岩大電気科44年 同期会 (16.6.⒚ 後編)

賢治碑巡り

渡部さんは鈴木さんの車、私は女鹿さんの車に乗せてもらい山を下り、柳沢の岩手山登山口に向かった。女鹿さんは車窓から草地の斜面を指さしながら、昔はなかった新たなスキー場をいくつも紹介してくれた。

昔は網張、竜ケ森、黒石野、岩山、八幡平くらいしかなかったのになあ、とスキーのことを思い出しては、真っ白なゲレンデを思い浮かべながら話を聞いていた・・・

 (当時流行のエェデルン)
 (当時流行のエェデルン)

晴れ日の八幡平の春スキーは爽快だった。アスピーテラインの標識を見かけたが、雪が硬く締った台地はどこまでも続き、背の高い松が雪面から顔を覗かせているだけの広い広い天然のゲレンデだった。

その日は生憎小雨がぱらついて重い雪質だった。滑っている内にいきなりスキー靴の踵が剥がれ、左足のスキーが外れて流れてしまった。片足で滑りながら、流れたスキーの跡を追って行くと台地から急峻な崖に落ちてしまった。よく見ると遠くの方に赤い物が微かに見えた。これは兄から借りたスキーだったので、意を決して片方のスキーで滑り降りた。木の根元で止まってくれたスキーを担いで斜面を登った。ようやく登り切って顔を上げると、そこには工藤さんが心配そうに崖下を覗き込んでいた・・・

 (片足でのウェーデルン)
 (片足でのウェーデルン)

学生時代には、スキー場開きの日はリフト代が只になるので自主休講を決め込んで仲間と連れ立ってスキーに出かけたことがある。

網張スキー場へ出かけ、トイレでヤッケの懐から手袋を落としてしまったことがある。ひどく寒い日でトイレの物はカチカチに凍結し、まるで黄金のピラミッドのようになっていて、私の手袋は手の届かない底まで滑り落ちていた・・・この時は一緒に行った同袍寮の郡司君から予備の靴下を借り、それを手にはめて滑ったのを覚えている。

ある日、研究室の助手をしていた相馬さんが、私をスキーに連れってやると言った。土曜の午後だった思うが、二人とも長いスキー板を佐々木小次郎のように襷掛けに背負い、彼が通勤に使っていた大型バイクに跨った。

確か黒石野スキー場だったと思うが、相馬さんの腰にしがみついてバイクに乗せてもらいった時の怖かったことしか覚えていない。

(竜ケ森スキー場での難波さん)
(竜ケ森スキー場での難波さん)

岩大に入って同袍寮の先輩の勧めで学友会の手伝いをするようになり、大学祭のパンフレットの広告を集めてまわった。そのとき上田通りの「山田スキー」のにも協力してもらった。山田スキーは山岳雑誌「山と渓谷」に古くから単板のスキーを制作して来たと紹介されていた。しかし、スキーも合板からグラスファイバーへと進歩して行く中、若社長がメタルスキーを試作した。当時人気だったヘッドのメタルスキーをばらして、それを真似て試作した言っていた。予てからの約束で、そのスキーを私が試乗することになっていた。

早速その板を持って網張スキー場に出かけた。

メタルスキーはとても高価で我々学生には手の届かない代物だった。私は興奮しながらスキーを着けて滑ってみた。ところが、スキーが雪面に食い込み、まったく回ってくれないのだ・・・最初は自分自身がどうかしてしまったのかと思ったが、何度試しても同じことだった。

そこで一緒に行った工藤さんに履いてもらった・・・スキーの技術はかなりの腕前だった彼が試しても同じ結果であった。

上手く仕上がっていれば、私がこの板を履いて「岩山の滑降大会」に出場し、世間にデビューするはずだったが、網張で試乗した「山田のメタルスキー」は工藤さんと私しか知らない幻のスキーとなってしまった。

もはや年老いてしまったが、たとえ杖の代わりにストックに持ち替えることになろうとも、いつの日か女鹿さんと一緒にスキーができたらなあと思いながら、まだまだ現役で滑っている女鹿さんの話を聞いていた。

柳沢登山口からの上りの直線道路を走りながら、女鹿さんがこんな話をしてくれた。遠方からの登山者は滝沢村の駅からここまで歩いて来て、更にここから馬返しまで暗い森 のトンネルを歩き続け、やっと視界が開けたと思ったら、そこに岩手山がそびえ立っているのを見ては、諦めて帰って行く人が多かったそうだと語った。

それを聞いた私は、岩手山の苦い初登山のことを思い出した。入学早々に勇んで山岳部に入り、農学部構内の部室近くの木の枝にぶら下がって握力をきたえたり、放課後にトレーニングを積んだ。

そして5月の連休合宿が岩手山登山だった。新入生の私はキシリングにぎゅう ぎゅうに詰め込まれ、重さは40キロは有に超えていたと思うが、先導の2年生はナップサック一つの身軽ないでたちであった。ひょいひょい駆け登る先輩 に、最初に何とかついて行けたが、馬返しを過ぎたころから勾配もきつくなり、とうとう足に痙攣をおこしてしまった。それでも先輩は荷物を代わってくれるこ はなかった。

それからも1,2度脚が引きつって動けなくなったが何とか寝泊りする元測候所に辿り着いた。合宿では残雪でのグリセードとかロッククライミングとかザイルを使っての懸垂などの基本的なトレーニングが続いた。こうしたトレーニングは楽しかったが、岩手山登山の厳しさを十分に味わうことになった。

馬返しの駐車場から林の中を少し登ってゆくとキャンプ場の設備と大きな水場があった。そこには岩手山から下りてきた人であろうか水場に足を浸しながら、頭から水を被っている人がいた。

この奥まった所に賢治の歌碑があった。

 

     岩手山 いただきにして ましろなる

         そらに花火の涌き散れるかも        賢治

鈴木さんが女鹿さんと次の目的地を打合せ、柳沢の岩手山登山口を出た。女鹿さんは時々時間を見ながら走り続け、岩手山の南の裾野、鞍掛山の登山口にあたる滝沢村相之沢駐車場に建てられ詩碑に到着した。 碑の後ろに見える木々は、そのまま鞍掛山にもつづいている森だということだ。

  (岩手山の手前が鞍掛山)
  (岩手山の手前が鞍掛山)

   くらかけの雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしゃぽしゃしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

ほんたうにそんな酵母(かうぼ)のふうの

(おぼ)ろなふぶきですけれども

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかり

 (ひとつの古風(こふう)な信仰です)

 

       ― 誌集 春と修羅 より ―

楽しい時の経つのは思いのほか早く、あたりも薄暗くなってきてた。いよいよ時間が少なくなり、鈴木さんと女鹿さんが次の工程を相談した。そして最後の工程として、小岩井農場の一本桜を見て、それから小岩井農場の賢治の詩碑を見学することになった。

遂に「記念DVD」のフィナーレにも登場し、朝ドラ「どんど晴れ」のシンボル「一本桜」に到着した。昨夜の2次会で女鹿さんが、明日は岩手山に雲がかからいように頼んでおいたからと言っていたが、背景の岩手山は雲の中だった。女鹿さんが「頼んだときの予算が少し足りなかったようだ・・・」と呟いた。

この写真は、下の左端のように柵によじ登って撮ったものであるが、岩手山が背景になくて寂しいので、宮手さんがOnedriveに掲載した素晴らしい写真を拝借させてもらった・・・この写真でイメージを膨らませてください。

小岩井農場の賢治の詩碑の見ようとやって来たら、入り口の門は既に施錠されていた。

如何したものかとうろうろしていたら、家路に着いた職員が車を止めて、5時を過ぎたので全ての出入り口は閉鎖さてましたと説明してくれた。折角鈴木さんが案内してくれたのにと悔しくなり、閉鎖された門を写真に納めた。やはり、心残りでどんなところだったのか気になり、家に帰ってからネットで調べてみた。

小岩井農場

 

すみやかなすみやかな万法流転のなかに

小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が

いかにも確かに継起するといふことが

どんなに新鮮な奇蹟だらう

 

            宮沢賢治

岩大電気工学科 44年 つなぎ温泉 同期会

会場の「大観ホテル」に到着したのは5時半頃であった。八幡平から先に帰った小倉さんが受付で待ちわびて居て、一言「君たちが最後だ。」と嫌味っぽく言った。それでも準備のために先に戻ってくれたみんなに感謝せねばと思った。

何と言ってもイベントの進行に細心の気配りで優れた能力を発揮してくれる小倉さんがいなければ、吾が同期会は立ち行かないのだから・・・でも、時々「判ったよ!」と言いたくなることもある。部屋に荷物を運び、大田原先生と柏葉先生のお部屋にご挨拶してから、急いで風呂に入った。

今回の同期会の準備を整えてくれた地元幹事の宮手さんのご挨拶で宴会が始まった。いつも写真を撮ってくれていた橋本さんが参加できなかったので、写真を撮りますからと司会を小倉さんと交代した。そうこうしているうちに、会長の挨拶ということで壇上に立たされた。

最初に「えぐ、おでんした。」と端を発した。そして卒業後にガリ版で住所録を作り、八幡平で第1回の同期会を開いてくれた佐々木和彦会長のシャドー(影武者)としてご挨拶させていただくと話をきりだした。

大 田原先生と柏葉先生をお招きして同期会を開催できたことと参加してくれた皆に謝意を表し、75周年記念式典において大田原先生が「草刈功労特別賞」を受賞 されたことのお祝いを述べた。それから今回は常連の仲間4人が参加できなかったことは残念であり、古稀を迎えたこれからは、同期会に出られるようにお互い 体に気を付けて生きて行こうと結んだ・・・

    (伊藤さんの乾杯の音頭)
    (伊藤さんの乾杯の音頭)

ところが大事なことを言い忘れてしまい、暫くして再び登壇することになった。既にお酒を酌み交わしての懇談が始まっていて、聞き取れたかどうかは 判らないが、これだけはお伝えせねばとマイクに向かった。それは、今回の「記念DVD」制作に際して、岩手山や盛岡の写真を提供してくれた伊藤さん、宮手さん、鈴木さんへの御礼、更に自宅の倉庫から貴重な学生時代の資料を探し出してくれた宮手さんへのお礼を述べた。更にDVD編集時には、「注文の多い小南 亭」に根気よく応えくれた渡部さんにお礼を言ったら、「大丈夫だよ」と末席から渡部さんが声をかけてくれた。

私の話が聞こえていたようなのでほっとした・・・

この席に体調を崩されていて参加が心配されていた伊藤さんが、奥様の車で駆けつけてくれた。私のはす向かいに座り少しお話しできたので、本当によかったと思っている。1次会の会食を終え、伊藤さんは奥様の車で帰られた。

  (柏葉先生の大利根月夜)
  (柏葉先生の大利根月夜)

2次会のカラオケも全員参加で賑やかだった。やはり一番手は、工藤さんに頼んだ。

それから暫くして、柏葉先生には「大利根月夜」を熱唱していただき、私が近くで田舎芝居の真似をして踊りをつけたのだが、どうも撮影禁止のサインが出されていたようで、残念な気もするが、ほっとしている。

  (大田原先生の小田原提灯)
  (大田原先生の小田原提灯)

カラオケ苦手の大田原先生が「小田原ちょうちん」をみんなと歌ってくれた。後日、宮手さん経由で小田原先生のメールを拝見した。「小田原ちょうちん」を 歌って楽しかったとあり、強引に仕向けた私としては安堵した次第だ。私にはいつも反省がつきまとう。

それは宮手さんが差し入れてくれた地元の名酒の 番人を飛世さんから頼まれ、カラオケを歌ってくれた人にお注ぎしことから始まった・・・そして遂には司会役になってしまったことだ。

 (渡部さんが送ってくれた写真)
 (渡部さんが送ってくれた写真)

今度の同期会にもコンパニオンがやってきた。その内の一人が高校時代のマドンナによく似ていたのだ。元々は男子校だったが共学となり学年に20人ばかりの女生徒がいた。圧倒多数の男子生徒からマドンナと呼ばれていた娘の顔の輪郭と当時のヘアスタイルはそっくりだが、本物はもうちっと美人だったかも・・

こう言っておかないと、高校時時代の淡い十五の心を壊してしまいそうで。

 

  高校のマドンナに似し娘居てお酌しくるるに戸惑い覚ゆ

 

< 想いで地 盛岡の散策  9月20日 >

   (スキー仲間の緒方さん)
   (スキー仲間の緒方さん)

翌朝、晴れ晴れとした顔で記念写真を撮り、盛岡市街の散策に向かう。都合でそのまま帰る人もいた。久々に参加した緒方さんもここでお別れだという。昨夜はろくに話もできなかったのが残念で、少し貫禄の出てきたお腹をポンと叩いた。彼とは良くスキーに行ったが今も鍛錬しているらしく筋肉質の感触であった。やはり昔のままのスマートでクールな姿である。

  (中津川 予の字橋のたもと)
  (中津川 予の字橋のたもと)

今朝は梅雨空、不来方城址の桜山神社参道の喫茶店に荷物を預け、盛岡市街の散策の出かけたが、生憎の雨に公会堂近くのコンビニ・ローソンで傘を求める羽目になった。

「与の字橋」のところで、渡部さんが道路の反対側から雨に濡れながら撮ってくれた。

中津川沿いに盛岡城址公園の所までやってきたら、鈴木さんが小走りに公園の中に入り、掃除をしていた係員に何やら尋ねている様子が見えた。それから鈴木さんが私の方へやって来て「公園の中に賢治の詩碑があるのを知っていましたか。」と言ってくれた。

早速みんなで公園の中にはいった。

   岩手公園

 

「かなた」と老いしタピングは

杖をはるかにゆびさせど

東はるかに散乱の

さびしき銀は聲もなし

 

なみなす丘はぼうぼうと

青きりんごの色に暮れ

大学生のタピングは

口笛軽く吹きにけり

 

老いたるミセスタッピング

「去年(こぞ)なが姉はこゝにして

中学生の一組に

花のことばを教へしか」

 

弧光燈(アークライト)にめくるめき

羽虫の群のあつまりつ

川と銀行木のみどり

まちはしづかにたそがるゝ

 

        賢 治

盛岡城址公園から中津川沿いに下の橋のたもとの「賢治清水」へとやってきた。この碑は賢治が盛岡高等農林学校三年の時、弟(清六)と一緒に下宿していたという家の跡にこの碑はある。碑の隣には、この家で賢治が使っていたという井戸も「賢治清水」と名づけられている。

みんなが傘をさしながら碑を覗き込んでいるところに清水を汲みに来た近所の人が、この碑のことを説明してくれた。

「チャグチャグ馬コ」は、馬の守護神である滝沢村の蒼前神社に盛岡近郊の馬を年に一度着飾らせて参らせるというお祭りで、当日は夜明け前から馬につけた鈴の音が「チャグチャグ」と響き、賢治と弟も下宿から飛び出し、賢治がその様子をみて作った歌だと話してくれた。

実は、それぞれ独立した短歌となっており、「チャグチャグ馬コ」を詠んだ連歌なのだ。その表現が「方言」を用いているために理解し難いと思うが、私が子供の頃に日常使っていた言葉なので私には極めて親しみやすい短歌であった。

   ちやんがちやがうまこ 

 

夜明げには

まだ間あるのに

下のはし

ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

 

ほんのぴゃこ

夜明げがゞった雲のいろ

ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに

ちゃがちゃがうまこはせでげば

夜明げの為が

泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし

ちゃがちゃがうまこ見さ出はた

みんなのながさ

おどともまざり。

           宮 澤 賢 治 自 筆

(石川啄木と若山牧水の友情の碑)
(石川啄木と若山牧水の友情の碑)

それから下の橋を渡って、下ノ橋中学校の校門前にある「啄木と牧水の友情の碑」にやってきた。私が一昨日の中学生のことを話すと地元の宮手さんが「この歌碑のことは私も知らなかった。」と苦笑いしていた。

それから宮手さんが歌碑の「啄木」の「啄」の字を指さしながら、「啄木鳥」の嘴を表す点がここにあるのが本来なのだが、ワードの変換では出てこないので「岩手日報」では新たに活字(フォント)を作って対応してきたと話してくれた。

この頃には雨も止み陽射しも出てきて、急に蒸し暑くなってきた。

下ノ橋中学の前から、中津川沿いに中の橋方面に歩いた。三々五々それぞれ好みの風景を眺めながら歩いていると、「○○、車道を歩くんじゃないよ。」と後ろの方から大きな声が掛った。これは人ごとではなく、古稀も過ぎると次第に身体の俊敏性も衰えてくるから、自分も気を着けねばなるまいと思った。

そして中の橋近くの「もりおか啄木・賢治青春館」に着いた。この煉瓦造りの建物は明治43年に旧第九十銀行により建設された。

私は写真を撮りながら、ここの表札にある「啄」の字を注意深く観た。中に入って宮手さんに「表札の啄に嘴がついてなかったよ」と告げると、宮手さんは表に出て確認してきた。そして「この表札は拙いなあ」と呟き、館内に掲示されている「岩手日報」の記事から「啄木」の文字を探していた。そこには「啄木鳥の嘴」のついた「啄」が印刷されていた。

この館内の雰囲気も良く展示物も興味深い物が多かったので、半日位はじっくり見学できそうであった。

鈴木さんが「宮沢賢治の花木」という当館限定販売のDVDを求めてくれた。家に帰ってかけてみると、早春のさまざま草花が写しだされ、そのBGMが気分を浮き浮きさせてくれた。どうも賢治が作曲したものをアレンジしているらしいが、音楽の素養に乏しい私には「星めぐりの歌」と「牧歌」くらしか聞き取れなかった。この他にも「ポランの広場」、「種山ケ原」、「イギリス海岸の歌」、「応援歌」などがあり、以前にNHKの「宮沢賢治の音楽会」で聞いたことがあるはずだが、私にはどれがどの曲なのか区別がつかず、情けない限りであった。

お昼は「わんこそば東屋本店」に向かった。わんこそばと言えば、学生時代も食べたことがある。秋に行われる同袍寮の薪入れの日だった。同室のみんなが一致協力して、いかに多くの薪を部屋に運び込むか作戦を練って

他所の部屋と競争で取り組んだ。

その日の夕食は「わんこそば」と決めていたので昼飯抜きで薪入れをやった。腹ペコで向かった先は、上の橋か与ノ字橋のたもとの蕎麦屋だったと思うが、今は 無くなってしまい定かではない。とにかく競争するように食べた。

「わんこそば」が前から、後ろから、肩越しからとあらゆるところから飛んできて、お椀に 蓋ができず諦めて、また食べた覚えがある。終いには眼鏡のフレームに蕎麦がぶら下がったりして悪戦苦闘したが、部屋番号と同じ46杯を平らげた。今では見かけなくなったマッチ棒を並べて食べた数を数えた。

宮手さんが「昔に比べて、わんこの蕎麦の量が随分と少なくなったよ。」と言っていたが、この東屋さんが岩手物産展で熊谷にやって来た時に家族で「わんこそ ば」を食べた時も46杯までいけたのは、きっとそのせいかと改めて思った。

ただ、その時家内が「お刺身とか具が付いてない。」と苦情を言っていたが、実は家内も盛岡で「わんこそば」を食べたことがある。

それは遠い昔のことだが、北海道への新婚旅行の帰りがけに盛岡に立ち寄ったときのことなのだ。

結婚式の引き出物に南部鉄器をお願いしたこともあり、バイト先だった岩鋳に電話したら、宿はつなぎ温泉に取って上げるから、夕方においでというのだ。

それから岩大の構内を案内したり、傾きかけた同袍寮も見せたりして歩き回った。

夕方にバイト先を訪ねると「わんこそば」を食べに行こうとみんなが待っていた。

近くの親戚の方々を入れて20名ほどで「わんこそば」を食べた。私はほとんどの方と顔見知りであったが、家内には悪いことをしたと思っている。

(熊谷で将棋の駒を記念にもやった)
(熊谷で将棋の駒を記念にもやった)

更に、その晩はバイト先のお家に泊めてもらうことになり、その度合いが倍増することになってしまった。翌日は、岩鋳の鋳物工場を見学させてもらい、小岩井農場と田沢湖を回って秋田の実家へ帰った・・・

私は、こうして「わんこそば」にまつわる思い出の糸を紡ぐことができた。

 (わんこ蕎麦でなく天ぷら蕎麦)
 (わんこ蕎麦でなく天ぷら蕎麦)

昨日、同期会の受付で確認したら「わんこそば」の希望者は4名しかいなかった。

折角宮手さんが手配されていたのに残念なことだ。やはり、古稀ともなれば自分のお腹に大きな負担をかけられないという賢明な判断なのでしょう。私は天ぷら蕎麦をたべた。

 

    ・古稀となり終着駅も遠からず同期のみなに会いに行かむ

     若きころ盛岡に残しきの糸を紡ぎにたどり歩まむ

私は、こんな思いで盛岡の同期会に参加した。常連の仲間が4人、今回の同期会に参加できなかった。私も古稀を過ぎてから、少しづつ体の衰えを感じるようになってきた。お互いに体調に気を配りながら、来年も同期会にみんなの顔を見に行きたいものだ。

みんなとお別れしてから、私は鈴木さんに「風の又三郎の里」の一つ大迫の分教場の跡地に連れていってもらった。花巻空港から名古屋へ帰る浜島さんも一緒だった。その「風の又三郎の里」の話は、また頁を改めてお伝えすることにした。

                                         (つづく)