木地山はこけしの聖地

木地師 小椋久太郎の記念碑
木地師 小椋久太郎の記念碑

 人の情けをしみじみと思い出させてくれた冬季分校のあった若畑部落を離れ、くねくねと曲がった山道を登った。大人4人が乗り込んだ甥が運転する軽自動車には、少々きついかと思う程の坂道を上りつめると、新田という山間の部落に着いた。そこから少し下ったところで、小安温泉から木地山、泥湯へ向かう道路に合流し、そこから更に登って行くと”こけしの古里木地山”である。そこには木地師として数々の賞を受賞した”小椋久太郎の記念碑”があった・・・右側の説明版によると小椋久太郎の祖先は近江(滋賀県)の筒井村小椋庄の出身で、承平5年(935年)に日本全国の何処を往来しても、どの山で木を伐採しても良いという書付を公文所から貰い筒井村を旅立ったと記されていた。そして信州を経て会津若松、鳴子、鬼頭に移り住み木地師の仕事をしていたが、文化6年(1809年)の東北大飢饉を機に、ここ木地山に移り住んだと刻まれていた。

木地山こけしの工房
木地山こけしの工房

 この地で代々にわたって、椀、木鉢、ひしゃく等を挽いて暮らしていたが、久四郎の代になってから本格的にこけしを挽くようになった。久太郎も13歳のころから父親と一緒にこけしを挽くようになった書かれていた。 この木地山は皆瀬村川向字水上沢の地名である・・・明治39年生まれの小椋久太郎と同じ生まれの父は、稲庭町の郵便局に勤めており木地山まで郵便配達をしていたのであるが、その代行として祖母や兄達も学校が終わってから、犬を連れて木地山まで郵便物を運んだと聞いたことがある。まさに今日はそのルートを車で登ってきたが、その頃は細い山道を歩いて登って来た訳で、ましてや雪の冬山を思うと信じられないことである・・・泥湯への湯治客も途絶える冬場には訪れる人もなく、正に陸の孤島のようであったと思われるが、そこへ郵便物を運んだ祖母は歓迎されてたにちがいない。時には頼まれた物を買い求めてお届けする役割も果たしていたのではないだろうか・・・そんな祖母が亡くなったのは、丁度私が冬季分校の先生をしていた時の2月9日のことであったが、久太郎さんが噂を聞きつけてカンジキを掃いて真冬に山を下り、弔問に来てくれたのを覚えている。

 こんなことを思い出しながら木地山の地に立っているが、この工房かから轆轤が唸りをあげてこけしを挽く音もなく静まりかえっていた。名人小椋久太郎が亡くなってからは、その匠の技を継ぐ後継者もなく”木地山こけし”は、もはや生まれてこないのである。木地山のこの一軒家には人の気配もなく、親族は湯沢市内に移り住んでいると聞いた。そして年に数回こけしの展示会を開いて、名工が作り残したこけしをプレミア付きで譲り渡していると甥が教えてくれた・・・

人気のないこけし工房全景
人気のないこけし工房全景

 先日、こけしを作っている三郎さんを訪ねた帰りがけに『こけし時代』というマガジンを頂いた。この本は2012年12月の発行で”秋田県の木地山こけし”を中心にその一帯のこけし工房を取り上げた特集であった。勿論、三郎さんの工房も8頁にわたり掲載されていたが、何んといっても木地山こけしと泥湯温泉の記事が多かった。

 その昔、三郎さんが出稼ぎに行き工事現場の廃材を削って作った”こけし”を持って訪ねたという、こけし愛好家の西田峯吉氏がこの雑誌の冒頭に次のように書いている。『木地山の地名は木地屋が住んでいたところから起こったものだから各地に遺っているが、こけしに関して有名なのは秋田県雄勝郡皆瀬村の木地山である。頭と胴とを一本の木でつくりボリュウムがある。大きいものは前垂姿の梅花模様を描くが、小寸のものには簡単な菊を描いている。山に育った健康そのものといいたい娘ぶりを示している。(こけしの系譜)』

私の木地山こけし
私の木地山こけし

 私も今4本の木地山こけしを持っている。いずれも小椋久太郎の作であるが、これを機に手に取って膝の上で丁寧に磨いてあげたら、白木だったこけしがあめ色の光沢を放ち、それぞれのこけしが愛しく感じられた・・・

 一番小ぶりなこけしは、叔父が村役場の観光課長をしているころ土産にと持たせてくれたものである。そのとき『やがて木地山こけしは有名になるぞ。』と言っていたのを思い出す。私が小学生のころの小安温泉は”湯元”とよばれた農閑期の湯治場に過ぎなかったが、秋田県内の観光名所人気投票コンテストの時に叔父は親戚、知人に声を掛けて新聞の応募用紙による投票をお願いして、第2位にランクされ”小安温泉峡”としてデビューしたのである。余談となるが叔父と兄は飲み仲間で、申し合わせて仕事を終えて最終バスで小安温泉に出かけ、泊まり込んでしまい翌日の一番のバスで出勤するときに家の前では頭を低くして両親に見つからないようにしたものだと話していた・・・何とものんきな時代であった。

 中央の2本は、父親が亡くなったときに弔問に来ていた家内の弟を案内して木地山に行き、小椋久太郎さんに父が亡くなったことを伝え、父の命日を昭和53年6月17日と書き入れてもらったものである。帰りにはご仏前をお預かりして帰ったのを家内が覚えていた・・・

 右の少し大きめの一本は、姉の連れ合いが小学校の教師を退職した記念にと木地山こけしを挽いてもらったものである。このこけしの裏側には私の名前と送り主名、そして昭和59年3月31日、79歳小椋久太郎作と書かれている・・・

 たかが一本のこけしではあるが、そこに書かれた日付からいろいろと当時の物語が広がって来て、私にとっては一つ一つが記念碑のようなものである・・・

河原毛地獄でのスナップ
河原毛地獄でのスナップ

 木地山から更に6キロほど山道を登ると谷合に湯煙と泥湯温泉の宿が見えてくる。ここまで来たので、もう一息登っていつものように”川原毛の地獄谷”を見に行くことにした。この山の随所から硫化水素などの有毒ガスが噴出し、草木の生えない不毛の地である。川原毛地獄は南部の恐山、越中の立山と共に日本三大霊山の一つと言われている。いつ訪れても、まるであの世の地獄を連想させられ、現世で悪事をはたらいてならぬと思い知らせてくれる。柵で囲まれた遊歩道を散策することもできるが、私は谷底に降りて行ったことはない・・・

 この日は、日除けパラソルの下でおばさんがアイスクリームを売っていた。黄色とピンクのアイスクリームをへらですくい上げ、コーンカップに花形を作くる手際は良さに感心しながら、3個買って食べた。『上手だね』と褒めると、『今日のアイスは柔らか過ぎて上手くゆない』と言いながら、一へらおまけしてくれた。何処で作っているのか尋ねると、何んと男鹿半島にある工場から送られくのだそうだ。我々が子供の頃には想像できないほど物流と保冷技術が進歩したものだと感心した。

アイスを食べたら、体が冷えてきたので泥湯温泉に下りて一風呂浴びることにした・・・

秘湯泥湯温泉の三軒の旅館
秘湯泥湯温泉の三軒の旅館

 この泥湯温泉には、奥山旅館、小椋旅館、豊明館の三軒の宿屋がある。先ほど紹介した『こけし時代』という雑誌で泥湯温泉が取り上げられており、『木地山こけしは、泥湯温泉から生まれた』というタイトルで西田峯吉氏の文章が載っていた。『寒い東北地方での湯治は生活の一部であり、その湯治の土産として木地山こけしは、子供の玩具としてだけでなく大人の生活と完全に一つのものになり切ったのは、東北以外の地で果たしてその事例があるだろうか(こけしと生活)』と述べている。

 私が学生の頃は、奥山旅館と小椋旅館だけで建屋もこれほど多くなかったような気がする。湯船を覆う屋根だけの露天風呂は、誰でも自由に入浴できる湯治場の風情であった。キシリングを背負って汗だくで山から下りて来て、すのこの上で衣服を脱いで露天風呂に入ると湯治のおばさんが寄って来て、何処からきたのかとか、珍しいものでも見るようにして話しかけて来た・・・まだ若かったので目のやり場に困ったものだ。

 一日入浴券大人500円を買って奥山旅館の風呂に入った。これは道路を挟んで別棟の建屋だが、狭い脱衣場と薄暗い風呂場、そして露天風呂が二つあった。ご時世で殿方とご婦人とは分かれており、露天風呂もすだれで囲われていた・・・それでも川の方は解放されており、川と山を眺めながらじっくり露天風呂を堪能できた。ここの温泉は鉄分が多いせいか薄茶色に濁っており、正に泥湯の感であるが、昔高校時代のクラスメイトとドライブでやって来て小椋旅館の温泉に入ったときは、硫黄分の多い乳白色であったような気がする・・・この入浴券は他の旅館の温泉もはしごできるものであったが、時間もなかったので下山することにした。

 こんどは桁倉沼の脇を通り小安温泉の方に下りた。高校の先輩と美味しい蕎麦を食べた話をしたら、甥がそこに案内してくれた。ここの十割蕎麦は腰があり、ボリュームたっぷりの天ぷらを一緒にいただくと旨いよ・・・もう一軒、羽場橋を渡った橋のたもとに自前の蕎麦畑の蕎麦で打っている”こだわり蕎麦屋”も人気で、私も何度か食べたことがある。

 ここまでが秋田への帰省の旅である。実家に戻り身支度を整え、土産の稲庭うどんは宅配でと頼んで、甥に新庄まで送ってもらった。新庄は山形新幹線の始発駅だから何んとかなるだろうと思っていたが、福島まで立ち通しの混雑ぶりであった。福島で仙台からの東北新幹線と連結されるのを待ち受けて、ホームを走って乗り移った。こちらは空席が多くあり、やっと腰を下ろすことができ、大宮経由で熊谷に着いた。ところが丁度、熊谷の花火大会の日で駅は大混雑で迎えに来てもらうこともできず、反対側の出口からタクシーに乗り裏道を通ってやっと家に辿り着いたのである・・・

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コメント: 1
  • #1

    マサイチ (水曜日, 21 3月 2018 09:38)

    昭和46年7月11日彼女と轟湯温泉の帰り今は聖地としてしてその功績の跡地の
    作業場で小椋先生に心よく彼女の分と2本サインして頂いたコケシを今も大事に飾ってます。