風の又三郎 空白の9月3日 (10)

10. どじょう掬い

 

  谷川の岸に小さな学校のモデルは、花巻の友人・鈴木氏の見聞によると大迫町の外川目にある「沢崎分教場跡」が一番ふさわしいようで、その周りの農家では今でも葉煙草の栽培を行っている。 この大迫町は稗貫郡に入るし、その地名からして昔は稗を多く作っていたのでしょうが、「風の又三郎」の時代には田んぼで稲を作っていたと思う。そして稲作にあまり農薬を使わなかった頃ですから、田んぼを結ぶ堰(用水路)には、どじょうや鮒がいっぱい泳いでいたに違いない。村の童たちは家から笊を持ち出し、どじょう掬いで泥んこになって遊んだことであろう。

右側の手前が戸平山、奥が奥宮山
右側の手前が戸平山、奥が奥宮山

 私は小学一、二年の頃からどじょう掬いが大好きでした。母から貰った古い笊を持って一年年下の従弟を連れてどじょう掬いをやった。私が堰の下手に笊を据えて、従弟が上手から堰の両脇の窪みまで足を踏み込んで追ってくる。従弟が近くまで来るのを待って、左右の足を交互に動かして笊の中へどじょうを追い込み掬い上げるのだ。すると流れてきたゴミと泥の中でどじょうがにょろにいょろと動いているのだ。それから笊を水に浸しながら左右に振って泥を濯ぎ落し、どじょうを捕まえてカッコベ(蔓で編んだびく)に入れる。こうしてどじょうの居そうな堰を渡り歩いて、夕方になるまで泥んこになって夢中でどじょうすくいをやった。

 でも、持ち帰ったどじょうは、清水で泥を吐かせないと食べられないので床下の大きな瓶に溜めておくのだ。その瓶には何故か大豆をいれておいた。この大豆の汁がどじょうの栄養となったのかどうかは解りませんが、こうしておくとどじょうは冬場まで生きていて、すっかり泥を吐いてくれる。私が子供の頃は、雪が降り積もると車も通らなくなるし、吹雪が続くとイサバヤ(魚屋)さんもやって来なかった。そんな時に、母は囲炉裏にかけた小さな鍋で削いだごぼうをコトコト煮て、床下の瓶からどじょうを掬ってその鍋に入れる。それに溶いた卵を入れ味噌仕立ての卵とじを作ってくれた。ある時は、鍋の真ん中に大きなお豆腐をいれて火にかけ、その中にどじょうを放すと、どじょうも熱くなると苦しがってお豆腐に頭を突っ込んだり、ピシャピシャ跳ねたりするので母は茶碗に注いであったお酒をざーっと入れて素早く蓋をした。すると中からピシャピシャと蓋を叩く音が聞こえてきた。この様子を見ていた私は、自分で捕ってきたどじょうが何だか可愛そうになり、その料理はお豆腐だけを食べた。

 実は、このどじょう捕りは、子供の遊びだけではなかった。もうじき長い冬がやって来る前兆の霙が降るような寒い日に、トッチャンとカッチャン(叔父と叔母)は手拭で頬かむりをして、鼻水をすすりながらスコップを持ち毎年決まってどじょう掘りに出かけるのだ。この時期になると田んぼに水を引く堰に水は流れていない。ですから、どじょうが溜まっていそうな場所を見つけてはスコップで掘る。そこを上手く探し当てると、どじょうがうじゃうじゃ塊になって冬を越そうとしているのだ。湿った泥の中のどじょうの動きは鈍く、それを叔母が懸命にカッコベに取込むんだ。冬が近づくにつれて堰を流れる水が徐々に少なくなって来ると、どじょうはその辺りで最後に残った水溜りに集まって来るのではないかと思う。この伯父はどじょうの溜まり場を探すのが上手で、どじょう掘りの名人との評判でしたから、床下の大きな瓶には冬の間に食べるどじょうがうじゃうじゃいた。

 これは二百十日の大雨が降ったときの話です。この時も「風の又三郎」のように10時頃にはすっかり晴れ上がり暖かい日となったので、学校が終わったらどじょう掬いに行こうと休み時間に従兄と約束した。そしていつものように笊を持って従兄と出かけてみると、何日か続いた大雨のせいで、他所の家のタナゲ(庭に作られたため池)の土手を越えて水が溢れていた。この様子をみて、ひょっとするとタナゲで飼われていた大きな鯉が逃げ出しているかも知れないと、二人とも密かに期待した。そのタナゲから流れ出す堰の下流に笊を構え、いつものように従弟が上手から追い込んだ。そして笊を上げると蒼黒い大きな鯉が目の前でバタバタやっているのでびっくりして尻もちをついてしまった。その鯉が重かったせいなのか、笊が古かったせいなのか判らないが、そのはずみで笊の外枠が外れて鯉は逃げてしまった。もう悔しくてしかたありません。私は別の笊を持ってこようと走って家に戻った。泥んこのまま爪先立ちで台所へ入ると、母が買っておいた新しい笊が壁に掛かっていた。家には誰も居なかったので、私は黙ってその笊を持ち出し従兄の所へ戻った。

 それから何回も何回もその辺りで掬い上げたが、とうとうあの大きな鯉を掬い上げることはできなかった。やがて夕方になり、二人とも諦めて家に帰った。そして家に入る前に道路に沿って流れる堰で笊を綺麗にしようと懸命に洗ったが、笊の目に入り込んだ泥も滲み込んだ匂いも洗い流すことができなかった。私は怒られるのを覚悟して、母のところへ持って行った。それを見た母は、一言「しかだねぁな、つよし」と言っただけだった。

                              (つづく)