『虔十公園林』 と デクノボー精神
第4回のテーマは『虔十公園林』とデクノボー精神であった。虔十は賢治自身であり、賢治の伝記であろうという人もいる。そしてデクノボーは、あの有名な『雨ニモマケズ』の一節に登場する賢治が理想とした人物像である。
このテーマに取り組んでくれたのは、当会の代表である瀧田法子氏である。彼女は、この会の企画から会場の手配、会の司会進行から会報の発行まで、全てを取り仕切ってくれるスパーウーマンである。
紙芝居の相方は、会員であり劇団シナトラの名女優として活動されている原田竹子氏である。
劇団創立20周年記念講演として作:井上ひさし演出:原田光人の「イーハトーボの劇列車」が、8月29日、30日に深谷市市民文化会館で予定されている。こちらも楽しみにしている。
虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせながら青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたヽいてみんなに知らせました・・・これが『虔十公園林』の始まりである。
『お母、おらさ杉苗七百本、買って呉ろ。』・・
『買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。』
虔十は、実にまっすぐに実に間隔正しく穴を掘ったのでした。兄さんがそこへ一本づつ苗を植ゑて行きました。その時、野原の北側に畑を有っている平二がやってきて、虔十に云ひました。『やい。虔十、此処さ杉植えるなんてやっぱり馬鹿だな。第一おらの畑ぁ日影にならな。』
虔十は顔を赤くして何か云ひたそうにしましたが云えないでもぢもぢしました。
虔十が枝打ちした杉林の下草はみじかくて綺麗でまるで仙人たちが碁でもうつ処のように見えました。そこらの中の鳥も飛びあがるようなどっとわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行ってみました。すると学校帰りの子供らが五十人も集まって一列になって歩調をそろへてその杉の間を行進してゐるのでした。虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
それから虔十はそこに立って毎日子供たちが来るのを待ちました・・・虔十は雨の日もずぶ濡れになってそこに立っていました。
ある霧の深い朝、虔十は萱場で平二といきなり行き会いました。『虔十、貴さんどごの杉伐れ。』『何してな。』『おらの畑ぁ日かげにならな。』虔十はだまって下を向きました・・・
『伐れ、伐れ、伐らなぃが。』『伐らなぃ。』
虔十は顔をあげて少し怖そう云ひました。その唇はいまにも泣き出しそうにひきつってゐました。実にこれは虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らひの言だったのです。
ところが平二は人のいヽ虔十にばかにされたと思ったので急に怒り出して肩を張ったと思ふといきなり虔十の頬をなぐりつけました・・・
虔十は手を頬にあてながら黙ってなぐらてゐましたがたうたうまはりがみんなまっ青に見えてよろよろしてしまひました。すると平二も気味が悪くなったと見えて急いで腕を組んでのしりのしりと霧の中へ歩いて行ってしまひました。
さて虔十はその秋チフスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでゐました。
次の年その村に鉄道が通り虔十の家から三町ばかり東に停車場できました。・・・そこらの畑や田はずんずん潰され家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。 その中に虔十の林だけはどう云ふわけかそのまヽ残って居りました。その杉もやっと十丈ぐらゐ、子共らは毎日毎日集まりました。
虔十が死んでから二十年近く経ったある日、その村から出て今アメリカのある大学の教授になってゐる若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰ってきました。ある日博士は小学校から頼まれて講演をしました。そして博士は校長さんと運動場ひ出て虔十の林の方へ行きました・・・
『あヽ、ここはすっかりもとの通りだ。木まですっかりもとの通りだ。みんなも遊んでゐる。あの中に私や私の昔の友達が居ないだろうか。』
『こヽは今は学校の運動場ですか。』
『いゞえ。こヽはこの向こうの家の地面なのですが家の人たちが一向にかまわないで子供らの集まるまヽにして置くものですから、まるで学校の付属の運動場のやうになってしまいましたが実はさうではありません。』・・・
『ここが町になってからみんなで売れ売れと申したさうですが年よりの方がこヽは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすことはどうしてもできないと答へるさうです。』
『ああさうさう、ありました。ありました。その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に 立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あヽ全くたれがかしこくてたれが賢くないかはわかりません。たゞどこま でも十力の作用は不思議です。こヽはもういつまでも子供たちの美しい公園です。どうでせう。こヽは虔十公園林と名をつけていつまでもこの通りに保存するよ うにしては。』・・・その林の前に『虔十公園林』と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
ここまで『虔十公園林』の物語のあらましを印象に残った賢治の言葉を拾いあげて繋いでみた。
劇団シナトラ脚本の紙芝居は、方言を交えた解り易い物語になっていて、一枚一枚の絵と語りに引き込まれしまった。
賢治は、私たちの中に潜む”善意”と”悪意”の心の動きを語ってくれているように思う。イソップ物語のように押し付けがましくはなく、物語を勧善懲悪で締めくくる訳でもなく、虔十と平二はチフスにかかり同じ頃に死んでしまうのだ。賢治自身にも内在していた善と悪について、私たちにも一緒に考えさせてくれているように思えてくる。
そして賢治の没後20年経って、賢治の作品が正当な評価を得るようになったという話にも感慨深いものがある。
紙芝居が終わって、いつものようにテーブルを囲み話し合いに入った。
冒頭に瀧田さんが、『虔十公園林』と『雨ニモメケズ』を通して ”デクノボー精神”について論考を話してくれた。海外で日本語教師の経験があると伺っていたが、木目細かい読解力に感心させられた。中でも『・・・ソウイウモノニ ワタシハナリタイ』は賢治の願望でしょうとの発言に萩原先生が『良い着想だ。』と言って解説してくれた。賢治を良く知る森荘己池、川原仁佐衛門が、『賢治は感情の起伏の激しい人だった。』と言っているように、『・・・ソウイウモノニ ワタシハナリタイ』は、賢治の自戒の言葉であろうと先生は語った。そして『イツモシヅカニワラッテヰル』は、賢治自身に対する自己制御の言葉であろうと説明してくれた。
弟清六氏が賢治の作品が詰まったトランクを持って上京し、草野心平、高村光太郎らの前でトランクを開けた時、トランクの内ポケットから出てきた手帳に『雨ニモメケズ』の詩が書かれていたという。そして手帳に上段の11.3は賢治が入会していた国柱会の田中智学氏が明治節にしようと運動していた日付に該当すると教えてくれた。更に『デクノボー』は『土偶坊』という泥人形から来ているという。詩の原文は『ヒドリノトキハナミダヲナガシ』とあり、『ヒドリ』は『日取り=日手間取り=日雇い』とも摂れるが、この詩は対の節で書かれているので、『旱り』と解釈するのが妥当でしょうと解説してくれた。
また『一日ニ玄米四合ト・・・』が、戦時中に軍隊で支給されるお米が三合x斥と決められたことに加え、配給制度が施行されていた時代には『一日に玄米三合と・・・』と原文が変更されて時代があることも話してくれた。確かに年配の会員は、口々に『玄米三合』と記憶していると言った・・・
『アラユルコトヲ ジブンヲカンヂャウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ』で、賢治は熱心な日蓮宗の信者ではあったが、科学者として客観的に物事を観察して理解すべきであると教えてくれているように思った。
萩原先生は、賢治を慕った○○という虔十のモデルが実在していたと話してくれた。私にもそういう友達がいたことを思い出した。中学に入った時に他校からやってきた生徒にメトコという愛称で呼ばれていたが、みんなからバカにされていた。でも、彼は首を左右に振りながらいつもノコニコ笑って歩いていた。彼が怒って誰かと喧嘩している姿を見たことが無い。ある日、彼が一人で便所掃除をやらされているのを見て、私が当番の連中に注意したことがある。そのこと以来、彼が私に付いて来るようにになった・・・そしてある日私の家へ泊りがけで遊びに来ることになり、母親が持たせてくれたお米一升が入った晒しの袋を風呂敷に包んで背負いながら4キロもの道を歩いてやって来た。
当時はまだ食料不足だった時代に母親が持たせてくれた心尽くしのお土産だったのだろうと今思い出している。土曜の夕方にやって来て日曜の夕方に帰って行ったのだが、彼と何をして遊んだのかは思い出すことはできない。中学を卒業してからは、彼とは会うこともなかったが、何故か気になり帰省の度に兄に尋ねると宝石工場で働いていると言っていた・・・その後、メトコは若くして亡くなったと聞かされた。
彼は、一生に一度位、何かをねだったことがあったろうか・・・一生に一度位、誰かに逆らったことがあったのだろうか・・・などと虔十に重ね合わせて思い出している。
萩原先生の話は尽きることがなく、賢治が日蓮宗に入信した理由など次回にお願いすることになった。皆さんからの感想にもそれぞれ心を打たれたが、長くなってしまったので割愛させていただきます。ゴメンナサイ・・・
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