熊谷歌集 創刊号
平成26年3月1日 「熊谷歌集」が創刊された。一人10首で何か熊谷所縁のものを短歌に折りこむようにとのことであった。私も熊谷に住んで30年以上になるが、その大半は東京へ通勤するサラリーマンであったため、熊谷に関してあまり知らなかった。そこで第4回熊谷短歌会文学散歩で訪ねた神社・仏閣を題材に短歌を作って見た。
雷電の大雷神社の門前の
あか松並木に嘶きを聞く
・関東八家の一つ成田氏が作った神社で成田左京 亮は「相模川の合戦」で足利持氏(関東公方) に賞賛される。
・雷電大権現は悪戯で駿馬の武士を驚かして落馬させると言い伝えがある。
・徳川家康も鷹狩に来ていて、社前に堤を作り目隠した跡が残っている。
梅雨晴れ間文学散歩の龍淵寺
歌碑をなぞりつつ歌読みあげてみる
・名も高き龍の淵なる古寺に
成田の鶴の法のこえこえ
・・・と詠われている
・忍城主成田氏の菩提寺で、成田家の宝物が多く残されている
・石田光成の忍城の水攻めの映画『のぼうの城』は地元を活気付けた
・徳川家康が息子忠吉公を忍城主に任じ家康が鷹狩の折に立ち寄っている
・明治維新の官軍総司令官・有栖川熾仁親王家の御祈願所に指定される
・明治時代の画家・書家の藤原晴湖・晴嵐の墓がある。
・高浜虚子が寺を訪れ 「裸子の頭剃りおり水ほとり」の句を残している
・鐘楼に新わら積みてにぎはしきみ冬とぞ思う上之のみ寺・・鹿児島寿蔵
古の写経を真似て多羅葉に
願いを記すや常光院
・藤原常光(関東国司)所縁の寺で子供の有家・ 家資は保元の乱で活躍
・孫の中条家長は鎌倉幕府の評定衆として
「貞永式目(関東御成敗式目)」策定
・現在は俳句寺として句会が開かれており朝日新聞の選者“金子兜太”句碑
「たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし」 兜太
「ふるさとの森」に指定されており、下手でも一句浮かびそうな雰囲気です。
昼食は聖天様の稲荷寿司
吟子生まれし利根の川辺で
・公許女医第1号(明治18年)
妻沼在俵瀬村に誕生。
・記念館は利根川の土手沿いで土手を超えると
私が試乗したグライダーの飛行場。
・昼食は昼食は国宝となった“聖天様境内”の名物“稲荷寿司弁当”です。
集福寺七堂伽藍の回廊を
緑彩かな風吹き通る
・永仁年中に臨済宗法燈派の本山として創立。
・鎌倉幕府から下馬礼、
豊富秀吉より殺生禁制礼を拝領。
・天正の末に徳川家康より御禁制礼、慶長9年20万石の御朱印を賜る。
・「ふるさとの森」の指定を受け七堂伽藍を結ぶ回廊も現存し佳き景観である。
・江戸から明治の五代にわたる家訓を守って地域に貢献した吉田市右衛門の墓。
・この当時の富豪・慈善家の墓碑の戒名が、“信士”であったことは意外である。
安楽寺阿弥陀がおわす九仏堂
浄土の教え今も伝える
・藤原不比等が養老元年(717年)に創建したと 言われている。
・奈良時代の古代寺古瓦が発見されている。
・九品仏堂に9体の阿弥陀仏像が安置されている。
別府城成田氏代々の城郭に
戦いはなく草生茂る
・東別府市の館跡で鎌倉時代から戦国時代に
かけて12代にわたる居館跡である。
・堀をめぐらし普段は住居で戦時は城郭をなす。
上人の眼病癒せし玉ノ井の
井戸の水面に宝珠を探す
・玉井寺は賢憬上人が開山したと言われ、
上人が眼病を患い、夢のお告げで井戸を掘り、
眼病が治ったとの伝説がある。
その井戸から宝玉が出て、水面に宝珠の形が現れるとの伝説がある。
夕映えに積乱雲の凛として
祭り囃子が梅雨明け告げむ
・熊谷の「うちわ祭り」は例年7月20日~23日 に開催される。
・その10日前ころから子供たちのお囃子の練 習が聞こえてくる。
・練習のお囃子が聞こえてくるとそろそろ梅雨明けのころとなる。
荒川に禊の姿なき今も
神輿を担ぐいでたち猛し
7月20日の早朝、遠くから『うちわ祭り』の始まりを告げる大太鼓の音が近づいてくる。そして、神主さんが馬に乗って蹄の音を響かせながら登場し、神輿の行列は静かに荒川土手を超えて水辺に陣取るのである。神輿の担ぎ手は、それぞれ荒川の水に浸かり邪気を追い払う禊を済ませ祝詞を待つ。安全祈願の祝詞を賜ると神輿に魂が宿り、ここで初めて『わっしょい、わっしょい』と大きな掛け声もろとも神輿が担ぎあげられるのである。
こんな光景を遠い昔に見た記憶があるが、近ごろは拙宅前の『梅林堂(御菓子屋)』の駐車場荒川土手に向かって、神主さんが祝詞を上げ、祭りの安全祈願の神事が行われるようになった。私の家族は、二階の窓を開け放ち毎年毎年『神輿の出動』を見送るのである。遠い昔を思い出しながら詠んだ、熊谷のうちわ祭りの歌です。