朝急に”渋沢栄一記念館”に行きたいと言い出したので、カーナビにセットしてでかけた・・・途中、籠原の娘の家に立寄り娘も誘い、深谷市郊外に向かった。自宅からの距離は20キロほどでしょうか・・・カーナビを頼りに近くまで行くと案内板があり、ほどなく記念館に到着した。
「富岡製糸場」が世界遺産に登録されたのを機に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として富岡製糸場を創った深谷市の三人の偉人たちが脚光をあびて、最近は見学者も多いようである。
流石に幕末から明治、大正、昭和にかけて実業家として活躍した渋沢栄一の記念館は立派な建物である。館内に入りウロウロしていると、案内する方がやって来て、中々お目にかかれないものを見せてあげると言うのだ。まるで神社仏閣のご神体かご本尊様のご開帳でもあるかのように・・・この建物の裏側には、何故か体育館が隣接しておりバスケットコート一面ほどの広さがあった・・・この体育館の裏手に巨大な渋沢栄一像が、人目を避けるかのように立っていた。この像は、当初深谷駅前にあったものがこの場所に移設されてという・・・やはりこの場所では、案内してもらわないと、見ることはないだろうと思った。でも、ここは利根川沿いで、周りに高い建物もなく眺めは良かった。左手遠方には鋸型の妙義山、中央には裾野を広げた赤城山、そして右手遠方には男体山などの日光連山が見えた。
この写真のパネルは、渋沢栄一の実物大だそうですから、現代人に比べると背は低く小太りの人だったようである。彼は子供の頃に父親から”論語”を学び、生涯その思想に心酔し貫き通したと言う・・・人の悪口は言わず、質素を旨とし私利を捨てて、人の幸福のために働くことを生きがいとした。そして「道徳と経済の合一」をモットーとした彼は、岩崎弥太郎の「社長独裁こそが企業の活力の源泉」だとの経営理念とは生涯相容れぬものがあったようだと解説してくれた・・・
ただし、女性関係は別物で、2度結婚しているとも付け加えた。
渋沢栄一は、1840年に武蔵の国の大里の血洗島(深谷市)の豪農の長男として生まれた。時代は幕末で坂本竜馬や陸奥宗光などと同じ時代の人物であったが、一橋家に仕官し15代将軍の慶喜の弟昭武の随行としてパリ万博に渡欧している。この留学中にその費用の一部を株式に投資して、多大の利益を得たというが、このことが日本で初めての株式会社の創設に繋がったのであろうか・・・渋沢栄一の留学中に「大政奉還」となり、帰国した時には『明治新政府』という激動の時代であった。
彼にとって明治新政府とは、あまり良い背景とは言えなかったが、1869年に新政府に仕官し租税正になり、栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わった。明治6(1873)年、財政改革の主張が容れられず井上馨らとともに官を辞し、第一国立銀行総監査役となる。その後1896年に国立銀行が株式会社第一銀行となり、その頭取となった・・・彼が幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身も心がけたという。その後、彼が国内の起業に関わったのは500社、福祉事業は600といわれている。
富国のために地方の振興に力を注いだ彼は、秩父セメントの創設にも関わったことを思い出し、書棚に仕舞い込んであった『秩父セメント50年史』を取り出して見た・・・(1974年ー昭和49年8月3日発行)
秩父セメントの創立者諸井恒平の母佐久は、渋沢と従姉弟の関係にあり、両家は2度の婚姻で結ばれた間柄であった。また生家も深谷と本荘で、そう遠くはなかったのである。恒平は、渋沢栄一が創立した日本煉瓦製造株式会社に入り、工場運営を習得し、やがてこの会社を経営して行くことになる。建築資材も鹿鳴館時代の赤煉瓦からセメントへと移行するなか、大正9年に日本煉瓦セメント株式会社の設立を決意したが、第1次世界大戦後の混乱もあり、当時の財界事情で実現しなかったそうである。
一方、明治32年に創立された上武鉄道が大宮(秩父)まで開通し、大正6年に秩父鉄道株式会社と改められた。こうして秩父地方開発の高まる中、大正11年8月3日に渋沢栄一を伴う秩父の現地視察が行われたと記されていた。この時、渋沢翁の直筆の額に83歳と書き遺されているという・・・この8月3日は、セメント初出荷の営業開始記念日として、毎年丸の内の工業倶楽部で晩餐会が開かれ、私も1度だけ出席できたのを覚えている・・・恥ずかしながら、ナイフとフォークの洋食のフルコースは初めての経験で、隣の先輩の真似をしながら食べたことが、懐かしく思い出される。
渋沢栄一は、地方振興のために企業を起こし、その利益を社会福祉事業へと廻すという循環社会を目指した。そして日本人形を米国に贈り、友好の”青い目をしたお人形”がやって来た事で知られる”民間外交”も積極的に実践し人物で、渡米の折にルーズベルト大統領とも会見したことがあるそうだ・・・
さて今日、地方との経済格差が拡大し、地方都市ではシャター通りが増え続けている・・・安部内閣もやっと”地域活性化推進統合本部”なるものを設置し、石破大臣(地方創生担当 内閣府特命担当大臣)が担当するというニュースを見たが、その成果は何時ごろ、どのような形で出てくるのであろうか・・・などと期待しながら、見て行くしかないのである。
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