『 風野又三郎 』を読む
第3回の賢治とあゆむ会に参加した。今回の作品は『風野又三郎』である。同名の作品は、小学3年の頃に兄の布団の中で読んで貰った記憶がある。物語の粗筋は殆ど覚えていないが、又三郎が登場するときの「どっどど どどうど どどうど どどう・・・」だけは何故か耳の奥から聞こえてくるような気がする・・・今回は遠田雅子氏が『風野又三郎と私』と題して、読後感を発表してくれた。
彼女はまず『作品からどんな色を連想しますか?』と言って、薄水色のシートを示し、彼女が想像して描いた『風野又三郎』のイラストを回覧してくれた。そして『又三郎が屋根の上で休んだ所はすぐに判ります。』と言って、水沢緯度観測所の写真の載っている本を示した。
賢治は、冷害や旱魃などの影響に苦しむ農民のために対策を研究すべく緯度と気象現象との関わりを調べる目的で、たびたび水沢緯度計測所を訪れていたそうである。ただ、賢治は観測所の顔馴染らしく、その訪問記録は残されていなかったと遠田氏は語った。
そして『風野又三郎』や『銀河鉄道の夜』の構想はこの場所で生まれたと言われている。私は初めて、これらの作品の誕生の地を知った。
さて物語では、又三郎が旅の話を通して色んな気象現象を教えてくれている。海風と陸風、気圧の差がないと駆けだせないこと、赤道から北極圏への大循環の旅、様々なサイクロンのことなどを話して聞かせるのだ・・・
サイクロンの大きいのは竜巻であり、ごく小さい風の渦巻きは見たことがあるが、”かまいたち”と呼ばれていたことは知らなかった・・・賢治が稗貫農学校の教師の時は、決して教科書を使わず、自ら用意した教材で授業したそうであるが、この物語でそのことを証明してくれているように思う。
この物語の中で、山岳信仰の山・岩手山に登る村人の話が出てくる。若い村人が、老人に向かって『引っ張るなったら、先刻たからひで処さ来るづどいっつも引っ張らが。』と言った・・・どうもこの”先刻たから”が読めないと言うことで、私が方言で読んでみた・・”先刻たから”=さきたから(=さっきからの意味)と子供のころから使っていた。
また、『なして泣いでら、うなかもたのが。』こんなのもあった・・・
”かもた”=かまう(=悪戯をした=いじめた)の方言なのだと説明した。
賢治にはは、この物語でも”他人と比べないこと”、”弱い人を見捨てないこと”、”卑怯なことをしないこと”を子供たちに言い聞かせている。今回、私は『風の又三郎』にもう一つの『風野又三郎』があることを知った。『谷川の岸に小さな四角な学校がありました。』から始まり、両方とも物語は又三郎が去って行く嵐のようすで締めくくられているのはほぼ同じであるが、物語の内容は大きく違う。休憩時間に萩原先生に尋ねたら『風野又三郎』は初期に書かれ、『風の又三郎』は賢治がもう一度書き直した作品だそうです。最初の作品での生徒は1年生から6年生まで20人であったが、34人に増やして賢治は子供たちの遊びの中に又三郎を溶け込ませて行く物語に仕上げている。実は、私は高校卒業して山の冬季分校の代用教員をやったことがある。1年生から6年生まで12,3人だったと思うが、12月から3月末の雪解けまで一緒に勉強したり遊んだりしたことがある。それは、又三郎が転校してきたときの授業風景と殆ど同じだったなあと思い出している。どちらの『かぜの又三郎』でも6年生の一郎のガキ大将ぶりは魅力的です。現代にこんなガキ大将がいたら、いじめや不登校などいないだろうと思います・・・会の終わりに、子供達の川遊びに必ず登場する”さいかちの木”は、秋田の田舎では”しゃがぢ”と言って、その実を大きな鍋で煮てその汁を洗濯に使っていたと話した。すると荻原先生が『さいかちの実を煮ると汁はツルツルしたアルカリ性の洗剤代用になるよ。』と話されたのには驚きました。
次回は7月4日に同時刻に同じ場所で『虔十公園林』が課題の予定である。
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