「原体剣舞連」に関する加筆更新(12月19日)
3.剣舞の練習
午前中で学校が終わる9月3日土曜日は、剣舞の練習日であった。夕闇迫る頃「種山ヶ原」から降りてきた賢治は、篝火に照らされて村の童たちが踊る「原体剣舞」を観て大いに感激した。
そして詩集『春と修羅』の中で「原体剣舞連」をこう詠っている。『 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah ・・・ こんや異装のげん月のした 鶏の黒尾を頭巾にかざり 片刃の太刀をひらめかす 原体村の舞手たちよ・・・』 この原躰剣舞は別名子供念力念仏剣舞、または雛子剣舞・稚児剣舞ともいわれ、純真さ・清らかさに加え、一種の華やかさを持つ供養踊だった。<『原躰郷土史』(原体自治会)272pより>
しかし、ネットで『原体剣舞』の動画を観るかぎりでは、大太鼓を連打するリズム感も『片刃の太刀をひらめかす』剣舞のイメージも湧いてこない。12月に入って、花巻の鈴木氏が送ってくれた『國文學 解釈と鑑賞』(平成12年2月号 第62巻2号 至文堂)に掲載された斎藤文一氏の『原体剣舞連』によると、『江刺地方でじっさい賢治が見たのは「ハネコ剣舞」といって、少年が演じる、ずっともの静かなスタイルであったと思われる。詩に出てくるような、刀を振るって踊り猛る勇ましいのは、「鬼剣舞」と呼ばれて、別系統のものである。今日見られる「鬼剣舞」は賢治詩とぴったりである。』と述べられていた。すると、賢治はもの静かな「ハネコ剣舞」を見て、『原体剣舞連』にあるような刀を振り回して舞う勇壮な剣舞を心象スケッチとして写しとったのであろうか・・・
それでは、賢治は村の童たちが『子供念力念仏剣舞』を舞う姿を描きたかったのか、それとも荒ら荒らしい『鬼剣舞』を舞わせたかったのであろうか。
でも、村の童たちにとって、刀を振りまして舞うことは、憧れの的であったはずだ。ですから、真剣を使って舞う剣舞を教わることは子供たちにとって名誉なことであり、一郎、嘉助、佐太郎、悦冶らは胸をはって剣舞の練習に出かけたことであろう。一郎は学校でよその土地の話を聞かせてくれた三郎を剣舞の練習を見に誘ったのだと思う。村の長老も家の前の広場に童たちを集めて、剣舞を教えるのを楽しみにしていたことでしょう。
私が育った田舎にも「板戸板楽」という山伏神楽があった。子供の頃の祭には、その獅子舞が門付けで家々を回っていた。獅子舞が終わるとお獅子の大きな口で頭をパクリと噛んで厄払いをしてもらい、無病息災を祈願してもらうのです。この「板戸番楽」には12幕もの演目があり、その場面、場面の記憶が幽かに残っているものもある。この中の「鶏舞い」は富山にいる兄も若い頃に舞っていた。家に誰も居ない時に、こっそり兄の真似をして踊りの練習をしたことがある。これは天の岩戸の前で踊った鶏の舞だということです。
でも、なんと言っても一番に憧れたのは「荒舞い」という真剣を振りまして、悪霊を退治する剣舞でした。ある時、二階の床の間に飾ってあった「鎧通しという小刀」を抜き振りまし、田舎芝居で観たように刀をくるりと回して鞘に納める真似をしているうちに手が滑って左の太腿に突き刺さってしまった。深い傷ではなかったが、ズボンを裂き1センチ程切れて血が流れだした。しかし自分で手当てをして、家の人には黙っているしかなかったのです。今でもその古傷がケロイドとなってかすかに残っている。この板戸番楽には小学校からの同級生三人も関わっていたが、もう若い連中に引き継がれているようだ。
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