風の又三郎 空白の9月3日 (9)

9.落ち鮎の簗

 

  『風の又三郎』のモデルとなった豊沢川の川岸には、大きなさいかちの木がある「さいかち淵」があり、その少し上流には別の谷川も流れ込んでいた。

 こんな地形からすると、落ち鮎が集まってくる「さいかち淵」の少し下流の川幅が狭まった辺りに発破をかけた庄助たちが「落ち鮎の簗」を仕掛けたのではないかと思う。

 そして簗の噂を聞いた村の童たちの中でも好奇心の強い嘉助や魚捕りの好きな佐太郎などは、今日は鮎が掛かっているだろうと想像しながら興味深く、その様子を見に行ったのではないかと思う。

 私の育った山村の田んぼに囲まれた川に近い一軒屋に甚助という人が住んでいた。その甚助さんは茅葺き屋根の葺き替えの術を持った人で、葺き替え作業では甚助さんの手ご(手助けする人)として村人が動いていた。  軒下から見上げていると一握り位に束ねた茅を次々と上の方に差し込むようにして重ねて行った。その茅の厚みは50センチ以上あったと思う。そして茅の太さ位のギザギザの刻まれた三角形の角材に枝の付いた道具で、茅の根本を突き上げるように叩いて屋根の勾配に合わせて形を整えて行くのだ。

 こんな風景を子供の頃、『葺き替えの祝餅』を拾いに行って何度か見ただけなので、詳しいことは解らないが、最後に軒先を大きな鋏で切りそろえると、それは見事な茅葺き屋根が出来上がるのでした。

 この「風の又三郎」に出てくる「上の野原」のモデルとなった「種山ヶ原」には沢山の茅が生茂っていたが、この茅は雪国の生活には大切なものでした。私が育った部落にも「戸平山」と「中山」に大きな萱場があった。秋口には村人総出で戸平山の萱場の周りに防火帯を作り、消防団が出て野焼きを行っていた。翌年の春には萱場に蕨が生え、山の畑仕事の合間に従姉弟たちと蕨採りをした。その山の中腹には大きな杉の木が一本生えており、その根本の辺りから冷たい清水がこんこんと湧きだしていた。喉が渇くと、いつも蕗の葉っぱで柄杓を作りこの清水で喉を潤した。

 この萱場で夏の終わりごろに刈った茅を束ねて、秋まで乾燥させてから、冬が来るまでに背負って下りるのだ。冬囲いの時は、この茅の束を父親に手渡すのが私の役目であったが、茅の葉先は切れの良い刃物のようなので大きな軍手を借りて手伝った。

 そして何十年かに一度の茅屋根の葺き替えには沢山の茅が必要でした。村人はそんな家のために貯えて置いた茅を提供し、自分の家で葺き替えをやるときに返してもらうと言う無尽講(相互扶助)を代々に渡り続けていた。茅屋根の葺き替えはその家にとっての大事業で、そこで活躍するのが甚助さんであった。

  (最上川の上流の簗の例)
  (最上川の上流の簗の例)

 そんな甚助さんが、何故か良く家に遊び来ては父とお酒をのんだりしていた。そんなある日、馬に与える草刈で毎朝のように川の様子を見ていた甚助さんが、「簗を作れば落ち鮎がごっそり捕れる。」と父に持ちかけてきたのだ。

 それは夏休みも終わりに近い頃だったと思うが、何日か川に行き流れが簗に向かうように川の石を積み上げる作業を手伝った。子供の私でも水の中では結構大きな石を持ち上げて積むことが出来たのを覚えている。その「落ち鮎の簗」を仕掛けたのはゲンチョ(玄処)と呼ばれていた淵に流れ込む瀬の所でした。その近くの川縁に生えいた楢か栗の木を切り倒して簗を組み上げたのだ。その簗には細い枝か竹で編んだスノコが敷かれ、そこに落ち鮎が沢山掛かるもくろみだった。

 子供の私でもスノコで飛び跳ねる鮎を手掴みで捕まえられると思いワクワクしながら、その時を待っていた。その簗ができ上がると、甚助さんが毎朝見回って落ち鮎を待ったのだが、鮎はやって来なかった。

 そして何日かすると二百二十日がやって来て、案の定大雨が降り濁流が簗を襲ったのだ。その様子を見てきた甚助さん朝早くやって来て「簗が、大水で流されでしまったぢゃ。」と知らせた。こんなことを予想したのか、父は太い材木はワイヤーで川岸の杉の木に結び付けてあったらしいのだが、それを使って再び簗を組み上げることはなかった。

(つづく)