こけし工房を訪ねて

 兄の三回忌を終えてくつろいでいたら、姪の娘が『こけし大好き』と言い出し、親戚のこけし工房を見に行くことになった。この家は父方のルーツでもあり、帰省した折には必ずお線香をあげに行っていた。兄が亡くなる前年のお盆も一緒に訪問し、古い写真を観ながら昔話を聞いた・・・

 こけし作家の三郎さんは兄と同級生で、兄よりも三日前に生まれたと言っていた。彼は宮沢賢治が好きで、居間に賢治の写真と”雨ニモマケズ”の手ぬぐいがのれん替わりに飾られていた。私の一家が火災にあった時には、牛小屋を改造して提供してくれたし、一緒に行った姪二人も兄夫婦と2階に住まわせてもらった。こんなご縁もあり、私が岩大に在学中に花巻に立寄り賢治の記念碑の拓本をとってお届けした覚えがある。

 戦後、農村演芸が盛んな頃に賢治の『植物医師』を上演したことがあると聞いた・・・三郎さんが演出で兄が”植物医師”を演じたそうであるが、14歳も年下の私にはその芝居を見た記憶はない。その頃ガリ版刷りの文芸誌を発行し、村の若者に配っていたとも聞いた。

 若いころから農村の改革運動に取り組んできた三郎さんが、青年会の有志に推されて皆瀬村の村長さんを務めたことがある・・・その後子供たちが成長し大学に通うようになり、冬場の出稼ぎ行くようになった。そして工事現場に廃材を使って鉈削りのこけしを作り、「東京こけし友の会」の会長西田峯吉氏を訪ねて、助言を頂いたの機に本格的にこけしづくりを始めたと、数年前に発行した写真集のあとがきに書かれていた。それによると全国的に有名な木地山の”小椋久太郎氏”も同じ村内であり、刺激を受ける環境にあった。余談ではあるが、父が郵便配達をしていた頃、人里離れた木地山まで郵便を届けていたご縁で、父親と祖母とも小椋久太郎氏と交友関係にあった・・・

 そして1981年4月NHKの朝ドラ『まんさくの花』が始まり、まんさくの木で作ったこけしをNHKに送ったところ、番組後半に主人公の少女のマスコットとしてドラマに登場したと書かれていた。それに乗じて地元の酒造会社が”まんさくの花”とういう銘柄の日本酒を売り出していて、熊谷で秋田に縁のある小料理屋”善”でお目にかかったときは驚いた。その酒瓶には、こけしと同じ筆跡で”万作の花”とラベルに刷り込まれいるではないか・・・このお酒は”冷酒”で飲むと旨いです。

 

 こけし工房を見せて頂くだけと思っていた姪達は、好きなこけしを沢山いただき、その上『まんさくこけしと達磨』の写真集まで頂いて、大満足してお暇した。

 私もこの写真集を時々眺めているが、一つ一つが違う表情をしたこけしの穏やかな面立ちに、”何故か優しい心持”にさせられてしまうのが不思議である・・・