドバイスがあってのことだが、当時で総予算6,000万ほどでしたから、大いに緊張しプログラムを独身寮まで持ち帰り取り組んだ覚えがある…湿式キルンでは粉末にした原料をベースン(プール)に投入し水を加えて撹拌して原料を均一品質になるように調合する方式であった…ヘドロのようになった原料をパイプを使って所定のタンクに搬送するためのピンチバルブの開閉をコンピュータで制御した…「操作を間違えて原料が溢れ出したら、スコップで片付けさせるぞ…」と先輩に脅かされたのも懐かしい思い出である…
< 秩父セメント第2工場湿式キルン(昭和53年撮影) >
<昭和47年 中央研究所に所属>
熊谷から本郷弓町ビルの中央研究所の情報処理部門に転勤となった…
そこでは、3年後輩のO君と共に
IBM 1130を使ってOR(オペレーション・リサーチ)関連のLP(線形計画法)を学び、セメント・タンクをバッファーに使いセメントの平滑生産計画策定に取り組んだ…
そのとき参照していた本「LP概論 企業行動と意思決定の分析(創価大学 砂田𠮷一)」の論理にそぐわない結果となってしまい、二人で創価大学へ砂田教授を訪ね、ご意見を伺った覚えがある…
ところが昭和48年に第1次オイルショックが発生し、燃料重油の入手が困難となった。そこで種々の制約条件を組み込んで最大量の生産ができる第1工場、第2工場、熊谷工場の生産計画を算出するために徹夜でLPをまわした…
翌朝には秩父、熊谷、本郷を結んだTV会議にINさんと資料を資料を持ち込んだ…INさんは強電課に所属していたので、工場の電力事情を知っていた。
ところが埼玉事業所生産部の声の大きな I さんから現場には制約条件だけでは表しきれない複合的な制約があるというような指摘を受けたが、徹夜明けの頭はボーとしていて、何を言われたのかよく理解できなかった…
<昭和47年 統計的解析と制御>
その後にSILTACシステム誕生のベースとなるセメント・キルンの多変数予測制御の研究成果がまとめられた左記の本が出版された…
この本の巻頭言に八木原さんと私への謝辞が載っている…八木原さんはオンライン制御結果の検証や論理的な裏付けなど大いに貢献されたと思う。
一方私は中川さんの原稿整理を手伝った程度であったが、極太の万年筆で書かれた字は、斜めに傾いた癖字で、おまけに旧仮名遣いのため解読に苦労した覚えがある…
その過程で何枚か手書きの図面を作成したが、その図面がそのまま本に載ってしまった…
私は、大した貢献をしていなかったと今でも思っております…
この「統計的解析と制御」に書かれている内容は難しく、簡単に説明できないが、実際の手順は3分間隔で収集されたセメント・キルン(窯)のデータを時間のずれを考慮した変数相互の相関係数を計算し、それを基に多変数予測モデルを同定する…そのモデルに3分ごとに計測されたデータを当てはめて、数分先を予測し最適な制御量を算定して出力することでプロセスが安定するように制御してゆくシステムである…
赤池先生は、そのモデルを選定するための指標としてFPE(最終予測誤差ミニマム)の算出方法を考案された。
このFPE指標の有効性は、各方面で高く評価され、その後AIC(赤池情報量基準)へと発展し、普遍的な情報量基準として世界中に知られることになった…そのような背景もあり、この「統計的解析と制御」は英訳されて出版されることになった…その翻訳は赤池先生の娘さんが行い、先生は専門的な用語の説明をしただけだと語っていたのを伺ったことがあった…
<昭和50年 生コン工場システム>
その後、中央研究所のコンピュータ部門は事務処理計算機部門に統合され情報システム部となった…
丁度バブル経済が始まった頃かとも思うが、セメント需要も右肩上がりの成長期に入り、コンピュータを活用した合理的な企業経営が指向されるようになってきた。そんな背景もありコンピュータを活用した「生コン工場総合管理システム」の開発プロジェクトが立ち上り、秩父生コン社、JEM社、JES社からもメンバーが選出され委員会が組織された…
当時、宇部セメントの生コン工場で計算機が使われているというので、委員会として見学に出かけた…
見学したことで、システム化構想のイメージを固めることできた…
特にディスプレイ画面上で出荷予定、配車、計量、混練り、出荷の状況を表示できる設計は、現在の配車管理システムでも踏襲されているようだ…ただ、当時のディスプレイ画面はアセンブラー言語でしか制御できず外部プログラマーに依頼するしかなかった…
計算機は FACOM U‐200が選定され、G君、O君と共に富士通の蒲田シスラボに通い数か月間研修した…OSは IBM 1800のタイム・シェアリング・システムとほぼ同じであった…開発言語はにFORTRANが使えたが、入力は穿孔テープだった。
最初は戸惑ったが、次第に文字を読み取れるようになった…
まず本郷分室に計算機が搬入され外部協力会社の技術者と一緒に設計・開発を進め、ほぼ出来上がったところで秩父生コン浦和工場に移設された。
計量装置等の外部機器に接続して運転してみると、画面操作のレスポンスが悪く設計変更を余儀なくされた…当初、落雷による停電後の再スタートを考慮し都度データをディスクに書き込んでいたが、そのデータをメモリーのシステム・コモンとすることでレスポンスを確保できるようなった…
当時の計算機 U‐200 のメモリーには磁気コアが用いられていたので、電源がダウンしてもデータは磁気コアに保持されていた…そのシステム・コモン・データを再度読み込むことでリスタートできることが判った…
ここまではサラリとしたお話だが、実はG君、O君と三人で大変な生活でした…当時は生コンの出荷は旺盛で、システム運用が終了した22時過ぎから、その日に準備しておいたシステム変更を始める訳だから…深夜3時頃に帰宅。
子供の寝顔を見てウトウトしていると6時頃にシステムが動かないから出荷できない、直ぐ来てくれと電話。寮のG君を起こして車で…こんな生活が…
特別な記憶は、O君が結婚式の前日に彼の担当していたプログラムの修正作業が間に合わなくて、私が代行することになったのだが、とうとう徹夜になってしまった…朝帰りで、慌てて風呂に入って彼の結婚式場に駆け付けた…
その後、 テスト・プラントでのシステム運用も軌道に乗り、システムをIBM S/1に移植して、G君とO君が関係会社生コンへの普及を進めていった…
<昭和53年 埼玉事業所 生産部>
この年の5月半ばに秋田の父が倒れたとの連絡が入り急遽帰省した…父は小康状態が続き6月17日に亡くなるまで父親に付添った…中川さんに感謝です。
戻って来ると秩父への転勤が決まっていて、八木原さん、Ⅿさんと三人が工場の「生産管理情報システム」の設計のため8月に秩父の下宮地社宅に引っ越した…Ⅿさんと私は各工場のヒアリングに廻り、その結果を踏まえた情報システムのグラウンド・デザインに取り組んだ…その過程でIBM社の東SEの支援をいただきCPS(カスタマー・プラニング・セッション)という会議手法を体験し、後に大いに活用させてもらった…
こうして作成した設計書を持って現場への説明を終え、予算化の申請を行ったが、中々承認を得ることができなかった…そんな中、第1工場の出荷でコンタミ事故が発生し大混乱となってしまった…タラレバの話になるが、システムが完成していたらと悔やまれた…
<旧埼玉事業所> <新築の埼玉事業所>
<昭和55年 システム綜合設立>
秩父セメント(株)から分離独立して8月にシステム綜合開発(株)が設立され、同時に秩父事業所が開設され、そこに所属した…
こうして親会社へのサービスを継続しつつ外部の新規顧客を開拓したり、新規にシステムの商品化に目が向けられるようになっていった…
ここまで話が長かったが、新規システム商品化の一つとして「SILTAC」が誕生することになる…
<昭和57年 SILTAC 販売開始>
しかし最初に中川社長から示された開発コンセプトは、セメント工場の各工程のシミュレートを可能にするシステムであった…毎週、八木原さん、A君と本社で打合せを行ったが、中々具体的な構想に辿り着かなかった…
そんな時にG君が提案したアイデアは、セメント・プロセスだけでなくどんなプラントにも対応できるような汎用的なシステム構築であった…中川社長も大いに賛同し、開発の方向性が定まっていった。
そこで「ダナミック・システムの統計的解析と制御」赤池弘次、中川東一郎共著(サイエンス社)の巻末に掲載されていたTIMSACを活用させていただき、そのころ出現したPCを使って対話型で解析と制御系の設計ができるようなシステムを目指そうと開発方針が具体的なった…
一般に普及し始めたソードPCではFORTRANは使えたが、画面にグラフを描くソフトは無かった…止む無く画面のピクセル(ドット)の点滅を制御するアセンブラー・ルーチンを開発し、画面をX座標、Y座標と見なしてグラフを描くことにした。
A君にそのルーチンをコールして直線、四角、三角、円、楕円を作図するサブルーチンを開発してもらうことから開発が始まった…
一方では本社のW穣にTIMSACのソースコードをフロッピー・ディスクに打ち込んでもらいながら、私は対話型で処理が進められるような画面設計に取り組んだ…開発は主に秩父事業所で進められたが、あの複雑なマトリックス演算の結果検証は八木原さんを頼るしかなかった…
今思い返せば、あんなに根気のいる作業をやり通してくださったことには、敬意と感謝しかない…
正にSILTACに魂を入れてくださったことになる…
こうして画面に演算結果をグラプ表示させながら対話型で解析作業や制御系の設計が進められるシステムが出来上がってきたが、画面出力結果をプリントアウトするソフトは提供されていなかった…
今度は画面を制御するのではなく一画面分のピクセル(ドット)を全て読み取り、それをそのままプリンターに送り出すルーチンを開発した…最初は上下逆さまに出た…
SILTACが完成し、お客さまにデモを見ていただいた…お客さまも「多変数予測制御」の必要性は現場で体感しているものの、このシステムで実現できることを実感して頂けない様子であった…
そこで水槽モデルの実験プラントを製作することになり、計測係の経験のある八木原さんが設計し、工業用計装機器を実装した水槽モデルが出来上がった…
ソードPCには、アナログとデジタルの入出力ボードを装着できたので、水槽モデルの計装に接続しコンピュータ制御が可能であるが、水槽モデルを運転するためのコンソール・ボックスが必要であった…
そこでE君の口頭仕様にて、スライド抵抗器を組み込んで製作してもらったものが、写真右側のボックスである…お客さまにこの操作卓を使って水槽モデルを運転していただき運転データを収集する。その後、そのデータを解析して「多入力多出力モデル」を同定する訳です…
同定したモデルでのシミュレーションでプロセスの動きを確認してから、最適制御ゲインを計算します…そして同定モデルで多変数の予測を行いながら最適制御ゲインを用いてオンライン制御のテストを行う手順となる…
実は、この操作卓を製作してくれたE君に水槽モデルを運転してもらいデータを収集した…ところがE君は非常に几帳面な性格で、操作量は極めてPID制御に近い線形性が保持されたデータとなってしまい、共線性が強くてモデルを同定するための統計データには適しないものでした…統計的解析には適度なノイズ(雑音)も必要なんだと学習させてもらった…
これがSILTAC のパンフレットです。言葉で説明するのは難しいシステムだったので、画面のハードコピーをはめ込み、その図を指しながら解説できるように工夫した…
最終ページにハードウェア構成を写真で載せてある…PCはソード製、プリンターはエプソン製でしたが、SSKのロゴ・マークの印刷されたシールを貼らせてもらった…
その後、丸紅社経由にてアメリカで販売したいというエンジニアリング会社があり、ソードPCを送った。
とこらがソードPCでは電波規制上問題がありアメリカでは取り扱えないというのでIBM PC にコンバージョンすことになった…
元々画面は英語表記となっていたが、私の英語力では力不足のところもあり修正が発生した…でも、G君の発案で画面表示項目はディスク上のデータを修正するだけで済むように設計されていたので、容易に対応できた…
パンフレットは日本語を英訳することで対応したが、現地ピッツバーグでのデモと解説には冷や汗を流すことになった…それから秩父セメント熊谷工場の新井氏と山本氏が「SILTAC」を活用した「キルンのオンライン制御」に関する研究発表をシカゴで開催された「ロックプロダクト」の大会で発表していただいた…私はアメリカのエンジニアリング会社が、シカゴで行った「SILTAC」のデモ展示に同行していた…
ところがアクシデントがあり、プログラムの最後に回してもらって発表することになった…結構ハラハラしたことが懐かしく思い出される…
中川東一郎社長の勧めで自動制御学会の「計測と制御」に投稿しまし論説
<昭和59年 SILTAC-55 誕生>
この頃になると日本語が使えるPCも普及してきたので「SILATAC」をIBM 5550 に移植し、客先へ出かけデモを行った…そのためには予めPCを送っておき客先でセットしデモを行った…デモが終了すると、また梱包して宅配をお願いして帰路に着くいう出のを繰り返していた…
IBMの「プロセス制御研究会」で「SILTAC」を紹介したことがキッカケで、当時のIBMが日本での発売を計画していたACS(Advanced Control System)のFORTRANインターフェースの開発を依頼された…秩父事業所からA君と新宿の住友ビルに出かけて作業した…作業が遅くなると二人でビジネスホテルに泊まるしかなかった…それでも、これが私にとって初めての外部受注作業だった…
<昭和60年 ACS導入支援と開発>
それから千葉の丸善石油化学のACS導入支援が始まり、秩父事業所から出張して行ったが、実質的にはN君に作業してもらった…
その後、コスモ石油(4工場)、昭和シェル(3工場)、住友化学、日本合成ゴム、三井化学、出光石化、旭ガラス(2工場)、チッソ石油化学、出光姫路、出光石化、ジョモ石油(2工場)、太陽石油、三菱石油、東北石油、と支援する顧客も増え、顧客から直接アプリケーション開発も受注するようになっていった…毎週のように各地のコンビナートへの出張も増えていった…
ACSと分散計装システムとのインターフェースにIBM S/1が使われ、東芝、富士電機、三菱、山武などの各計装メーカーに対応したドライバーをそれぞれ開発する必要があったのでS/1のスキルのあるG君には随分無理してもらうことになってしまった…
更に旭ガラスやジョモ石油・水島には「SILTAC」を導入していただいた…
<令和元年 SILTAC との再会>
G君のアレンジで10月19日に立川の統数研に出かけた…私が立川着時刻を1時間勘違いしてしまい心配をかけたが、G君、E君、A君と共に11時半頃に現地に到着できた…
入口には広報担当の女性職員の方がパンフレットを持って出迎えてくれた…そして案内された先には、当時は研究員だった田村さんは名誉教授になられていた…
統数研がまだ広尾にあった頃は、中川さん、八木原さんのお供で年末、年始に欠かさず赤池先生や皆さまにご挨拶させていただいておりましたが、立川に移転されてからはご無沙汰でした。それでも田村先生が私を思い出してくださり嬉しかった…
田村先生は、まず地下室の「分散コンピュータ博物館」を案内してくださった…
1950年代から年代順に整理され展示された計算機は、主に統数研で使われきたものを広尾から引っ越す時に廃棄せず、田村先生が丹念に分類されたものらしい…
この展示に興味のある方は、2時間半も見学されたそうです…
今回のメンバーで、8ビット・マイコンが出だした頃よりハードをいじってきたE君は、興味深々のようすで大いに感激していた…
残念ながら田村先生は13時から講義が入っているとのことで、少し急ぎ気味に見てまわった…
懐かしい昔のディスク・カートリッジが展示されていた…
右側の薄い方は、IBM 1800 とIBM 1130 で使っていたが、USB メモリより遥かに小容量だった…
左側の厚い方は、IBM 370-115 で使ったが、100~200MB位だったのに、親指ほどのUSB メモリでも4G程度の容量とは驚嘆ですね…
そんな技術革新を考えると、思わずため息が出てしまいましたね…
紙テープ穿孔機と読み取り装置が展示されいて、さすがに田村先生は使ったことはなかったと話されていたが、G君と私は「生コンプラント総合管理システム」の開発の時にFACOM U-200 で使ったねと顔を見合わせ、「慣れてくると紙テープも読めるようになる…」と呟き、二人で頷きあっていた…
このコーナーは、田村先生が開発してこられた「乱数発生器」のハードの数々が展示されていた…
「乱数発生器」とは、いかにも統計数理研究所を連想させる機器だなあと思いながら拝見した…
これは田村先生のご自慢のコーナーなのかも知れませんね…
1950年からの計算機が展示されており、沢山の写真を撮ったが、それを解説することができないので写真の掲載は止めました…ご興味のある方は是非見学にお出かけください…
見学メンバーが写っている写真は広報担当の方が撮ってくれました…
この写真を撮り終えて帰りがけに田村先生が、廊下の書棚のところで立ち止まって、一冊のファイルを取り出した…そのキング・ファイルの背表紙にはSSKのロゴマークのシールが貼られていた…開くと手書きの文字が現れた…
それは紛れもなく私が作った手書きのSILTAC 操作マニュアルのコピー版だったのです…
最初はどっきとしましたが、次の瞬間、何だか恥ずかしいような感情が…
<11月19日 昔の恋人と再会>
「分散コンピュータ博物館」の見学を終えて「交流アトリウム」と名付けられたロビーの目立つところのガラスケースの中に昔の恋人「SILTAC」が展示されていた…
もはや38年も前に手掛けて、可愛がって創り上げた恋人のような存在なのです…
それぞれが自分が手掛けたパーツを想い出しているようだ…
昔の恋人と再会したかのように、待っていてくれた「SILTAC」を色んな角度から懐かしく眺めていると、4階の部屋へ荷物を取りに行った田村先生が再び現れた…
午後1時から講義があるというのに「SILTAC」の仲間を大そう歓迎してくれているのだと思い嬉しかった…
そんな光景を広報の方も微笑ましく思われたのだろう…黙って待っていてくれた。
田村先生が講義に向かわれた後も、まだまだ去りがたくて…
今度は一人づつ昔の恋人「SILTAC」の横に立って写真に納まった…
この建物の正面入口を工事しているらしく、広報の方が、出口(非常出口)まで見多くってくれた…
外は秋晴れの感じで、いやに暖かかった…
私は朝の出がけに寒いだろうとコートまで着てきたが、「SILTAC」に再会した興奮もあるのだろう、コートなど不要の陽気に思えた…
岩大の電気科で良く利用する新宿の三平の個室をG君が予約してくれていた…
A君とは退社以来だが、元気そうでなにより…私はここの仲間にはそれぞれに無理を言ってきた…
A君には全国のコンビニに導入されたIBMのMMSの開発で…、
E君にはEC-OILのネット・オークシンの開発で…、
G君には生コン工場管理システムの開発とIBM ACSのドライバー開発で…
いずれも失敗の許されないオンライン・システムばかりで、気が抜けないストレスを掛けてしまったと当時を振り返り、カット・オーバー(納期)の迫った開発現場の修羅場を思い出していた…私も常に現場に立っていたが、長時間労働を余儀なくさせてしまったことは、今日の『働き方改革』からすると問題視されたに違いない…
私がそんな話をして「申し訳なかった…」というと、みんなは笑って許してくれた…
何を話しても懐かしい思い出で話は尽きることはなかった…
八木原さんと熊谷で呑んでいて、F君が眠ってしまったので、それから車で秩父のバーに出かけたことなど、今では考えられない無茶なことをやったものだと…
昨年、中川さんが亡くなられた報せを受けた時は盛岡に居て、お通夜に出られなかったので収骨まで出させてもらった…少しその様子話したかった…
火葬の前にお顔を拝見した…みんなもよく見かけた中川さんがお気に入りのチェックのブレザーを羽織っていたがメガネは掛けていなかった…
最後のお別れに「中川さん、お世話になりました…」と言ったとたんに涙がぽろぽろ出てきて…少し関西訛りの話声や色んなことがフラッシュ・バックのように…パチ・パチ・パチッと頭に浮かんでは消えた…
・・・・・・・・・・・・
二人づつお箸でお骨を骨壷にいれた…
最後に息子さんが中川さん愛用のべっ甲のメガネを…そして、あの極太のパーカーの万年筆が納められた…
骨壺に万年筆の納められ旧かな遣ひの癖字うかび来
長々と話したり呑んだりしている間に時刻が、7時を過ぎた頃「SILTACの会」をまたやろうと約束して三平を出た…
この通りのご機嫌で帰宅したら、息子がスマホで撮ってくれた…
20日の夜、G君からメールが届いた。
田村義保名誉教授とも親しくなれました。
SILTACは思ったように展示されていました。圧巻は皆さんと一緒に歓談できてとても楽しかったことです。
これも中川さんや八木原さんがSILTACを通して私達を呼び集めてくれたものと思っています。ありかとうございました。
またの機会がありましたらまた会いしましょう。
こんな再会のきっかけを作ってくれた元会社同僚のⅯさんに感謝します。
写真提供: E君、統計数理研究所 広報担当
ありがとうございました。
このブログは、記憶を頼りに思い出し、思い出し、書きましたので、年代など記憶違いがございましょうが、どうぞご容赦ください。
文責: 小 南 毅
コメントをお書きください
渡部雅幸 (金曜日, 29 11月 2019 16:23)
ほんとに 長い それにしても システム開発の情熱 若い❗️っていいネ
コスモス (火曜日, 15 12月 2020 17:41)
この項はどうせ解らないと飛ばしましたが2度見て完全にお手上げでした。
一緒に働いた方々への応援歌なのかしら?参りました。