埼玉文芸 春の集い

宮沢賢治の秩父長瀞地質旅行について   講師: 萩原 昌好氏

 『賢治と歩む会』の瀧田さんが申し込んでおいてくれたので、桶川の「さいたま文学館」にやって来た。1時半頃に到着し、ロビーで待ったが会のメンバーが現れなかったので瀧田さんに電話した。すると外の公園のベンチで萩原先生とお話しをしているというので、私は急いでそこに向かった・・・気さくな先生はニコニコ笑いながら迎えてくれた。早速、鈴木氏が送ってくれた『なめとこ山登山」のCDから10枚程プリントした写真を先生に渡した。昔、先生も『なめとこ山』に出かけたことがあると話していたし、鈴木氏の著書『宮沢賢治と高瀬露』にも興味を示されていたので彼の撮った写真をお届けした・・・先生はすぐに「ブナの幹に残された熊の爪痕」の写真に目をとめられた。そして『あの時私は淵沢川を上っていった。』と懐かしその写真をめくっていた。先生とお話しされた鈴木氏は、この方ですと教えた・・・

先生の著書『宮沢賢治「修羅」への旅』を取り出しサインを頂いた。この本の「秩父旅行」を参照しながら、『賢治が旅した秩父路』を4月24日のブログに掲載していたので、今日の講演の予習は済ませいると内心思いながら、講演会の会場に向かった・・・受付を済ませたら、講演会の時間まで地下室の特別展示場で『さいたま所縁の文人』の説明が始まっているから参加してくださいと勧められた。

 階段を下りると既に文芸員の説明は始まっていた。

大谷 藤子(おおたに ふじこ、1903年11月3日 - 1977年11月1日)は、昭和初期の女流作家。埼玉県秩父郡両神村生まれで、初期の作品の中には秩父を舞台としたものが多く、『山村の女達』では秩父の山に生きる女性たちの生活が、秩父の方言を使って生き生きと描かれています。その舞台となった旅館は今でもやっているとのことであるが、秩父に住んでいる頃には全く知らなかった。

 『宮沢賢治の秩父長瀞地質旅行について』の講演の冒頭で『埼玉に骨を埋めることを決めてから、埼玉にやって来た賢治の足跡を徹底的に調べてやろう。』と決意したと語った。そして宮沢賢治学会から派遣されて、サハリン、伊豆大島、秩父地方の調査を3年連続で実施できたのも幸運であったと語った。以来40年にもわたって検証のための調査を続け、御茶ノ水の鉄道博物館で当時の時刻表を調べて賢治一行が乗車した列車を特定したり、神田の古本屋で当時の地図を探し出し、旅程の検証を行ってきた・・・

 時には、熊谷市民ホールのプラネタリュームで大正5年9月2日夕刻の蠍座の位置を確認し、賢治の詠んだ短歌との照合まで行ってきた。また、蓮生坊(直実)の短歌の調査で熊谷寺を訪ねた時は、住職の一徹さには困り果てたそうであるが、何回も訪問している内に打ち解けて境内の見学が許されたそうである。熊谷寺は現在も一般観光客に固く門を閉ざした状態が続いている。

 更に三峰山で詠んだ短歌では『星の夜をいなびかりするみつみねの山』での9月5日の気象を熊谷測候所の記録で確認を取ったとも聞いている。一つ一つ賢治と同じ場所を廻って地質調査を行い検証を続けられたことには驚かされる。

先生の著書『宮沢賢治「修羅」への旅』を参照しながらブログを書いた時には、まだ確定できず推定の段階であった事柄が、この本が出版されてから20年が経ち、その間の研究成果として検証済で確定されたとの講演内容に胸が躍った・・・

  ただ、9月7日秩父大宮から徒歩で野上に至りポットホール(甌穴)を見学したと講演されたのが気になり、『秩父セメント50年史』を取り出し関連個所を読んでみた・・・この本によると明治32年の創立当初は上武鉄道と呼ばれていたが、大正3年に線路は秩父大宮まで延長され、大正6年に大宮町が秩父町に改称され社名も秩父鉄道と改称されたと書かれていた。大正5年9月に秩父を訪れた賢治一行は、なぜ徒歩で野上に向かったのか疑問が残る。途中に何か調査すべき場所があったのだろうか・・・このことは次回の「賢治と歩む会』で萩原先生に伺ってみることにする。

 賢治は、旅のなかで読んだ短歌を葉書に書き親友の保坂嘉内に送っているが、その消印も旅程検証の有力は手がかりであったと語った。そして保坂等とガリ版刷りの同人誌『アザリア(西洋杉)』を発行しており、その折の保坂氏に触発されて賢治は文学に目覚め、後に多くの賢治作品が生み出されたとの解説は印象に残った・・・父政次郎は熱心な真言宗の信者で、賢治が育った家庭環境には仏教の経典しかなかった。その後、盛岡高等農林での保坂嘉内との出会いが賢治の作品誕生に大きな影響を与えたことは確かであろう。

 萩原先生のお話は尽きることがなく、たまりかねた司会者が演台に駆け寄った・・・ここで講演のアゼンダの要旨をまとめておくことにする。


○ 地質学への眼を開かせたこの調査旅行は、後年の賢治に大きな影響を与え  たと思われる。

○ 岩手大学農学部には、この折採取されたサンプルがある(知らなかった)

○ 当時秩父・長瀞は古代層から新生代層までの化石標本が採取可能な場所で

  全国から地質学を研究する人が訪れた地であった。

○ 基礎資料の1つである三峰神社の「日鑑(社務所日誌)』は現在紛失状態

  (萩原先生は、探索のため手を尽くしている様子だった。)

○ 昨年(26年)小鹿野の宿泊旅館となった寿屋の主人・田隝保の日記を発見

  ・賢治一行の宿泊の手配の様子

  ・秩父大宮でに賢治一行の宿屋『角屋』の手配

  ・採取したサンプルの盛岡への発送などの記録が残されている。


この資料は大変貴重なものであるが、草書で書かれている上、自分だけのメモとして乱雑に記録されているので、1日に1枚程度しか解読でないと語っていた。でもこの日記の解読が進めば、多くの事柄が明らかになることでしょう。

第2部 埼玉大学有機農業研究会

  この研究会を指導されている埼大の本城昇名誉教授が挨拶に立った。ご専門の経済学の見地から将来の日本農業の危機を訴え、農作物の自給率の向上を唱えた。その一助として研究会で若者達と一緒にこれらの課題に取り組んでいると語った。

平成の賢治に扮するは埼大の非常勤講師・舘野廣幸である。彼は栃木県の『舘野かえる農場』で有機栽培を実践している。更に『宮沢賢治学会』、『宮沢賢治研究会』、『栃木・賢治の会』、『鎌倉・賢治の会』の会員として賢治と積極的な関わりをもって活動している。まさに、埼大の研究会は、『羅須地人協会」を設立した賢治の遺志を継承しているかのように思われる。賢治は農民芸術を広めようと自ら脚本を書き演劇を上演してきたが、埼大の研究会も賢治作品を取り上げて公演してくれた・・・

1.語り『注文の多い料理店』序

  ・青森県三戸地域の方言にて

2.紙芝居『セロ弾きのゴーシュ』

  ・岩手県花巻地域の方言にて

3.語り『種山ケ原』<ビデオによる紹介>

  ・山形県庄内地域の方言にて

これは賢治の劇『種山ケ原の夜』の中で歌われた牧歌を入れ、原体集落に伝わる原体剣舞を入れた構成であった・・・

 敢えて方言を用いた表現に賢治作品のもつ素朴が伝わって来たし、東北出身の私には、何の違和感もなく受け入れることができた。

 帰りの電車の中で、若い頃から賢治が好きで賢治の『植物医師』の劇をやったり、ガリ版刷りの文芸紙をだしたりしていた秋田の三郎さんの事を思い出していた・・・先日の手紙の中に短歌を書き込んだ紙片が入っていた。

 

○田の草をみることもなき識者らが日本の農の明日を決める  小南八郎

 

 この短歌は部落から八郎潟干拓地に移住した親戚の人が詠んだものである。この短歌の横に『第七回八郎潟短歌大会一位入賞』と記されていた。食料増産政策の旗頭として押し進められきた八郎潟の干拓、そして今は減反政策へと転じ、いたるところで雑草の生茂った休耕田を見かけるようになった・・・

 

○広大なポピー畑に囲まれて麦の育ちぬ減反の地に        毅

 

 その昔、八郎潟の干拓が進められていた頃は、この季節の用水路には荒川の水が引かれ、ポピーの花ではなく青々とした早苗が風になびき、煩いほど青ガエルが鳴いていたのかも知れない・・・そして夜には蛍が飛ぶかう・・・