冬季分校の先生をした懐かしの若畑

 お盆休みの最終日は新幹線も混雑するだろから、16日の午後に熊谷に帰ることにした。すると甥が午前中に泥湯温泉に行ってこようと誘ってくれて、甥の娘と息子を伴って出かけた。甥は私が昔冬季分校の先生をやったことのある若畑、新田、木地山経由で泥湯へ向かうコースを通ってくれた。

 この若畑部落で代用教員をやったのは昭和37年の暮れ11月から翌年の3月までの5ヶ月間である。37年は高校を卒業した年で、4月から自宅浪人をしていたが、母が見かねて7月頃東京の予備校へ送り出してくれた。まずは川崎で建設省に勤めていた直ぐ上の兄を頼って上京した。高校の友達も通っているという新宿予備校に通うことにした・・・入って早々に学力テストがあり順位が掲示されたが、名前も張り出されたのでまずまずの手ごたえを感じた・・・

 しかし、いつまでも兄の宿舎に居候することもできず、従弟が昔下宿していた家を紹介してもらい、一緒に伺って下宿させていただくことになった。ところが、兄が私のお金を少し増やしてやると大井競馬に出かけ負けてしまったのである。下宿に引っ越しするお金もなく途方くれて、家に電報を打つ羽目になってしまったのである・・・すると翌日の朝早く秋田から兄貴が夜行列車でやって『お前ら何やってんだ!』叱られた。それでも少しばかりのお金を置いて帰っていった・・・

 またしても、そのお金も大井競馬場に消えてしまった。最早どうすることもできず、兄と一緒に川崎市役所の前とか川崎駅で野宿(当時アオカンと言われた)し、兄が仕事から帰るまで図書館で過ごす日々が続いた。こんな暮らしに嫌気がさし腕時計と学生服を質屋にいれてお金を借り、秋田に帰ることにした。その時、上野駅でバッタリと入江さんに会ったのである。急行料金はもったいないよと入江さんを鈍行列車に誘い川崎の兄と三人で湯沢に帰ったのを覚えている。

 こうして秋田に帰ったのは8月の末頃の気がするが定かではない。あまり勉強するでもない自宅浪人に戻ってしまったのである。

50年前の冬季分校の玄関にて
50年前の冬季分校の玄関にて

 秋も深まりそろそろ雪の気配がする頃、村の教育長が突然やって来て『若畑の冬季分校の先生が見つからなくて困っているから、引き受けて欲しい。』とのことだった。教育長は母方の親戚で、家でくすぶっている私を見かねてのことだったのかも知れない・・・子供たちが帰った後は、静かな所で受験勉強もできるからと言われ代用教員を引き受けることにした。こんな経緯で代用教員をやった冬季分校がまだ残されていたのである・・・校舎の前には鬼ごっこをするほどの広場があり、杉木立などなかったはずだがと思ったが、この杉木立が50年もの歳月を物語っているのだ。遠い昔のことではあるが、古びた冬季分校の前に立ち忘れかけていた記憶が少しづつ甦ってきた。

 11月の末頃、本校の奥宮小学校での挨拶を済ませ、リュックに参考書や缶詰などを詰め込み本校から4キロ程の山道を登った。その時は教育長も同行したので、部落の人々が総出で分校に集まっていた。それぞれの家の手料理を詰めた重箱と”どぶろく”を持ち寄っての歓迎会であった・・・高校を卒業した年の二十歳前であったが、少し緊張しながらもお酒をご馳走になった。あの頃は、中学を卒業すると一人前の大人として扱われ、農作業をこなしていた時代であった・・・

50年前の冬季分校の全景
50年前の冬季分校の全景

 翌朝には子供たちが登校して来た。1年生から6年生まで18名程の生徒たちに私一人で教えることになるのだ・・・教室は一つ、隣の部屋が職員室兼、私の寝起きする部屋である。それに台所とカマドがあったような気がする。黒板の裏手が薪の倉庫になっており、薪だけは越冬するのに十分な程高々と積まれていた。この分校の教材と言えば小さなオルガンがあったが、私はオルガンを弾くことができなかったので、音楽の時間はみんなで唱歌を歌った。一年生から6年生までが1つの教室で勉強する訳ですから、1,2年は国語、3,4年は算数、5,6年は社会と言うようにして、私が教えている間は、他の教科は自習となってしまうのである・・・

 ただ、幸いなことに先生用の教科書には、大事なところとその解説が懇切丁寧に記載されており、初めての私でも的を外さずに教えることができたと思っている。何回か本校まで生徒を引率しての学力テストもあったが、決して本校生徒に引けをとることがなくほっとしたのを覚えている・・・人数が少なかったので、いざとなれば一人一人に目がとどいたのであろう。

 冬季分校に赴任して間もなく雪が降り初め、あっという間に銀世界に変わった。一晩に高学年の子供の腰よりも深く雪が積もることもあったが、年上の子を先頭にラッセルをしながら登校してくれた。そんなときにはストーブをガンガン燃して、冷えた体を温めてやった。こんな日常の中で授業が終わった帰りがけに高学年の女の子がご飯とみそ汁を作ってくれた・・・今では信じられないことであろうが、農作業に忙しい両親を助けて、女の子が夕飯の支度をしておくことは、ごく当たり前に行われていたのだ。

若畑の入り口から見た集落
若畑の入り口から見た集落

 この集落の方々から頂いたご親切は忘れられない・・・この集落は峠を越えると山々に囲まれた窪地に7,8軒点在している。今では軒先まで車で行ける広さに舗装されているが、当時は畦道伝いの細い道がそれぞれの家々に繋がっていた。ですから新雪が積もってしまうと、何処が道なのか私には全く判らなくなってしまった。こんな夕暮れのは、真綿の様な白い雪景色の向こうにポツリポツリと灯りが点り、まるで狐火を眺めているような寂しい世界となる。こんな夜に子供がやってきて『先生、湯こさヘーテタンセ(入ってください)』と誘ってくれるのだ・・・お誘いに甘えて出かけて行くと夕食のお膳を用意して迎えてくれた。長い冬を越えるために漬け込んでおいた蕨やキノコの料理に鰰の麹漬けなどの心尽くしのご馳走である。時には”鯨の生肉”が出てきた・・・当時は冷蔵庫などないころであるが、冬場の雪室がその代用となる。家族みんなと炉辺を囲んで食事をしていると、その鯨の肉が解け出し赤い血がお皿に浮いた・・・そのため今では貴重品の鯨のお肉に箸をつけられなかったのが心残りである。

 夕食を頂いてお風呂にはいると『先生、ぬるぐにゃあが・・・』と子供が五右衛門風呂を燃してくれる。蛇口を開くとお湯が出てくる時代に比べると何んとのどかなことよ・・・この山間の部落に電気が通ったのは、私が小学5年の頃たったと思う。そうこうしている内に吹雪になると『先生、泊まってぐんだ(泊まっていったほうが良いよ)』と声をかけてくれるのである。泊まらせていただくと、敷布団3枚に掛布団5枚もかけてくれるので、布団のなかで圧死しそうなほどである。その上瀬戸物の湯たんぽを布団の中にいれてもらい、体も心もホカホカになって眠った・・・湯たんぽには電気毛布とは違う温もりを感じる。翌朝、朝食を頂いて子供と登校するころには、学校まで雪を踏んで道を作ってくれていた。

お風呂を頂いたお家
お風呂を頂いたお家

 部落の人はまるでお風呂当番のよに、私を招いて夕食とお酒まで振る舞ってくれた。時には、夕食のおかずにと漬物や煮物を届けてくれる子供もいた・・・ラジオもテレビもない独り住まいも決して寂しくはなく、毎日宿直日誌に”特に異常なし”と書いて一日を終えた。

 授業を終えた土曜の午後、雪道をスキーで下山して家に帰った。そして日曜の夕方に分校に帰るのが常であったが、ある日猛吹雪になってしまい翌朝早く出かけることにした。幸い吹雪も止み晴れたので急いで出かけたが、村はずれから山道に入ったらあまりに雪が深くカンジキをとりに戻った・・・そして再びラッセルをしながら進んだら、電柱が雪に埋もれて僅か1メートル程の高さになっていた・・・いつもの道はどの辺りなのか見当もつけ難く途方にくれていたら、後ろから父親が心配して追い付いてきた。アオシシの背当てを着て単発式村田銃を担ぎ、手に雪べら(木製スコップ)を持っていた。父親は冬場は猟師をしていたので、雪山での方向感覚は鋭かった。こうして父親の先導でやっと分校に辿り着いたときは、11時近かったかも知れないが、雪国ではよくあることだと村人は多目に見てくれていたようだ・・・

 この日は、昨日の吹雪が嘘のように晴れ上がったので、子供たちと雪遊びをしながら、雪山に父親の姿を追った。真っ白な山の上の方に豆粒ほどの黒い人影が僅かに動くのが見えた・・・その内にズドーンと一発の銃声が山間の部落に鳴り響いた。それからしばらく時間が経ち、午後の授業も終えた頃、父親は白い山ウサギを背中に括り付けて山を下りてきた。

分校の近くに大きな家が・・・
分校の近くに大きな家が・・・

 こんな受験生にも国立一期校の試験日がやってきた。本校の先生方も私を応援してくれて、受験の時は代わってあげると言ってくれたが、まだ春休み前だったので受験を断念した。何人かの先生が町の旅館で私の激励会を開いて励ましてくれた。春休みに入り二期校の弘前大学の医学部を受験したが、良い知らせはなかった・・・当然のことであろう。

 こうして3月末に冬季分校の代用教員の任務は終わった。いよいよ分校を引き上げるときには、高学年の子供が3,4人やって来て私の荷物を手分けして背負って山を下りてくれた・・・母が用意しておいてくれたノートと鉛筆をお礼に上げると子供たちはまだ雪の残る4キロの山道を帰って行った。

 あれから50年以上も年の瀬を経てこの若畑部落に来て、村の人々に頂いた様々なご厚意が思い出される・・・でも、この冬季分校を去る時に、それぞれのお宅にお礼のご挨拶をしていなかったことが悔やまれる・・・