「イーハトーボの劇列車」 の観劇

「劇団シナトラ」 創立20周年記念公演

数年前、NHK BS3でこまつ座の「イーハトーボの劇列車」が放映されたとき、花巻の鈴木さんに電話で知らせた。翌日、彼からのメールで「井上ひさしは岩手の国立釜石療養所の事務職員として暮らしていたこともあり、賢治の資料を良く調べて書かれている。」と知らせてくれた。井上ひさしは昭和25年に仙台第一高等学校へ入ったら、そこには1年先輩に菅原文太が在学していたそうである。同期会で名幹事役のO君の大先輩かと思うと何となく親しみを感じる。

 8月の「賢治と歩む会」で劇団シナトラの原田さんから、今回の『イーハトーボの劇列車』の公演を紹介してもらった。

 その劇団シナトラのHPには、次のような紹介文が掲載されていた。

『 賢治といえば、わがまちとは密接な関係にあります。賢治さんが熊谷に泊まって秩父へ研修旅行に訪れたのは、大正五年の九月初めでした。

「熊谷賢治の会」が毎夏九月頭に開催していた賢治祭は、時代の流れで会の終了と共になくなってしまいましたが、「賢治と歩む会」がその志を継続して、萩原昌好さんを囲んで活動を始めています。

今の時代に親子でよみなおしてみたい賢治さん、熊谷・寄居・小鹿野・三峰と埼玉県での足跡をたどるのは夏休みにぴったりかも。 』

 井上ひさし著「宮沢賢治に聞く」で取り上げられた賢治の上京にテーマを絞った「イーハトーボの劇列車」(宮沢賢治に聞く)を参照しながら、今回の観劇を辿ってみることにする・・・

1.農民たちの注文の多い序幕

序幕は「注文の多い料理店」のように理解し難い幕開けです。最終の場面から振り返ると、この世を旅立つ人々が、それぞれ何か呟いているようにも見えます。そして賢治が9回上京している内、妹トシが入院し、その看病に賢治と母親が上京するところから、この『イーハトーボの劇列車』は走り出して行きます。

2.大正7年12月26日上野行き急行202列車

東大付属病院に入院した妹トシの看病のために賢治と母は、この列車に乗り込んできた。

そこには西根山の山男や人買いの神野仁吉が娘をさなだ紐で繋いで乗っていた。ところが東京の学会に招かれた山男は、送られてお金で好きなお酒を飲み使い果たしてしまい切符を持っていなかった。賢治が立て替えようとしたが、その前に人買いの神野が払いお酒を山男に与えしまう・・・大正6年の冷害で、農村は娘を身売りするほど困窮していた時代背景を写しだしている。

 科学者の賢治は列車が急停車した時に危ないからと「慣性の法則」を解説し、母親を進行方向と反対向き座席に座らせる場面があった。この列車が発車すると”はなまき”と書かれたホームが上手(右)から下手(左)に移動し、列車が上り方面に向かったように見えるような効果を出していた。どうも理系の人間は演劇の内容と関係のないことまで考えてしまう・・・

 それにしても、母親役の原田さんの出番がここだけだったのは残念でした。

3.東大医学部付属病院・小石川分院

賢治の妹トシと同室の福地ケイ子は日本女子大の卒業でトシの先輩であった。見舞いにきた兄福地第一郎は三菱商事社員で、妹ケイ子をこよなく愛しおり、賢治と妹トシの関係の相似形として描かれている。

妹トシの同窓生であるケイ子を経由して、福地第一郎の口から、賢治が日蓮宗の国柱会に入会し、浄土宗の父政次郎と対立していることなどが明らかになる。福地第一郎が取り寄せたタータルステーキをトシに食べさせ度に「南妙法蓮華経」と唱える賢治のコミカルな場面もある。模造宝石製造で独立しようとしている賢治に対する資金提供を申し出てくれた福地第一郎との議論の末、激しく対立し福地兄妹が退場てしまう。

 賢治と妹トシにスポットが当てらる中、車掌が現れて「思い残し切符」を二人に手渡し暗転となる・・・

『思い残し切符』を貰った人は、3年から4年は決して死ぬことはないという。『思い残し切符』託された妹トシも、6月頃から臥床していたがについに9月に喀血してしまう。9月12日付で勤めていた花巻高等女子校を退職し自宅療養を続け、帰花した賢治の看病の甲斐もなく大正11年11月27日に賢治に永訣の別れを告げることになる。

4.大正10年1月23日 上野行き家出列車

 家出の覚悟を決めた賢治はご本尊と「日蓮上人御遺文集」を入れた風呂敷包を抱え乗り込んでくる。「なめとこ山」の淵沢三十郎が賢治に話しかけるが、お題目を唱えている賢治の返事はない。そこに人買いの神野仁吉と山男と娘が「神野曲馬団」の旗を持ってやってくる。山男が淵沢三十郎に気付き、話しかける。西根山の山男は、2年もの間人買い神野にこき使われいたのだ。なめとこ山の熊も思うように獲れなくなり、仙台の射撃大会に出ると言う淵沢三十郎を神野は密かに観察していた。賢治が力いっぱい御題目を連唱する声が響き、列車は出発して行く・・・

 淵沢小十郎はポルトガルから伝わってきたような火縄銃を使っていたはずだが、仙台の射撃大会にでる淵沢三十郎の持っている鉄砲は、どうも単発式の村田銃のようであった・・・

 5.父政次郎の上京

 本郷菊坂町の賢治が下宿した稲垣家は、昔勤めていた会社の近くで、昼休みに出くわしたことがある。それから赤門前の賢治が勤めた軽印刷の文信社は現在、眼鏡屋さんとなっているそうだが、同じ通りの『ルオー』というカレー屋さんには時々でかけた。賢治はこの稲垣家2階の6畳間で、多くは馬鈴薯と水だけの食事で、印刷屋の仕事を終えてから国柱会の布教活動をして帰った後に、1日300枚のペースで童話の原稿を書いたということだが、貧しいながら充実した日々を送っていた。

 稲垣未亡人が、内職のお手玉を作りながら『星めぐりの歌』を歌っている。そこへ父政次郎が賢治を連れ戻すために上京してきた場面である。稲垣未亡人を立会人として、浄土真宗を信仰する宮沢家を日蓮宗に改宗させようとする賢治と父政次郎の宗教問答がくり広げれる。

『日蓮大聖人は、この世をユートピアにせよと教えている。』と賢治が主張したことを父政次郎に逆手に取られ、『岩手を、花巻を、宮沢家をユートピアにせねばならぬなあ。』と切り返されろ。ついに賢治は論破されてしまう・・・

 父親を演じる座長・原田氏の演技力は抜群で、それに脇役の稲垣未亡人役の松永さんも素晴らしく、三人のやり取りに、思わず劇中に引き込まれる思いがした。観客を笑いに誘う蠅を登場させたり、父と賢治の論争を判定するために内職のおてだま(小道具)を使うなどの細かい演出にも感心した。

6.大正15年12月2日 上野行き列車

 賢治は大正15年3月に稗貫農業高校で4年間勤めた教師を辞して、百姓になることを決意し下根子の別宅で独居自炊を始めた。そして7月16日に「羅須地人協会」を設立し、11月には土壌学、植物生理学、芸術講義など範囲を広げて行く。ユートピアを築くために賢治が力をいれていた農民演劇のオペレッタにはチェロを自分で学ぶ必要があり上京する場面である・・・

 この列車に家出志願の少年が賢治の後を追ってきた。賢治は「羅須地人協会」の計画や、岩手をユートピアにする夢を語り、少年を説得しようとする。そんな賢治を監視するために花巻警察署の伊藤儀一郎が、変装して乗り込んでくる。一方、少年は『疲れてしまったのす。もう百姓は駄目だ。』と言って聞かす、人買いの神野仁吉に肩を叩かれる。風の又三郎らしきこの少年も「神野曲馬団」に入れられてしまうのであろうか・・

 演劇のシナリオに直接的には関係しないが、この上京の日付に関して花巻の鈴木氏は、『羅須地人協会の真実 -賢治昭和二年の上京ー』の著作で詳細に調査し検証結果を綴っている。彼の検証によると定説で大正15年12月2日の賢治の上京は、実は約1年後であったと結論づけている・・・更に賢治がチェロを持って上京した事実は検証できなかったとあり、この劇中でも賢治は列車の中にチェロを持ち込んでいなかった・・・

7.大正15年12月15日  賢治の下宿旅館

 賢治は変装して尾行してきた花巻警察所の伊藤刑事にエスペラント語を教えている。

賢治は、エスペラント語を広まると岩手の農民も花巻の農民も、世界中の農民と語り合えるようになるとの夢をかたる。そしてユートピアは芸術と法華経で成し得ると主張し、「自分は百姓だ。」と言い切る。すると、伊藤刑事は手帳を取り出し「午前中図書館、神田のタイピスト学校、エスペラント語の研修、そしてチェロの練習」と賢治の尾行結果を告げる。

ところが賢治は伊藤を逆に尾行し、伊藤が警察署に上り込み休憩したり花巻警察署に連絡していることを突き止め、伊藤が刑事であることを既に見ぬいていたのだ・・・

 「あなたは百姓だというが、百姓でご飯を食べていますか?」と反論する。更に「あなたは30歳になっても親がかりでしょうが・・・百姓をあまり甘くみるな。」と畳み掛ける。そして「あなたは、花巻で労農党稗貫支部を設立する資金を提供し、事務所に羅須地人協会の機材を提供している。』と賢治を尾行してきた理由を告げる。伊東刑事の旅費の半分は父政次郎が出していることも伝えた・・・賢治が、労農党の関係で花巻警察署に拘留されたときも、地元の有力者だった父政次郎が、裏から手回して一晩で釈放されたという事実もあるようだ・・・おそらく父親から、賢治を連れ戻して欲しいとの依頼を受けてきたに違いないのだ。

 しかし、賢治は伊藤刑事の手帳にあるような厳しいスケジュールをこなして、すっかり疲れ果て、病気寸前で花巻に帰ったと伝えられている。

 8.昭和6年9月20日 仙台始発上野行き

  賢治は前回の上京の疲れと、下根子の別宅での独居自炊で、しかも菜食主義を貫き、とうとう病床につき自宅での養生を余儀なくされる。やっと回復した賢治が何か仕事を始めようかと思っていたとき、「羅須地人協会」時代の賢治の肥料設計書の噂を聞きつけた東北砕石工場を経営する鈴木東蔵から炭酸石灰の土壌改良への科学的知識に関する助言を求める手紙を受け取ったのです。稗貫群一帯の土壌調査を行った盛岡高等農林の関教授の手伝いをしていた賢治は、「石灰岩抹を土壌改良や肥料として使う」事は大変有意義であると関教授から折り紙つきの賛辞をもらい、賢治は大いに発奮し、東蔵の東北砕石工場を手伝いたと打診した。ところが砕石工場の経営は逼迫しており賢治を雇い入れる余裕はなかったのです。そこで父政次郎が500円の出資を申し出て2月21日に東蔵との契約が成立し、賢治は嘱託技師となった。しかし、唯一の納品先は小岩井農場だけで、昭和6年の冷害で農村は困窮しており肥料を買うゆとりなど皆無であった。そんな中、賢治は東蔵にぼろきれのようにこき使われ、販路拡大のセールスマンとして秋田、青森、岩手を夜行列車で仮眠しながら奔走したのです。高い理想を持って飛び込んだ現実の世界は、賢治にとって正に「修羅場」の連続であった・・・

この場面は、賢治が40キロもの石灰岩抹の商品見本を詰め込んだトランクを持ち、市場開拓のために上京する列車の中である。夜行乗継の旅で疲れ果て賢治は、座席にもたれかかりながら「雨ニモマケズ・・・」を呪文のように呟いている。そこへ神野曲馬団から逃げ出してきた西根の山男、淵沢三十郎と少年が社内に逃げ込んでくる。

 賢治を見付けた山男が「この世は殺し合いの修羅の世界だ。この人は修羅の世界からどうやって逃げ出そうか、そればっかり考えていたんです。そしてたどりついたのは『ほかの人のために徹底的に自分の命をささげる。』という考えです。」というのです・・・なめとこ山の三十郎の兄小十郎は自分が殺してしまった熊にむかって『熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ。』こう言ったんだと三郎が語った。そして兄小十郎は、30頭の熊を殺してから自分も自ら熊にやられて死んでいったというのだ・・・

 三十郎と少年が、弱り切って眠っている賢治の座席に忍び寄り、「眠ったまま極楽へ行けるはずです。たとえ死ななくとも肺炎ぐらいにはなる。すぐ楽になれる・・・」とでも言っているかのように窓を開け放つのであった・・・

9.昭和6年9月25日 旅館「八幡館」

 賢治の妹トシは、肺を病んで亡くなったし、賢治も盛岡高等農林の研究生の頃、肋膜炎と診断されたことがあった。この度もやはり過労がたたり、肺炎となり高熱を出し寝込んでしまったのです。

 そこへ福井第一郎が妹ケイ子を騙した情夫の小説家を仇討とアカ狩りを兼ねてやってきたのです。ケイ子は小説家に騙され、睡眠薬自殺を計っていた。賢治は福地と12年ぶりに再会した。

 福地は、12年前の議論を思い出し「まことの力?なんだい、それは・・・」と問い詰めると、賢治は「自分がデクネボーであると思いつめて、徹底すること、それがまことの力です。人間が、自分のことを、世の中にあるもののなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなってないと思い、それに徹したとき、まことの力があらわれるのです。」と応えた・・・

  そこへ『思い残し切符』を持った赤い帽子の車掌が現れます。この『思い残し切符』には、不慮の事故やはやり病のために亡くなった人のやり残した思いが込められており、『思い残し切符』を受け取った人は、3年から4年は死ぬことはないのです。赤い帽子の車掌は、『思い残し切符』を意識がまだ回復していない福地ケイ子の兄福地第一郎に預けるために現れたのです。そして赤い帽子の車掌は笑いながら賢治を見て「あなたには、ありません。」と告げると、賢治はかすかに笑って「わかっています。」と応えた・・・

賢治は、この八幡屋で父政次郎宛ての遺書を書いたのです。

10.思い残し切符

 旅の支度をした農民たちが立って、最後の詞を語る。そこへ青い尾燈の長距離列車が入って来る・・・この列車を待っていた農民たちは、それぞれ何かぼそぼそ言っているようだが、よく聞いてみるとこんなことを言っていたのだ・・・「たぶん、私たちがこれから行くところは、明るい楽しいところではないでしょう。じめじめして暗い、怖いところだと思います。その怖いところへ、私たちを連れて行ってくれる長距離列車がもうやってきました。生の世界から、死の世界へ住所を移す間の短い時間を利用して、皆さんにお見せした劇はこれでお終いです。」そうなのです。この長距離列車は、私には、あの銀河鉄道のように思えてきた・・・

青い制服の女車掌ネリが、銀河鉄道からおりてみんなの前にやってきました。

すると、農民たちは一人づつ車掌の前に行き、成し遂げられなかった想いを伝え『思い残し切符」をリネに託すのでした。そして賢治がトランクを持ってやってきました。果たして賢治は、どんな思いを伝えたのだろうか・・・

 それは、宮沢家でただ一人賢治と同じ日蓮宗の改宗し、賢治の理解者だった最愛の妹トシとの早すぎる永訣だったのであろうか・・・

 それとも盛岡高等農林の自啓寮の同室で語り合い、同人誌『サザリア』を通じて『阿吽の仲といわれた』無二の親友・保坂嘉内との訣別だったのか。二人で岩手山に登り山稜で銀河の流れを眺めながら、二人の進むべき共通の道(真理の道、無上道、理想の国)を目指して歩むことを賢治と嘉内は誓いあった。賢治は法華経を進むべき道と定め、その決意を示すために国柱会に入会し、嘉内に入信を迫るが、大正10年7月18日に賢治と面会した嘉内は別の道を選んで去っていった。私は『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラを思い出した。カンパネルラは灰色の切符を持ち、理想郷の天上への道を進んだ。だがジョバンニの唐草模様の切符は、何処まで行けるが行先は定まっていなかったのです・・・嘉内に法華経の無力を指摘された賢治は、行き先が印刷されていない切符を握りしめ、どう生きるかに迷い『修羅の道』を行くことになってしまったのではないだろうか・・・

 いやいや賢治が亡くなってから、賢治のトランクの内ポケットから出てきた黒い手帳に書かれた『雨ニモマケズ』の最後の節にあるように『ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ 私はなりたかった。』と伝えたのであろうか・・・などと想いを巡らせた・・・

 いずれにせよ賢治の遺してくれた作品や友に宛てた書簡が、私たちを想像の世界へ駆り立ててくれるのです。

11.旅立ちの瞬間

 こうしてこの世に別れを告げて旅立って行く人の想いの込められた『思い残し切符』は、長距離列車の車掌リネから『イーハトーボの劇列車』の案内をしてくれた赤い帽子の車掌に託されのです。車掌は舞台中央に進み出て、観客席に向かってその切符をまき散らした、と同時に車掌の手元から白い煙が広がった。こうして赤い帽子の車掌は、現世に生きる私たちに『思い残し切符』を届けてくれたのです・・・

 この車掌は、列車の案内に止まらず『イーハトーブの劇列車』の案内役として、場面の切り替わりを観客に解り易くしてくれた。この演出も見事で、ストリー全体をリードする重要な役割をはたしてくれた。そして最後のクライマックスで『生の世界から、死の世界へ住所を移す瞬間』を観客に教えてくれるのです・・・赤い帽子の車掌・新堀英夫さんに大きな拍手をおくりたい。

12.「劇団シナトラ」オールキャスト挨拶

 地元熊谷に20年もの間、こんなに素晴らしい劇団が活動を続けてこられたことを初めてしりました・・・感激の一言です。

シナトラの役者達は先生や会社員、自営業などの仕事をこなしながら、芝居が好きで好きでたまらず活動する愉快な仲間達で

熊谷からの発信を目指して旗揚げし二十周年となりました。・・・』と座長と出演者全員のご挨拶がありました。私はあわてて持参した紅白のワインを持って舞台に向かって駆け寄ったが、間に合わず緞帳が下りてしまい、少し気恥ずかしい思いをした・・・

 実は『賢治と歩む会』で劇団員の原田さんから東北出身の私に『方言』の指導をしてほしいと頼まれておりましたが、ついに劇団シナトラの稽古場に足を運ぶことができなかった。そのお詫びを兼ねて持参したものでした。それでも、多くの人々で混雑する楽屋出入口で待ち受け、原田さんに手渡し「素晴らしかった。」と声をかけることができた・・・

小雨が降り出し夕闇が迫る頃、感激を噛みしめながらハンドルを握った。

その夜、遅く床についたが中々寝付かれず、ぼんやりと自分の『思い残し切符』のことなどを考えていた・・・あの世とやらへ住所を移す僅かな間に、どんなことを『思い残し切符』に託すのだろうか・・・いや、70歳も過ぎては、最早『思い残し切符』など受け取ってもらえなかも知れない。