友とのお別れ
‐ 入江さんお別れを言わせて(小南)
2014年5月13日の正午過ぎに高校の後輩から親友の訃報メールが入った。彼は会社が近くよくランチを一緒にしたり旅行したりしていたので、奥さんから「今朝4時に亡くなった・・・」との電話が入ったという・・・そしてご本人の希望もあり家族葬で行うので弔問は辞退したいとのことであった・・・その夜は無性に寂しくなり一人で献杯させてもらったが、ついつい度が過ぎてしまったようだ。翌日携帯の発信メールを見たら泥酔状態で、尻切れトンボの内容で送信してしまっていた。恥ずかしい思いでしたが、早々に内容を訂正して再送しました。14日の夜2年前の高校同期会での写真をプリントしながら、どうしてもお別れを言いたくて、友達が使っていたスマホにメールをおくった・・・
「入江さんお別れを言わせて(小南)」
入江さんのスマホにお別れを言わせてもらいます。小南です。
失礼とは思うが、電話では言葉が詰まって何も言えないのでメールさせてください・・・
入江さんは高校に入学早々にスキー部への勧誘に教室まで何度か来てくれたね・・・その時以来の付き合いだね。卒業後に札幌に早大スキー部の遠征で来た時、私は浪人中でしたが、故加藤晶平君と一緒に入江さんの親戚でジンギスカンをご馳走になりました。
私が秩父セメントに入り板橋の志村社宅に居る頃、営業部と入江さんの会社とセメントのグランドでの野球をやっていたのでポットでお茶を持って行ったのを覚えているよ・・・
それ以来、いつも高校の会合に誘ってもらいありがとう。
去年の春の同期会に『検査入院』すると言ってから会えなかったが、メールで近況を伝えてくれましたね・・・入江さんの言い付けを守って
こちらからは連絡を取らないようにしました。
でも君は黙って逝ってしまった・・・
昨日の昼頃、藤原君からのメールで知ったのです。
彼の話を聞くと、入江さんもある程度覚悟を決めていたのだろうと思いましたが、それだけに切ない気持ちになったよ。
まるで古武士のように未練を人に見せず、その潔さには感服です。
でも、入江さん『小さん、会いに来いよ!』と言って欲しかったと悔やまれます。。。
今、2011年10月22日の高校同期会の写真を印刷していますが、その同期会の時は宿の無い私を同室に泊めてくれましたね・・・
翌日の朝には、二人で母校まで散歩して、私が下宿していた菅原さんの家を訪ねましたね。。。
菅原が亡くなった時は、美穂さんと三人で弔問にいったね。
昨夜は、入江さんに独りで献杯しました・・・
色んなことを次々を思い出しながら・・・
入江さん、君に何一つ不愉快な思いをさせられたことはない。
これは決して私だけでない、君を知るみんながそう思っている。
ゴメン、こんなに長くなってしまった。
○ 肺病みて逝きし親友偲びつつ 独り献杯し煙草くゆらす
○ 深々と煙草の煙吸い込みて 吐き出す煙のやるせなきかな
○ 君逝きて追悼の酒独り吞む この虚しさを誰に伝えむ
○ 泥酔を覚悟で飲みし今日の酒 幻にても君出でて来よ
○ 病む君に「会いに行こう」との企てを果たせぬままに君逝きたもう
ご迷惑を顧みず、悩んだ末メールしていまいました。
このメールは決して返信を期待して送ったものではありませんでしたが、翌日奥様からの返信が来ているのに気付いた。15日は「秩父セメントOB会」に出かける当日であったので、閉会後に高校の友人に会えるかもしれないと慌ててプリントし、昨夜印刷しておいた写真とを持って出かけた・・・新幹線の中で何度も読み返し涙した。
「検査入院」で調べたら肺癌が既に第4期まで進んでいて手術も放射線治療もできない状態であったと・・・何度か入退院して抗がん剤治療を行ったが、最終的には本人の希望で自宅療養になったと・・・
そして、外部からの電話やメールに一切でないと決めて、友達に心配かけたことをお詫びする内容で結ばれていた・・・(奥様のご了解を頂いておりませんので原文の掲載はいたしませんのでご勘弁ください。)
入江さんを弔問しました (14.6.1)
6月1日 入江さんにお別れを言いたくて弔問した。入江さんの自宅は千葉市の稲毛なので総武線沿線の美穂さんを誘って出かけた。稲毛駅に着いて”稲毛15番地”はどの辺かと駅員に尋ねたら、駅のある一帯が15番地だとうので、かえって困惑した。駅前の地図で確認したら正に駅前の一角が15番地でくくられていたのだ。最初タクシー乗って行こうとしていたが、この距離では運転手さんに叱られるところだった・・・
美穂さんがお花を用意してくれていたので、在宅かどうかを確かめようと電話したら奥様が迎えにきてくれた。やはり駅前の角を左に曲がり一つ目の路地を左に曲がった1軒目が入江さんのお家でした。門を通って直ぐの所に”御稲荷さま”が祭られていて、代々続いてきたお家であることをうかがわせた。
リビングの隣の和室の祭壇に入江さんの遺影とお骨の箱、その前に早稲田大学スキー部OBの盾、その横にホールインワンの時のゴルフボールが飾られてた。更に一番手前には入江さんが生前に愛用していたメガネ、時計、携帯電話、病院で使い始めたスマホが置かれていた。携帯電話には、入江さんがお土産にくれた湯沢駅のストラップと同じものがつけられていた・・・私が今も大事にしているストラップと同じ物だ。
『小さん、スマホを使い始めたよ。』知らせてきたスマホである。そうだ、『入江さんお別れを言わせて(小南)』と送った私のメールがこのスマホの中に記憶されているのだ・・・美穂さんも入江さんにお別れのメールをおくったと言っていたし、他にも入江さんと親しかった人がお別れの言葉を送っているかも知れない・・・
それから奥様がお別れ会で使われた入江さんのアルバムを見せてくれた。おそらく中学生の頃と思われるが、入江さんがジャンプ台から空中に飛びだした”飛形”のセヒア色した写真があった・・・入江さんの生涯の一瞬一瞬を捉えた写真を観ながら、奥様から彼の闘病生活の一部始終を聴いた・・・奥様は、時折こみ上げる涙をそっとぬぎながら・・・肺癌第4ステージの診断を受けてからの1年を言葉を詰まらせながら語ってくれた。私はこのPHに掲載している入江さんの写真を奥様に手渡してお暇することにした。そして帰るときにまた入江さんのお骨が収められている箱を両の手でそっと撫でて彼に別れを告げた・・・美穂さんもやはり手を差し伸べていた。
帰りに本八幡駅で降り、美穂さんの馴染みのお店で”献杯”した。久保田の一番上等なお酒で献杯した・・・湯沢高校1年E組で同級だった赤津さん、 大江さんも逝ってしまったし、”ビルマの竪琴”の三角山の隊長を演じた佐藤寛さんも逝っていまったし、”水戸黒”を再現させた染色家の阿部忠さんも亡く なった。そして私にとっては卒業後も親交の深かった3人を亡くなってしまった。
それは42歳の若さで、働き盛りの医者として惜しまれなが ら亡くなった加藤晶平さん・・・彼とは深い縁があり新婚旅行の途中で彼の所へ立ち寄ったほどである。そして3年前に私の下宿で兄弟のように暮らした菅原さ んを亡くした。今度は入江さんが・・・こんなにも身近な人がと思い出話に耽りながら杯が進んでしまった。熊谷に辿り着きた時は12時近くになっていた。
帰りの電車の中で、奥様から手渡された袋の中の「お礼の言葉」と書かれた挨拶状を読み、あまりにも入江さんを懐かしむ想いにかられ、再び独り泣きしてしまった。この内容を入江さん所縁の方々にも読んでいただきたいと思い掲載することにした。
『おーちゃん またね』
真面目で何事にも一生縣命だった夫
秋田県湯沢市に生まれ、幼いころから
野球とスキーに熱心に取り組んできました
早稲田大学のスキー部で出会った
気が合う仲間は生涯の友
合宿所で過ごした青春の日々を振り返っては
思い出話に花を咲かせ 温かな笑顔に
囲まれていた夫の姿を思い出します
ゴルフに汗を流し 夫の渾身の一打が
ボールを天高く飛ばしたこともありました
この4月から娘家族と同居を始めると
サッカー少年の孫をよく可愛がり
スポーツを通じた心の触れ合いを
何より嬉しがっていたものでした
平成26年5月13日 夫 入江 保也 は
70歳を以って 悠久の旅路につきました
これから余生をゆっくり楽しもうとしていた
矢先の旅立ちとなり 悔しくてなりません
再び巡り会えたときには
いつの日か訪れた奈良で
夫の隣を歩いた和やかなひと時のように
旅の続きを楽しみたいものです
数々の思い出を胸に
子や孫たちと精一杯生きて行きます
散文詩のように 綴られた奥様の心境を想い、そして入江さんの思い出に耽りながら、独り車窓を流れさる巷の明かりをぼんやりと眺めておりました。
左の写真は2013年4月に新宿に集まった『お花見会』の写真である。この時も入江さんは茂林さんと幹事役を務め、皆の世話をしてくれた。2次会に繰り出す直前に、『小さん、2次会には出ないよ。連休明けに検査入院するから・・・』と言ったのが、入江さんとの最後の会話となってしまった。
入江さんは、
イツモ ニ コニコワライ
ケッシテ イカラズ
ケッシテ ヒトノ カゲグチヲイワマズ
ヨク ヒトノ セワヲシ
ダレカラモ スカレ
イイヤツ ダッタ
と私は思う。
きっと彼は”千の風”になって、愛する人たちの周りに居てくれる永遠の人だと私は信じている・・・
2014年4月12日(土)茂林幹事長のお骨折りで恒例の「花見の会」が新宿のホテルで開催された・・・この会は例年茂林さんと入江さんが幹事役で続けられてきたが、今年は入江さんからのメールだけが出席でした。
その時は、入江さんがこんなに早く「さよなら・・・」を告げることになるとは誰も想像しておりませんでした。(5月10日松野氏の写真受領)
これは入江さんの出張旅行の報告会でした・・・この時は震災に遭われた釜石の佐藤勝雄君に会いに行ってきたと、彼の近況を伝えてくれた。
そして彼に電話をかけてくれて、彼の元気な声を聴くことができたのです・・・入江さんは仕事の関係でよく東北へ出張に出かけて、その都度中々会う機会の少なくなってしまった高校同期生の近況を土産話に持ってきてくれました。