第17号 熊谷短歌会会報 歌碑探訪(五)への投稿
賢治が秩父地方を訪れたのは、大正五年九月二日から八日迄である。賢治が盛岡高等農林学校に在学中のことで、関豊太郎教授、神野幾馬助教授に引率された二十三名の学生が秩父地方の地質、土壌、林業の調査を目的とした研修旅行であった。その頃の賢治は向学心に燃えていたらしく、七月三十日の夜行で上京しドイツ語夏季講習会に参加していた。賢治は九月二日に上野駅で一行と合流する前に帝国博物館を見学している。
賢治一行は午後三時半頃には熊谷に到着し、松坂屋旅館に宿泊した。その時に賢治が詠んだ歌碑は、八木橋デパート前の『旧中山道跡』という大きな記念碑の横手にひっそりと建っている。この歌碑は平成九年九月二日に「くまがや賢治の会」が中心となり建立されたが、その時、歌碑建立を支援した五百余名の手紙を入れたタイムカプセルも埋められているという。そして、この歌碑の側面には、書 野口白汀、刻 野口畊石と刻まれている。
武蔵の国熊谷宿に蠍座の
淡々ひかりぬ九月の二日
この歌碑にある九月二日を手掛かりに埼玉大学名誉教授萩原昌好氏が熊谷のプラネタリウム館にお願いして当時の月齢と蠍座の位置を再現してもらったところ、蠍座の位置は地平線上に見えるすれすれの位置にあったという。このとき賢治は蠍座が地平線に沈む前のわずかな時間を見逃さず、宿屋の二階から蠍座を観たのであろう。その蠍座は「あわあわ」としていたのである。盛岡中学の頃の賢治は星座に夢中になっていた。丸いボール紙でつくられた星座図を持って屋根に登り、一晩中夜空を眺めていた。また、私たちは乗物に乗って銀河の中を旅行しているのだというようなことを話してくれたと弟の宮沢清六氏が「兄のトランク」の中で語っている。
熊谷の連生坊がたてし碑の
旅はるばると泪あふれぬ
これは自然石のままの背面に刻まれた短歌である。賢治は小さい頃から石や岩石を集めるのが好きで、岩石を砕くハンマーまで持ち歩き「石っこ賢さん」と呼ばれ、押し入れに沢山の石ころを仕舞っていたらしい。これは、そんな賢治に似つかわしい歌碑ではなかろうか。
賢治は浮世絵と歌舞伎が好きで、上京の折には歌舞伎座へも出かけたようだ。しかし、賢治は「熊谷陣屋」の歌舞伎を見知っていたかどうかは定かではないが、「一ノ谷の合戦」で熊谷次郎直実公が、弱冠十六歳の平家の若武者敦盛公を討ち果たしたことは知っていたに違いない。直実公は自分が討ち果たした敦盛公の供養塔を建てた。この短歌は賢治が熊谷寺を訪れて、「連生坊がたてし碑」に心を動かされて詠んだものであろう。
賢治一行が調査した秩父地方は、古生層を含め造山活動による変成岩、新生代の地層までが露頭していて「地球の窓」と呼ばれるような、当時としては世界的に注目を集めた地域である。その秩父路の旅程は、賢治が盛岡高等農林の自啓寮で同室であった親友保坂嘉内に宛てた書簡の消印からも辿ることができる。嘉内は文学、思想、宗教の面でも賢治に大きな影響を与え人物と言われ、それだけに賢治は旅で訪れた地を短歌に詠んで知らせていたのであろう。小鹿野には賢治と嘉内の歌碑が並んで建立されている。こうした賢治の歌碑を訪ねながら秩父路を巡ってみたいものだ。
(これは、熊谷短歌会からの依頼を受けて投稿したものである。)
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