賢治が旅した秩父路

4月24日、秩父セメント時代の同期会が秩父の羊山の有恒倶楽部で開催されるので出かけることにした。丁度、『賢治とあゆむ会』の顧問・萩原昌好著『宮沢賢治「修羅」への旅』の秩父旅行を読んでいたので、乗り降り自由のフリー切符を買って早目の電車に乗った。秩父鉄道沿線で賢治が旅した駅を辿ってみようと思ったからである・・・賢治が秩父地方を訪れたのは、大正5年9月2日から8日迄である。賢治が盛岡高等農林学校に在学中のことで、関豊太郎教授、神野幾馬助教授に引率された23名の学生が秩父地方の地質、土壌、林業の調査を目的とした研修旅行であった。その頃の賢治は向学心に燃えていたらしく、7月30日の夜行で上京しドイツ語夏季講習会に参加していたと書かれていた・・・賢治は9月2日に上野駅で一行と合流する前に帝国博物館を見学しているが、その時の短歌が残されている。

 

 ○東京よ、これは九月の青りんご、あわれと見つつ汽車に乗り入る

 ○東京よこれは九月の青りんごかなしと見つつ汽車に乗り入る (上野)

 ○歌まろの富士はあまりにくらければ旅立つわれも心とざしぬ (博物館)

 

   <賢治・熊谷宿の歌碑>
   <賢治・熊谷宿の歌碑>

賢治一行は午後3時半頃には熊谷に到着し、松坂屋?旅館に宿泊した。その時、賢治は熊谷寺を訪れて、直実によって討たれた敦盛公の供養塔を見て詠んだ短歌と熊谷宿の夕暮れを詠んだ短歌が歌碑となっている。この歌碑は八木橋デパート前の”旧中山道跡”という大きな石碑の横手にあるがあまり目立たず、賢治の歌碑の存在をあまり多くの人に知られていないのは残念なことである。

 

 ○熊谷の連生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ

 ○武蔵の国熊谷宿に、蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日

 

    <賢治・荒川岸の歌碑>
    <賢治・荒川岸の歌碑>

9月3日、賢治の一行は秩父鉄道で寄居に向かった。そして荒川の”立が瀬断層と象ゲ鼻”などを調査しながら川をさかのぼり波久札駅まで行ったようだ。川辺に賢治の歌碑があり、その少し上流の対岸に”川の博物館”があって巨大な水車が回っている。川の博物館の前の河原はオートキャンプ場として整備されていて、舟遊びも楽しめるレジャースッポトになっている。ここは、17年も一緒に暮らした愛犬ラムに私が初めて水泳ぎを教えた所でもある。水を怖がっていたラムも泳いでボールを咥えてくるようになり、夏には家族でよくやって来た所だ。

この辺では賢治たちも舟に乗って、周辺を調査したようである・・・

熊谷短歌会文学散歩で寄居近くの荒川岸にこの歌碑を訪ねたことがある。

 

 ○はるばるとこれは秩父の寄居町そら曇れるに毛虫を燃す火

 ○つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ

 

このほかに、寄居近辺で詠んだ歌が遺されている。

 ○はるばると秩父の空のしりぐもり河を越ゆれば円石の磧

 ○豆色の水をわたせるこのふねのましろき空にうかび行くかな

 ○毛虫焼く、まひるの火立つ、これやこの、秩父寄居のましろき、そらに

 

     <波久札駅ホーム>
     <波久札駅ホーム>

この波久札駅は川に落ち込む切り立った断崖に隣接している。賢治ら一行は、このよに露頭している断層を調査しながら登って来たのであろうか・・・

昔私が秩父セメントの山岳部にいた頃、仲間5,6人でこの断崖でロッククライミングの練習をした覚えがある・・・

丁度、列車交換のために数分停車したので、ホームに降り立ち写真を撮った。

   <寄居皆野バイパス末野大橋>
   <寄居皆野バイパス末野大橋>

賢治の一行は、「末野の石切り場』近くで「絹雲母片麻岩 末野」のサンプルを採取していた言うので、その場所を聞いたり、探してみたが特定できな かった。ただ住所では大里郡寄居町末野となっているので、寄居町の近辺なのは確かだ。今では寄居皆野バイパスに末野大橋ができ、時間距離は短縮されたがトンネルが多く、荒川沿いの景色を眺めることが出来ないのは残念である。

 ともかく賢治一行は、末野の「馬茶屋」で休息をとったようである。

 

 ○山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり

 

 この歌は、「馬茶屋」の付近の土蔵群を賢治が詠んだとも言われているが、下の句を「われらもだせり」と詠んだ歌もあり、この歌を詠んだ場所は特定できないと萩原先生の書に述べられいる・・・  

  <賢治の歌碑 長瀞・養浩亭>
  <賢治の歌碑 長瀞・養浩亭>

それから賢治一行は、波久札駅から秩父線で本野上駅に行き、河原に下りて長瀞の石畳まで行ったのでしょう・・・

この歌碑は、長瀞自然史博物館を下った河原にあるが、寄居の荒川縁と同じ歌が刻まれている。


○つくづくと「粋なもやうの博多帯」

   荒川ぎしの片岩のいろ


 9月3日、一行は国神駅前の「梅乃屋」に宿泊したであろうと萩原先生は書いている。理由は、次の行程の小鹿野方面への馬車と鉄道の中継点でもあると妥当性を検証している。この研修旅行に同行していたの小菅健吉氏の歌も国神に宿泊したときの様子を詠いこんでいるとして紹介されている。

 

 ○対岸の親鼻橋の灯のあかし、荒川の流れほの白くして(国神の宿舎にて)

 ○午后四時に親鼻橋を吾立てば、蛇紋岩の岸青く立つ見ゆ

 

 それでも、私はまだ納得していなかった・・・秩父線に国神駅は見つからないし、これまで聞いたことがなかったのです。ところが同期会のスピーチでこの話をしたら、直ぐ疑問は解決した。秩父鉄道の元役員だった同期が、「現在の上長瀞駅は国神駅だった。」と教えてくれた。そして秩父地方には、地球の歴史が凝縮された容で露頭しているのだと話してくれた。そういえば、荒川沿いの岸壁から恐竜の化石が発見されたと話題になったことを覚えている。

    <小鹿野の賢治の歌碑>
    <小鹿野の賢治の歌碑>

 9月4日一行は国神から3台の「ガタ馬車」に分乗して小鹿野に向けて出発した。途中で馬車を止めて色々と調査を繰り返したようだが、賢治は直接歌に詠んでいないのは残念である。一行は小鹿野に着いて「寿旅館」に荷物を降ろし、「ようばけ」と称する新世代第3紀層の大露頭を見にいったようだ。それは赤平川に沿って忽然と現れ一驚すると萩原先生が述べている。その岸から古代の鮫の歯の化石が出土するという。

 

 ○荒川はいと若やかに歌ひ行き山なみなみは立秋の霧

 ○霧はれぬ分かれてのれる三台のガタ馬車の屋根はひかり行くかな

 ○山峡の、町の土蔵の、うすうすと、夕もやに暮れ、われらもだせり

 

  <保坂嘉内と賢治の友情の歌碑>
  <保坂嘉内と賢治の友情の歌碑>

萩原先生は著書の中で、賢治の1年後輩の親友・保坂氏に宛てた葉書の消印の日付で一行の宿泊地の検証を行っている。賢治は保坂氏に研修旅行の様子を報せたり、その後保坂氏が学校を退学し山梨の実家へ帰ってからも親友としての交流を続けたようである。

そんな二人の友情を讃えるために建立された歌碑なのでしょう。

 

 ○さわやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな    賢治

 ○この山は小鹿野の町も見えずして古の層に白百合の咲く   保坂

 

   <雨ニモマケズ 小鹿野の歌碑>
   <雨ニモマケズ 小鹿野の歌碑>

小鹿野にある賢治の3つ目の歌碑が「雨ニモマケズ」である。

埼玉大学名誉教授 萩原昌好氏はこれら賢治の歌碑の建立には深く関わって来られ、歌碑の除幕式でのスピーチの様子が多くのHPに掲載されている。余談ですが4月24日の花巻の賢治記念館のリニューアル式典にも招かれたとのことでしたので、鈴木守氏に連絡をとり萩原先生との面会の段取りを試みたが、双方の都合がつかず実現しなかった。でも萩原先生は鈴木氏の著書「宮沢賢治と高瀬露」に大変な興味を示され、ご自分の資料とも照らし合わせながら丹念に読み込んでいるとおっしゃっておりました。幸い鈴木氏は電話にて萩原先生と会話され、彼の論考に先生も賛同なされている様子だったので、コンタクトのアレンジをして良かったと思っている。

   <贄川の現在の八幡橋>
   <贄川の現在の八幡橋>

 9月5日一行は小鹿野を出発し山道を進み、途中で峡流を調査したり、馬車に乗継いだりしながら林業科の学生は造林の様子を調査したり植物の分布なども調べたようである。この旅でも賢治は歌を詠んでいて、几帳面に時間通りに整理されているようだ。その歌が2通目の保坂氏への葉書として、6日~7日9時以前に秩父局に投函されていると萩原先生が検証されている。

 

 ○かすみたる眼あぐれば碧々と流れ来れるまひるの峡流

 ○荒川の碧きはいとゞほこらしくかすみたる目にうつりたるかな

 ○あわあわとうかびいでたる朝の雲われらが馬車の行手の山に

 ○友だちはあけはなれたし薄明の空と山とにいまだねむれり

 

 次の歌は、小鹿野から贄川と荒川本流との合流地点に掛かる八幡橋を詠んだものと思われるとのことで、秩父市の山岳写真家・清水武甲千嶋寿氏の写真集で萩原先生が確認された”白き橋”は、現在は上の写真の如く変っている。

 

 ○峡流の白き橋かもふるさとをおもふあらず涙あふれぬ

 ○鳳仙花実をはじきつゝ行きたれど峡の流れの碧くかなしも

 

    <夕暮れの三峰神社>
    <夕暮れの三峰神社>

 小鹿野から、贄川沿いに植林帯や地質調査を行いながら荒川本流との合流地点に至り、山越えなので馬車を使って三峰登山口の大輪に着いたであろうと書かれあった。ここから三峰神社に向けて登り 一行25名は、9月5日三峰神社宿坊に宿泊したことが社務所の日誌に遺されている。

三峰神社のご神体は伊弉諾尊であるが大神(犬=狼)が神の使いとして祀られている。今では三峰口からロープウエーでも登れるし、直接車でも行けるようになったが、賢治一行は歩いて登ったのであろう。私も何度か車で行ったことがあるが、静まりかえった境内に神秘を感じる雰囲気だったし、夕暮れ時には大空が近くに感じたのを覚えている。

 賢治は三峰神社の神に対して畏怖と敬虔さが入り混じった気持ちを次のような歌に詠んでいる。

 

 ○大神にぬかづきまつる山上の星のひかりのたゞならなくに

 ○星月夜なほいなづまはひらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ

 ○こほろぎよいなびかりする星の夜の三峰やまにひとりなくかな

 ○星の夜をいなびかりするみつみねの山にひとりしなくかこほろぎ

 ○星あまりむらがれる故恐れしをなくむしのあり三峰神社

 ○星あまりむらがれる故みつみねの空はあやしくおもほゆるかな

 

     <影森の鍾乳洞>
     <影森の鍾乳洞>

 9月6日「快晴 盛岡高等農林学校関教授一行社降」と社務所日誌に記録されている。

一行は荒川沿いに下り、途中影森の鍾乳洞で採取した岩石標本が残されている。

私が入社した秩父セメントの創設は大正12年となっているが、昭和49年発行の50年史によると、秩父鉄道を上影森まで延し石灰石を秩父の第1工場に運んでいたようである。

この辺りの賢治の歌は遺されていないが、翌年7月26日に保坂氏がこの石灰洞に次のような歌を書き残していた。

 

 ○秩父なる影森村の石灰洞灰色の石に太字の書附      保坂

  (関さんの命によりて、我輩盛岡高農 1917.7.26 Ⅸ記)

 

 この石灰洞に書かれた日付は、その後の石灰の沈殿を計測するためのもので単なる落書きではなく、関教授が指示して保坂氏に記録させたようである・・私も秩父に住んでいる頃影森の鍾乳洞を訪れたが、かなり広い洞窟であった。

 賢治一行は影森の石灰岩標本を採取し、秩父大宮の角屋?に宿泊した。

    <野上の賢治の歌碑>
    <野上の賢治の歌碑>

 9月7日賢治一行は秩父大宮を出発して、また上長瀞駅(国神駅)で降りて、長瀞町長瀞の岩畳上にあるポットホールや長瀞町井戸にある日本一のポットホールを見たものと思われる。ポットホールとは、うず巻のために小石が回転して川底の岩石にできたなべ状の穴のことだそうだ。今でも親鼻橋の下の河原と長瀞から野上の下の河原までのライン下りが運航されているが、賢治一行も本野上まで舟で下ったのであろうか・・・

 

 ○盆地にも今日は別れの本野上駅にひかれるたうきびの穂よ

 

 一行は本野上より秩父線に乗り盛岡への帰路に着いた。そして9月8日午後12時59分に盛岡に到着したのであろうと萩原先生が検証している。

 

 萩原先生の『宮沢賢治 「修羅」への旅』を参照しながら、やっと賢治一行の秩父路の旅を終えることがでた・・・秩父線のフリー切符を使って、賢治が乗り降りした駅に降り立ってみようと考えていたが、お花畑駅までやってきてしまった・・・


 少し心残りではあったが、同期会の会場へと向かった。12月3日の秩父夜祭で山車を引き上げるのに難儀する団子坂を上り、羊山へと歩いて行くと芝桜見物の人々とすれ違った。道案内の警備員に尋ねると「8分咲き位だ。」と教えてくれた。その羊山への登り口に『牧水の滝』という小さな公園がある。

 大正9年4月7日 秩父町から妻坂峠を越えて名栗方面に向かう途中で耳にしたのが機の音である・・・

 

 ○秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に

 

 お酒を愛する放浪の歌人・若山牧水が明治45年4月親交のあった石川啄木を看取ったとき、牧水も啄木と同じで27歳であった・・・賢治は16歳で啄木の後輩として盛岡中学に在学中であった。そして啄木の「一握の砂」に影響され、賢治はさかんに短歌を作るようになっていた。


 今晩の同期会の会場「有恒倶楽部」は会社の厚生施設として、各部署の歓送迎会や従業員の結婚披露宴にも使われた料亭風の瀟洒な木造の建物であった。私も結婚式の前夜、秋田からやって来た親戚と学生時代の友人の宿としてお願いした。独身時代最後の宴会を計画したが友人の多くは当日参加となり大宴会とはならなかったが、遠い所から駆け付けてくれた仲間に感謝している。

 この建物は、料亭として使われいたそうであるが、賢治が秩父を訪れた頃には既にあったかどうかは定かではない・・・

私が入社前の昭和30年11月10日に昭和天皇が行幸され工場視察を終えて、この有恒倶楽部の洋館に宿泊されたそうである。その時に建設された洋館は遺されており、裏手に昭和天皇の歌碑(諸井寛一書)が建立されている。

 

 ○朝もやはうすうす立ちて山々はふかみつきせぬ宿の初冬  昭和天皇

 

 その後、木造の建屋は建て替えられ、有恒倶楽部は『羊山亭』として関連会社によって運営されるようになった。この洋館もセミナハウスやレストランとして使われるようになった。5年程前、この洋館で娘夫婦と昼食をとったことがある。そのときは、当時使われた陶器と銀のホークとスプーンでの”おもてなし”を受けることができた。そんなことを思い出しながら、羊山亭への急な坂道を登ったら、既に二人の同期が到着していた。まだ5時前だったので羊山公園の”芝桜”を見に行った。この公園には秩父に住んでいる頃、子供達と武甲山の写生にきたり、弁当をもってピクニックにやってきたが、その頃には”芝桜”は造園されてなかった・・・今では芝桜の季節になると大変な混雑となる。