小雨の降る中、熊谷から新幹線に乗り羽田に11時半頃到着した。うろうろしながらJTBから送られてきた書類を航空券に替えようとしていたら、大川さんに会った。彼が、2次元バーコドを端末に読み込ませて手続きをすませてくれたが、それから搭乗手続きをする所で問題が発生である・・・手荷物検査で金属反応・・・上着を脱ぎベルトまで外して、3度ほどチェックゲートを潜りボデーチェックされ、次第にイライラしてきた・・・そしてバッグにライターが4個も入っていると言うのだ。自分にはあまり覚えていないが、出かける度にライターをいれたらしい・・・カバンの中を引っかきまわして4個目のライターを探し出したら、飛行機には1個しか持ち込めないので残りは没収するというのだ・・・私の検査を待っていてくれた山下さんと市川さんが1個ずつ持ってくれたが、それでも2個残ってしまう。そこで若い検査官に「私物だから自宅に送っておいてくれ。」とからかったら、少し困惑したようであった・・・ライターなんかたいして惜しくなかったが、余りにも念入りに検査されたので、そのお返しをしたかっただけなのである。
それにしても搭乗検査は厳しくなったものだ。このカバンの中身は昔も今も大した変わりはないはずで、以前は難なく検査を通っていたのにと、9.11のテロ事件を思い出していた。
それから東京組と落ち合って、生ビールを飲み、かき揚げ蕎麦を一杯食べて函館行に乗り込んだ。発つ時は曇り空から小雨がぱらついていたのに山形上空で緑がかった水をたたえた蔵王のお釜が綺麗に見えた・・・暫くして鳥海山と男鹿半島が見えるとアナウンスされたので、覗いて見たが、残念ながら雲の下であった。
空港から桜井さんが手配してくれたマイクロバスに乗って”啄木亭”に向かった。そこには女鹿さんと伊藤さんが受付をやってくれていた・・・武田さんが快く受付を代わってくれたので、荷物を預け再びマイクロバスとタクシーに分乗して、念願の”啄木遺跡巡り”がスタートした。タクシーには、桜井さん、女鹿さんと三人で乗り込んだ。まずは近くのローソンで桜井さんがカンビールを仕入れて配ってくれた。女鹿さんは拘りの銘柄を買って走り出すと、流石に観光地のタクシードラバーは、すらすらと函館を紹介しながら、青柳町へ向かってくれた・・・その話口調に昔懐かしい”北海道弁”を感じながらサッポロ黒ラベルをグビリと飲んだ。
着いてみると、そこは函館山に近い丘で、”啄木が住んでいた”との看板があるだけであったが、この路地の奥に啄木を慕う文学青年たちが夜な夜な集まって来て、番茶でもすすりながら熱弁を振るったのかとトキメキを感じた。彼ら同人8人は『紅苜蓿(べにうまごやし)』という文芸誌を発行していて、その主宰者の大島経男(明星の同人)が啄木に依頼し3篇の詩を載せていたのだ。おそらく、それが縁で啄木は函館へやってきたのであろう。この仲間には、運命的な出会いとなる宮崎郁雨がいたし、弥生小学校の代用教員を世話してくれた小学校教諭の吉岡章三も居たのだ。私が高校時代の下宿に、夜な夜な5,6人の仲間がやって来て色んなことを話したり、歌を歌いながら夜の街を闊歩した・・・
□ 最一度声を聴きたき友は今は亡く独り居て飲む酒の苦さよ
そんなことを想いながら、啄木と仲間のことに想いを馳せていた。
○ こころざし得ぬ人々の あつまりて酒をのむ場所が わが家なりしかな
大して見るものない青柳町まで皆に付き合ってもらって、少々気が引けたが、皆と写真を撮り合ったりして、私は大満足であった。ここからタクシーに寅さんに同乗してもらった。
タクシードライバーは饒舌に観光案内をしながら立待岬へと向かった・・・そこで石川一族のお墓を見学した。
この墓石には、かの有名な歌
○東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたはむる
が刻まれており、裏側には啄木が宮崎郁雨にあてた手書きが刻まれていた。長い歳月立待岬の風雪に晒され、啄木の筆跡も判読し難かったが、家に帰ってからデジカメの写真を拡大してみると、確かに次のような一節があった。
・・・『大丈夫だ、よしよし、おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ』その時斯う思ったよ、何為で死ぬかは元より解っている。・・・
この手紙が郁雨に啄木の墓を函館に作らしめたのであろうか。などと
ぼんやり考えながら、啄木も眺めたであろう立待岬からの函館湾の眺めを思い出していた。
『坂道の多い函館山近くの住宅地にはお年寄りが残り、最近は五稜郭近郊の住宅が若者に人気がる』などとの函館事情をタクシードライバーから聞きながら、啄木が1カ月程代用教員を勤めたという弥生小学校にやってきた。ここでの教員振りに関しては、あまり知らされていないが、橘智恵子という女教師への慕情は歌にのこされている。彼女は、とても声のきれいな人だったという・・・
○ かの声を最一度聴かば すっきりと 胸やはれむと今朝も思へる
○ いつなりけむ 夢にふと聴きてうれしかり その声もあはれ長く聴かざり
○ 世の中の明るさのみを吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
○ 君に似し姿を街に見る時の こころ躍りを あはれと思へ
○ 時として 君を思へば 安かりし心にわかに騒ぐかなしさ
○ 石狩の空知郡の 牧場のお嫁さんより送り来し バタかな
○ 正月の四日になりて あの人の 年に一度の葉書も来にけり
啄木が恋した北村千恵子も啄木からの葉書を生涯とっておいたという・・・
40年も前に新婚旅行で訪れた時には何もなかったと思うが、大森浜公園に隣接して『土方・啄木浪漫館』があった。啄木の短編映画を観たあと館内を見学し、浜辺の啄木像のところで写真を撮ってっもらった・・・近くにいた山下さんに『小南、立ち位置が違うぞ!』と声をかけられた。家へ帰った確認したら、確かに新婚旅行で撮った写真は、右側にしゃんと立っていた・・・彼はHPを観ていてくれたのかと思った。ありがたいことである。
この啄木像に下には、次のような歌が刻まれていた。
○ 潮かをる北の濱邊の 砂山のかの濱薔薇よ 今年も咲けるや
この歌を観て、はまなすの花を探してみた・・・既に花の季節は終わっていたが、濱薔薇の真っ赤な実の間にたった2輪だけ咲き遅れた花を見つけてカメラに収めた。こうして啄木の遺跡を巡る旅が終るころには、暮れゆく茜空に啄木の像がシュリエットを浮かべていた。
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