8月2日にOB会のバーベキュー大会のお知らせを受け取っていたが、7月2日に義母が亡くなり返事をしそびれていた。同郷の先輩が幹事さんだったので、前日に電話してみたら”飛び入り参加”を許してくれたので出かけてみた。
久し振りに秩父線に乗って大野原駅まで約1時間ほどである。そこは旧第二工場近くの荒川べりのオートキャンプ場であった。昭和53年から7年ほど社宅に住んでいたので、子供連れで魚釣りをした川の崖の上であった。懐かしかったので川原に降りてみようとしたが、入り口が施錠されていた・・・そこから荒川を覗き込むと前日の大雨が濁流となり、釣りをした川原は濁流に飲み込まれていた。
○児と釣りし秩父路流るる荒川は 豪雨を集め川辺を埋づめり
秩父線でご一緒したOB会の会長のご挨拶で会が始まった。そこには懐かしい方々の顔があった。偶然にも隣に大学4年の工場実習の時に私にフォートラン言語を教えてくれた先輩が居た。その頃の熊谷工場にはTRWという機械語で動くコンピュータとIBM1800という最新鋭のコンピュータがあった。このIBM1800に触れるだけで感激した時代であった。
私の指導を担当してくれた先輩は、その時第一工場の原料調合計算のプログラムを開発していた。第一工場から送られてくる石灰石、粘土などの分析結果をコンピュータに入力して、目標の指標に最も近くなるような原料の調合割合を”山登り法”で求めていた。手の動きをアナログ的に読み取る”テレメーター?”に計算結果を手書きすると社有のマイクロ回線を経由して、秩父の第一工場の現場に送られ、ペンが自動的にアナログ的になぞり文字が描き出されるのである。書き手の書体がそのまま遠隔地で再現される極めて人間臭い代物であるが、デジタル通信の発達した今日では、到底想像し難いことであろう。その後、私も原料のブレンディング計算を担当したことがる。その頃は中央研究所に所属していて、OR手法の”目標計画法”を用いて解を求めた経験がある。
『山登り法を教えてくれた先輩も今年の春に亡くなってしまったなあ・・・』と懐かしみながらビールを飲み干した。
○孫連れのOB集ひしバーベキュー 楢の木立を川風よぎる
○それぞれに団扇を持ちて扇ぎつつビール片手に語り止まずも
○あの怖き先輩すでに杖つきて微笑み語る顔に皺見ゆ
○ビール注ぎ持ちくるる後輩の髪薄くなれど若き面影
工場の前でバスが停車したので、窓を開けてシャッターを切った。
その昔、セメント製造プロセスのコンピュータ制御システムの開発プロジェクトを受注し、その責任者として納期管理に苦戦した苦い経験を思い出した。
○送迎のバスより眺めし工場に徹夜徹夜の思い出のあり
○開発の納期遅れし工場の暗がり通ふ不安な夕暮れ
○『開発の責任とれよ』と迫りきし あの怖き顔のつぶさに浮び来
○『開発を終へねばキルン動かぬ』と声荒らげて吾を威圧せり
○次々とパーツ替えども拉致開かず ソフトの一行に原因ありき
先程の大先輩が『日本中のセメント工場で、この工場にしかない設備がある・・・』と話していたのを思い出した。それはセメントの微粉末原料を水に溶かして撹拌して調合するスラリーベースンであった。この工程を経て製造される”超早強セメント”は、何んと打設後2,3時間で固まってしまうと言うのだ。その用途は主に高速道路の補修など短時間で復旧を要する現場で使われているそうだ。
既に湿式キルンの時代は終わり、乾式のSFキルンへと移り変わった時代に、この工場では付加価値の高い特殊セメントを製造するためにスラリーベースンが活躍しているのである。私が入社した頃は、”湿式キルン全盛期”の頃で、第二工場に2本、熊谷工場に5本のキルンが稼働していたものだと懐かしく思い出していた・・・
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