13日、申し込んでおいた”妻沼聖天山の薪能”の日がやって来た・・・運悪く台風19号が、大阪辺りに上陸したと報じられ夕刻から雨と風が強まってきた。聖天さまは何度も行ったことがあるが、雨天の会場”妻沼中央公民館”の場所は全く判らないので、少し早目の16時半ころ家をでた。次第に暗くなり雨も強くなり、私がボランティアで来ている西野の児童デーサービスの駐車場でカーナビを確認した・・・目的地をセットして再び出発したが、通り過ぎてしまった。引き返そうとしたところに食事処があったので、ここで夕食を食べることにした・・・
会場に着いた時には18時を過ぎて、ご挨拶が始まっていたが運良く、舞台の近くに席が二つ空いていた。ほどなく観世喜正氏から演目の解説があり、興味深い内容であった・・・演目の一つ”実盛(斉藤別当実盛)”とは、平家から当地の所領を預かる庄司であったが、先祖伝来の本尊を祀り”聖天山”を1179年に建てたのだという・・・この実盛は、木曾義仲が幼少の頃に助けたことがあるそうだが、義仲が挙兵し”篠原の合戦”で平家方として合いまみえることになる。実盛は70歳を過ぎて白髪を墨で染めて出陣し、打ち取られ首洗いで白髪になった実盛と義仲が対面しというのだ・・・
源平の合戦で熊谷次郎直実公に討ち果たされた平家の若武者・敦盛の話は有名である・・・この能では、合戦前夜の敦盛の姿を映しているというが、能の処作に関する知識のない私には理解できませんでした・・・
それでも私にとっては、直実公は討ち取った敦盛があまりにも若かったのを悔いて、髪を剃り逆さ馬に乗って熊谷に帰り、蓮行となり熊谷寺(ゆうこくじ)を建てて供養したという物語へと繋がって行くのである。
狂言、柿山伏は小学校の教科書にも載っていると説明してくれた。確かに、狂言はセリフがついているので、初めてでも理解できた・・・内容は、出羽三山で修業した山伏が、畑の柿を盗み食いするところから始まる。そこへ畑主がやってきて、柿の木に隠れている山伏に気付き、「烏かな」と呟くと山伏が烏の啼き声をし、「猿かな」と呟くとその真似をし、ついに鳶の真似て木から飛び降りる羽目になるというストーリーであった・・・和製のイソップ物語のような教訓が狂言として古くから演じられていたのだ。
この”菊慈童”は、本格的な能の演目であった・・・重陽の節句は旧暦の10月の13日から17日あたりだそうですが、学生の頃友達の下宿で9月9日の重陽の節句(菊の節句)に菊の花びらを盃に浮かべて、お酒を飲み交わしたのを思い出す・・・確か溝辺さんの下宿で桜井さんも一緒だったような気もするが、もはや定かではない・・・この”菊慈童”は、その重陽の節句の由来を物語っているのだと説明書きにあった。
中国の周王朝の頃に追放された少年が、霊水菊の露(酒)を飲んで700年後の魏の時代まで少年のまま生き続けたという話から、重陽の節句(菊の節句)が生まれたというのです。
この説明書に紫式部の和歌が載っていた・・・
菊の花 若ゆばかりに袖ふれて花のあるじに 千代はゆづらむ
(私は若返る程度にちょと袖を触れさせていただき、千年の寿命はあなた様にお譲りします・・・という紫式部の奥ゆかしさが偲ばれる内容だそうです。)
聖天山の薪能が終わった頃には雨は激しくなり、目的地を自宅にセットし車を走らせ、往路とは違うコースであったが無事に帰宅できた。
聖天さまは、平成20年頃から大規模な修復作業が行われた。その時、解体されたパーツが八木橋デパートに展示されたのを見学したことがある・・・釘を一本も使っていないから、無傷のままで解体できるのかと、宮大工の匠の技に感心した。
そして平成24年7月に聖天山の本堂が国宝の指定を受けた・・・以来、内部を見学するには拝観料が必要となり、実地見聞をしていない。
聖天山の薪能も、冒頭の写真にある石舞台にお能の床を敷き、篝火の明かりの中で演じられるはずっだのに・・・その幻想的な風情を思い浮かべ、楽しみにしていたのに残念なことになってしまった。
コメントをお書きください