ひかりの素足
今回はアクシデントがあり、4月以来の開催となった…そんなことももあり、参加者の人数が心配でしたが、多くの人が出てきてくれた…
「ひかりの素足」も萩原先生のお勧めの作品だが、長いので朗読をお願いすることなしで、早速皆さんの読書感想の発表から始められた…
皆さんは、口々に怖いお話だったと切りだし、前半の方言は読み難いとの感想をもらした…
確かに東北出身の私が読んでも、ひらがなをそのまま声に出してみたが、方言のニュアンスは伝わりにくいと思った…同じ意味の秋田弁のイントネーションで読んだ方が、どうもすっくり来るように感じた…
この「ひかりの素足」は、
1.山小屋、2.峠、3.うすあかりの国、4.光のすあし、5.峠 で構成され、1と2と5は方言で書かれ、3と4は標準語で描かれいる。1と2では現実の物語で3と4は幻想の中で一郎がみた夢の世界、そして目を覚まし5で現実に戻るというシナリオを賢治は意的に方言と標準語を使い分ける設定にしたのであろうか…
私は秋田の田舎育ちなので、
1.山屋 では目に浮かぶような情景が描かれていた…
まず、屋根の隙間から差し込む朝日と小屋の中で焚く榾木の煙の織りなす光景の描写は、小屋の中で眼を覚ました一郎と同じ気分になってしまった…
『日はもうよほど高く、三本の青い日光の棒もだいぶ急になりました。』など、時間の流れにも使われている…
我家の山の畑にも小屋があった…
家から1里も山に入った所の畑だったので、父は小川の畔の高台に小屋を掛けていた…私は春先に冬にいたんだ茅葺き補修を手伝ったことがある…その茅は、小屋から少し登った戸平山の萱場で秋に刈り取り、小屋の中で一冬乾かして置いたものだ…
私は手伝いながら見た小屋の骨組みを今でも概略覚えている…小屋の梁を支える先端がY字の丈夫な木を4,5本を山から伐り出して来て、それを組み上げれば、小屋の骨組みは出来上がる…あとは柱と柱を横木を結びつけ、外側を茅で葺くと写真のような小屋が出来上がる…
山の畑仕事が忙しくなる春とか秋には、父はお米とお味噌を持って山の小屋に泊まり自炊していた…近くを流れる小川は山から湧き出してくる伏流水で、手が痛くなるほど冷たく美味しかった…春に大豆と小豆を撒く頃、その小川の畔で採ったミズ(蟒蛇草)で父が作ってくれた味噌汁は美味しかった…
「お父さん、外そどで稼ぃでら。さ、起ぎべ。」と一郎は楢夫に言った…冬が近づいた山小屋の外で、おそらく炭を焼く木を伐っていたのであろう…
私の叔母の旦那も秋の採り入れを終えると、山の炭焼き小屋に入り、炭焼きを冬場の仕事にしていた…
子供の頃、ばっぱ(祖母)に連れられて水沢の叔母の所へ遊びに行き、何度か炭焼き小屋に行ったことがある。
炭を焼く窯は、山の斜面を刳り貫いたて作られていたように見えた…窯の内側には石を積み粘土を塗りこめ、斜面の上の方に煙突の穴を作ってあったと思う…そして窯の手前で作業できるように屋根がかけられていた…炭を焼くまでの作業は大変。
まず、楢などの雑木を伐り倒し、一定の長さに切りそろえ、太い幹は鉞で割る…それを窯の中に逆さまに立てて並べてゆき、焚口から火をつける。
火がつくと白い煙が出てくるが、煙が白から紫色に変わるまで燃しつづけ、それから焚口と煙突を塞ぎ、蒸し焼き(炭化)して炭をつくるのだ…
その間は山の小屋に泊まり込み、火の番を続ける必要があった…
焼きあがった炭を掻き出すのを見たことがある…ものすごくい暑さで頬っぺたがヒリヒリする程だった…
まだ真っ赤な炭に灰汁をかけて冷やす。それを炭俵に詰めて背負い、町の炭屋さんに運んで、やっと僅かばかりの現金を手にできるのだ…
叔母は時々雑炭の入った炭俵を背負ってきてくれた…
私は、楢夫の夢の話を読んだときぞくっとしてしまった…
子供の頃に新しい着物は、正月用に暮れに買ってもらえる位であった…それ以外に新しい着物といえば晒しで縫われた白い死に装束を意味していたし、それにお母さんに楢夫をお風呂に入れて洗ってやると言われたと話した時には、流石にお父さんも、それは死者を洗い清める『湯灌』のことだと察し、顔が青ざめ無理に笑った…さらに楢夫は「みんなしておりぁのどご送って行ぐて云った」とまるで野辺送りを思わせるような夢をみたと話したのだ…
2.峠 の話も良く判る…
お父さんは、馬で炭俵を運びに来た村人に子供たちを里まで連れ行ってくれと頼んだ…最初は馬の後ろについて歩いていた一郎と楢夫達が、まゆみの木のある処で、登ってきた馬の列に出くわす…実に毒があるという赤い実を着けたまゆみの木の所での遭遇は、何かを予感させるための賢治の演出なのであろうか…馬方二人が話し込んでいる間に、一郎と楢夫は馬の先にたって歩き出してしまうのだ…
谷間の道を歩いている時は、風も頭の上を吹き抜けて行くので、それほど寒さを感じない。一郎と楢夫は時々振り返ってみたが、峠も近くなったのでどんどん坂道を登った…そして峠を登り切りさら地に出たら、吹雪で辺りの景色が一変した…
二人は不安になり、大声で馬方を呼んだが、吹雪にかき消され何んの返事も帰って来なかった…
丘の上に出たので二人は、そのまま家に向かって歩き続けたが、まったく見たこともない大きな岩石に突き当たってしまった…二人は道を間違えたことに気付き引き返そうとしたが、足跡は吹雪に消され僅かな堀のようにみえるだけだった…吹雪は一層激しくなり、着物の隙間から針で刺すように粉雪が入ってきた…もう身動きができなくなり一郎は楢夫を自分の毛布で包むようして抱いていた…
私も雪国育ちなので、何度か同じような体験をしたことがある…
私が冬季分校で代用教員をしていた時、土曜の午後に山を下り実家に帰った…そして日曜の夕方に山を登り分校に戻っていたのだが、吹雪があまりにも酷いので月曜の朝に戻ることにした…
翌日はそれほど荒れていなかったが、一晩の吹雪での山は全く違っていた…一面真っ白でどこが道なのか全く分からない…一歩踏み間違えると吹き溜まりの雪に腰まで埋まった…私はカンジキを取りに家に引き返した。すると冬場には鉄砲を担いでマタギをやっていた父が、一緒に行ってやると言ってくれた…どこを見ても同じように見えてしまうような景色のなかを父は迷うことなく進んでいった…おそらく山の形を目印にしていたのだろうと後になって思った…
3.うすあかりの国 は地獄、4.光のすあし は極楽と思ったが、そう単純でもなくて、どうも理解しがたい世界だった…
その辺りを萩原先生が説明してくださったキーワードを頼りに理解を深めて行きたい…
先生は、まずこんな仏教の言葉を黒板に書かれた…
十界(じっかい)
迷いと悟りの世界を 10種の領域に分けたもの。すなわち,地獄界,餓鬼界,畜生界,阿修羅界,人間界,天上界という6種の迷いの世界と,声聞界,縁覚界,菩薩界,仏界という4種の悟りの世界との総称。天台宗で説かれる。
十界互具(じっかい‐ごぐ)
十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えているということ。地獄の衆生(しゅじょう)も仏となりうるし、仏も迷界の衆生となりうるという天台宗の説。
この物語では「うすあかりの国」から「光のすあし」へとパラダイム・シフトしかのように見えるが、『十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えているということ』なのだから、同じところでの出来事だと解説してくださったのだと思う…そして『地獄の衆生(しゅじょう)も仏となりうるし、仏も迷界の衆生となりうるという』も天台宗つまり賢治が信仰した法華経の教えでもあるのだろうと思った…
一郎と楢夫が苦しんでいる時に「如来寿量品第十六」と唱えると『まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあし』の人が現れたのです…
自我偈(じがげ)(法華経寿量品)
『妙法蓮華経』の第16「如来寿量品」は最初の一句が、「自我得仏来」ではじまっているために『自我偈』とも呼ばれています。そこでは、仏は人々を救済するために仮に地上に姿を現わされたが、本来は永遠の昔から悟りを開いており、この仏の命は永遠であるという立場が取られています。そしてその仏のことを、久遠実成(永遠の昔から仏となっている)の釈迦牟尼仏と呼んでいます。そのことについてのべているのが、この第16章です。この経典は日蓮宗や天台宗の葬儀などでも唱えられています。
さて、それでは『光のすあし』は、一体だれなのかという疑問に萩原先生は、次のような言葉を解説してくださった…
久遠実成(くおんじつじょう)
歴史上のブッダガヤーで悟った釈迦は仮の姿で,久しく遠い過去に実際に悟りを開き成仏し,以来人びとを教化し続けたのが真実の釈迦であるという法華経の説。久遠本仏,無始古仏とも称し,天台宗・日蓮宗の重要教義の一つ。浄土教では十劫(じっこう)の昔に成仏した阿弥陀仏を久遠実成の阿弥陀仏という。
菩薩(ぼさつ)
原始仏教においては,悟りを開く前の仏陀のこと。特に本生話 (ジャータカ ) では仏陀の前世の姿をいう。『舎利弗阿毘曇論』では「菩薩とは他の教えによらないで自力で悟る人,三十二相を成就している人,将来仏の十力,四無所畏などを成就する人,将来大慈を成就して転法輪をなす人」と定義されている。大乗仏教では,大乗の実践を行う人,宗教的実践をなす主要な人とみなされた。『大智度論』では仏陀の道を学ぼうとする心をもった人と解釈され,また利他行を行うものとして説かれ,大願と不退転と勇猛精進の3条件を菩薩の資格としている。声聞 (しょうもん) ,縁覚,菩薩の三乗を分類する場合には,菩薩乗を大乗としているように,大乗仏教では重要な存在である。したがって中国,日本では高徳の僧への称号としても用いられた。日本では聖武天皇が行基に菩薩の号を賜わったのを初めとする。さらに特定の機能をもち理想化された菩薩として,弥勒,観世音,大勢至,日光,月光,文殊,普賢,地蔵,虚空蔵などがあり,図像化の際には形姿や持物などによって区別される。
声聞(しょうもん)
仏教用語。声を聞く者のことで,元来は釈尊の直接の弟子をさす。また,みずから悟りを求めるとともに他を救済することを目的とする大乗仏教の求道者 (→菩薩 ) に対し,釈尊の教えを忠実に実行はするが,自己の悟りのみを追求する出家修行者,すなわち部派仏教の修行をする者をいう。
縁覚(えんがく)
仏教用語。おのれひとり悟ってよしとする孤高の覚者。教理的には十二因縁を観察して迷いを断ち真実を悟る者をいう。師なくしてひとりで悟るので独覚ともいい,音写語では辟支仏 (びゃくしぶつ) 。大乗からみれば部派仏教の徒。菩薩に対する。
萩原先生は、決してご自分の解釈を押し付けない方なのです。
先生が解説してくださったキーワードの理解に関しては消化不良ではあるが、自分なりに論理を進めてみると『光のすあし』はお釈迦さまであろうと推測するに至ったのだが…
作者の賢治は日蓮宗を信仰し法華経を深く学んでいたので、この作品にも明確な意図があったに違いない…そこで私は『この作品は、国柱会の高知尾師に仏教文学を勧められて書いたものですか』と質問した…
確かにその頃に沢山の作品を生み出しているが、大正11年11月頃のものだと話され、少年小説の『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』へと繋がって行くとも語られらた…
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)は、明治30年(1897)東京生まれ、岸田劉生に師事し絵を描いていたが、自身の病状の悪化のため画家になることを断念し、俳句に専念するようになり、病魔に苦しみ仏道に参じたという。
実は、萩原先生のお話はこの俳句の紹介から始められた…
「寂光土」と言えば「法華の浄土」で、「娑婆即寂光土」 と言われ、この娑婆世界こそが浄土であるという。
彼は、愛情溢れるゼンマイ料理を味わったとき、刹那に、彼は浄土を観たのであろう。彼は地獄の底の底で、自我を放棄できたとき、己を空じたとき、
絶望という地獄の底から浄土が湧き出てきたのだろう。そして彼は「娑婆即寂光土」という法華の浄土を悟ったが、昭和16年(1941)7月43歳の若さで逝去された…
賢治も法華経を学び、今生きている娑婆に寂光土(浄土)があるということを踏まえて、この『ひかりの素足』が書かれていることを萩原先生は伝えたかったものと思われる…
「・・・けれどもそれも何でもない、」その人は、大きなまっ白な手で楢夫の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。
『光のすあし』の手は、朴木の花の匂いがしたとあるが、蓮の花に似ているような気がする…
また、香道では『香を聞く』というが、賢治はこのことを知っていて『かすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。』と表現したのであろうか…
私は朴木の花の香は良く判らないが、朴の葉におにぎりを包んで山の畑へ持っていったので、仄かに立ち込める朴の葉の香りは懐かしく思い出される…
5.峠 ここで一郎は現実の世界へ戻ってくる…
一郎が目にしたのは、新雪に覆われた真っ白な銀世界と青い冬の空だった…この辺の情景は私も良く判る…
東北の初冬の天候の変わりようは恐ろしい…岩大にいる頃、11月初めに岩手山に登ったワンゲル部が遭難した…構内で野外合宿をやり、万全の備えで三方から登山し、山頂で合流する計画だったが、不幸にも猛吹雪きに遭遇した…いつも見慣れた岩手山が荒れ狂ったのだ…その遭難事故で4人の犠牲者を出してしまった。しかし、犠牲になったのは、一郎のように必死に後輩の1年生をかばい切った2年生だった…
まだ全体の状況を把握できぬまま、学友会の役員をやっていたので死体が安置されたお寺に駆け付けたのを思い出す…
そして現在の賢治記念講堂の二階での葬儀には、後輩を守った仲間を想い大勢の学生が押しかけた…暫くすると木造の建物が軋みだし、一階の職員が避難する騒ぎになってしまった…
その葬儀の最中に司会の私に『ご焼香の済んだ学生の流れを止めずに一階に下ろすように…』との伝言が届いた…その時私に緊張が走ったが、幕を跳ね上げ学生を祭壇横からの階段に懸命に誘導したのを思い出す…
『岩手山登山の遭難事故』の報告書は、まだ手元に残されているが、その後開くことはなかった…
でも、楢夫の哀しい結末を読んで、こんなことまで思い出してしまった…
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コスモス (月曜日, 04 11月 2019 19:24)
難しいですね。こんな難しい講義に参加なさる皆さんに敬服します。
宗教はふだん私たちには身近でなくて現状を変えるのは政治と思ってしまうのですが、それがかなわない精神の苦悩に宗教があるのかしら?むずかしいです。こんな作品が賢治さんの軸にあるのかなと自分には到底行き着けない境地のようです。