44年盛岡同期会 最終日午後 6月20日
「風の又三郎」と言えば宮沢賢治の代表的な童話として、よく知られた作品であるが、実は初期の「風野又三郎」と言う作品は一般的には多くの人々に読まれていないかも知れない。この作品では又三郎は「風のこっ子」として大気の大循環に乗って北極圏まで旅をし、たまたま山の子供たちの純朴な暮らしぶりに興味を持ち、ある日山の分教場へ転校してきたところから物語がはじまる。
一方「風の又三郎」は先駆作の「風野又三郎」に「種山ケ原」と「さいかち淵」という作品を取り込んで再構成した未完の作品とされている。そんな背景から、登場人物の統一性とか年齢構成などに矛盾があったりして、その謎解きも作品を読む面白さとなっているように思う。
いずれの作品も又三郎が山の分教場に転校してくるところから、物語が始まって行くが、今日はそのモデルとなった分教場が点在する「風の又三郎の里」大迫地域を鈴木守氏に案内してもらえることになった。
さて、盛岡の「わんこそば東屋本店」での昼食後に同期のみんなに別れを告げ、私と浜島さんは鈴木さんの車に乗せてもらい大迫へと向かった。鈴木さんに申し訳なかったが、暫くするとお昼のビールが効いて来て、うとうとしてしまった・・・
車で3,40分走ったであろうか、花巻市大迫町の「早池峰と賢治」の展示館に到着した。この建物は旧稗貫郡役所の建物で賢治童話の「猫の事務所」のモデルとされている。
玄関先に昔の馬車を思わせるようなレトロなバスが止まっていた・・・
最初このバスはオブジェかとも思ったが、やがて運転手が現れてどこかに向けて出発して行った・・・私もこんなバスに揺られながら「風の又三郎の里」を廻ってみたくなった。それにしても、今朝雨の盛岡を散策したことが嘘のような好天に変っていた。
馬車のようなバスが、ゆるゆると出発すると明治・大正時代の木造建築を象徴するようなお役所の入り口が見えてきた。
そこには「早池峰と賢治」の展示館と書かれた表札があり、誰でも無料で館内を見学できる施設になっていた。
更に、その横手には案内の看板が立ち、背面に「風の又三郎」を連想させる「帽子とマント」のオブジェがあった。鈴木さんが、ここの名物館長・浅沼利一郎氏の在室を確認してくれたが、残念ながら不在であった。棚にあった手作りの草履に履き替えて中に入ると、浅沼館長が賢治ゆかりの地を案内しているビデオが流れていた。鈴木さんが、そのDVDを入手できるかどうかを係員に尋ねてくれた。館長が不在ではっきりしなかったが、その代わりに「賢治さんが歩いた 銀河の森とたからもの」というHPタイトルを教えてくれた。このブログを書きながら、このHPを覗いてみたが、とても丁寧にできていて楽しかった。数種類の短編のDVDもあるので、良かったらご覧ください。
館内には沢山の展示品があったが、最初は撮影禁止かと思いあまり写真を撮らなかった。私のブログで「風の又三郎 空白の9月3日」を連載してきたが、ガラスケースの展示品の中に賢治の直筆による「9月3日、4日」の構想メモを発見した。
それによると「9月3日 又三郎が草刈り山の下を通り、風の歌を歌う」 そして次の行に「9月4日 草刈り」となっていた。最初は「草」の草書体を判読できず鈴木さんに確認した。この「草刈り」という言葉が、私にあるヒントを与えてくれた・・・
それは9月1日に嘉助が登場する場面である。
『 上から、「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助がかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。 』
嘉助の掛け声だが、どうも『今日は捗った』という意味らしいと萩原先生が言っていた。私も子供の頃に、これに似た掛け声のような叫び を聞いたことがある。それは『ちょうはあ はがえった ちょうはあ はがえった』と畦道を小走りにやって来た少年の姿である。『はがえった』は『捗った』という意味であり、言い付けられた畑仕事が早く終わって、これから遊べるぞという喜びの叫びだったのかも知れないと、ブログに書いたことがある。
私が子供の頃の農家では、馬、牛、山羊、羊などの家畜を飼っていて、子供でも朝飯前に草刈りをやらされていた。小学校高学年の頃には自分の鎌を砥石で研きあげて、使っているも子供いた。
おそらく嘉助も飼育を任された家畜の餌にする草を自分で刈っていたことであろう。
その日は、手早く草刈りを終え、ゆっくり朝飯を食べて「今日は、はかっどった。今日は、はかどった。」とステップでも踏みながら登校してきたに違いないと確信できた・・・
これも9月1日に又三郎が、先生の後について教室から運動場へ出てくる場面である。
『 先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。』
初めて読んだときは、まったく想像出来なかったが、このパネルの獅子舞の写真を見て、「風の又三郎」に登場する「権現さまの尻っぽ持ち」のシーンが思い浮かんだ。
実は私が生まれ育った秋田県の旧皆瀬村板戸の集落には、奥宮神社という鎮守様が祀られている。このお宮は「権現様」と呼ばれ村人から親しまれてきた。その権現様の化身としての「お獅子様」が年に一度だけ里に降りてきて、各家々をまわり悪魔払いをしてくれるのだ。その時、獅子頭を操る人に、唐草模様の大きな風呂敷の尻っぽを持って着いて歩く様子が、正に「権現さまの尻っぽ持ち」を連想させてくれるのだ。小学校からの同級生3人が、この板戸番楽という山伏神楽の継承に係っていたが、最初はこの「尻っぽ持ち」からはじめたに相違ない。太鼓、横笛に銅拍手(シンバルの手のひらほどの物)のお囃子が始まると、いつの間にか「尻っぽ持ち」も唐草模様の風呂敷の中に潜り込み、獅子頭が動きやすいように風呂敷を膨らまし、まるで獅子の胴体のように動きまわるのだ。お囃子も次第に高まり獅子舞も興に乗ってくると獅子頭に魂がはいり、まるで生きているように見えてきて、子供のころは怖かった。獅子頭が大きな口を開けて歯をガタガタ鳴らし、ときどき獅子頭がこちらを睨み付けると、演者が桜の皮を薄く削いで3枚張り合わせた呼子を吹き鳴らすのだ。すると「ヒィー ヒィー」と啼き、それが本物の獅子の鳴き声に聞こえてきた。この時は「尻っぽ持ち」も、獅子頭の動きに合わせて一体となっているが、舞い終わると獅子頭に着いてまわる「尻っぽ持ち」になるである・・・
これが「権現さまの尻っぱ持ち」だと思った。
古稀を過ぎ「板戸番楽」を継承していた同級生も若い世代にその技を受け継ぎ、田舎へ帰ってもその舞姿を見ることができなくなり寂しきかぎりである。
館内の階段を登ると石川旅館のセットが展示されていた。賢治が1996年7月に盛岡高等農林の関豊太郎博士と一緒に大迫に地質調査のために訪れているが、それ以来の定宿として、この石川旅館を使っていたようである。
しだいに道路の幅も狭くなってきた。旭ノ又川沿いに車で20分ほど走ったと頃「火の又分教場跡」についた。この碑の横には「宮沢賢治 風野又三郎 風景地」と刻まれていた。
ただ、初期の「風野又三郎」と他の作品とを再構成した「風の又三郎」とを区別して扱っているのだろうかと、ふと思った。
しかし、「風野又三郎」の冒頭で紹介されている「谷川の岸に小さな四角な学校がありました。学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜りも教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。」よりも運動場は少し大きいように感じだ。
この看板の背面にも「風の又三郎」の帽子とマントのオブジェが取り付けられていた。
以前に鈴木さんから頂いた「宮沢賢治と大迫・早池峰」いう小冊子に次のような一節があった。「着物のすそがめくられるような風の強い日、外で遊んで泣いている子どもたちに向かって、母親たちは叫んだ。『風の三郎にさらわれるぞ。早く家の中さ入れ』」
このことを確かめてみようと鈴木さんが言い出した。丁度、集会所に集まり車座になってお茶のみをしている人たちが見えたのでガラス戸を叩いた。
怪訝そうにガラス戸を開けてくれたご婦人に『この辺で風の三郎伝説を聞いたことがありますか』と尋ねると、奥に座っていた最年長の老人を呼んでくれた。再び同じことを尋ねてみたが『聞いたことがあるとも、ないとも』はっきりした返答を聞き出すことはできなかった。
こうしたやり取りをしているうちに、すっかり打ち解けて来て中へ入ってお茶でも飲んで行くようにと誘ってくれた・・・
火の又分教場跡を後にして、しばらく旭の又川沿いに車を走らせていた鈴木さんが、ここを案内してくれたので写真を撮った・・・
たしかに「風の又三郎」には、風穴とぼこぼこ湧き出す清水とが出てくるが、「外川目旭の又 大清水洞窟」との係りが判らない・・
そこで「外川目旭の又 大清水洞窟」をネットで検索してみたのですが・・・
そして辿り着いたのが、鈴木さんのHPの「みちのくの山野草」だったのだ。ここにはもっときれいな写真と周辺の山野草の可憐な花の写真が掲載されていた。是非ご覧あれ!
更に進んで行くと道幅はだんだん狭く、両側の山も道に迫ってくるところが多くなってきた。私は何だか秋田の田舎へ帰って来たような錯覚に陥り始めた・・・
そして栃沢金山の跡地に着いた。どうもここは私有地になっているらしく、鈴木さんがその家の人を探して声を掛けていたが見つからなかった。
「風の又三郎」の高田三郎の父親は鉱山会社の人で、モリブデン鉱を採掘するためにやって来たのである。このモリブデン鉱を旭の又川の上流の猫山の麓の合石の地で、最初に発見したのは賢治らしいのだ。賢治は金山にも興味を持ち、多くの鉱山師(やまし)たちとの交流もあったようだし、賢治には他の鉱山師と同じように「一山当てよう」という事業欲があったのかも知れない。このことは賢治が上京し、電気炉を買って「人造宝石」を造りだす事業を企てたことからも推測される。
賢治が亡くなって、トランクに仕舞われていた黒い手帳から見つかった「雨ニモマケズ」の一節「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」は、彼の願望だったのであろうか・・・
栃沢金山跡を見て、旭の又川を渡り更に細くなった道路を進み八木巻を通る峠を越えて沢崎に出た。途中で4輪駆動の小型ジープが道を譲ってくてるほどの急こう配の峠越えであった。ここには「沢崎分教場跡」の碑があり、その横には「宮沢賢治 風の又三郎 風景地」と刻まれていた。
やはり初期の「風野又三郎」と他の作品とを再構成した「風の又三郎」とを区別して扱っていると思われる。
「風の又三郎」の冒頭では「 谷川の岸に小さな学校がありました。教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。」とあるが、沢崎分教場跡の方が、運動場の広さといい、すぐ後ろの山といい、谷川の岸の小さな学校として、「風の又三郎」のモデルとして似つかわしいのではないかと思った。
この写真のガードレールの下には谷川が流れていた。それから「運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴」を探してみたが見つからなかった。実は、この岩穴は物語の重要なところに出てくる。「 少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊をそっとかかえてやって来ました。『なんだ、なんだ。なんだ。』とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。すると佐太郎は袖でそれをかくすようにして、急いで学校の裏の岩穴のところへ行きました。」とあるが、それは魚の毒もみにつかう山椒の粉だったのだ。
更に「すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山」となっているので、栗の木を探したが見当たらず、運動場の近くに写真のような珍しい樹木を見た。木に大きな花がさいていた。鈴木さんに名前を教えてもらったような気もするが、既に忘れてしまっている。
もう引き上げようと道路脇に止めてあった車に向かった時、軽トラックが直ぐ近くに止まった。そのトラックから下りて来た老人に、また「風の三郎伝説」について尋ねてみた。私も直接会話してみたが、やはり「聞いたことがあるとも、聞いたことがないとも」明確な応えを得ることができなかった。あの「宮沢賢治と大迫・早池峰」の小冊子の筆者も「風の三郎という名を、ほとんど聞かなくなった昨今ではあるが、筆者の中では、今でも三郎と又三郎とはどこかでつながっているのである。」と述べていたことを思い出していた・・・
鈴木さんは、最後に春日神社に案内してくれた。「風の又三郎」の9月4日に4人で上の原の入り口近くまでやって来たときだ。
「 光ったりかげったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向こうに、川に沿ったほんとうの野原がぼんやり碧くひろがっているのでした。『ありゃ、あいづ川だぞ。』
『春日明神さんの帯のようだな。』三郎が言いました。『何のようだど。』一郎がききました。
『春日明神さんの帯のようだ。』 『うな神さんの帯見だごとあるが。』
『ぼく北海道で見たよ。』
みんなはなんのことだかわからずだまってしまいました。 」
この一節にかかわりのある春日明神までやって来たのだ。
鈴木さんは春日神社の鳥居のところで、私を下ろしユーターンして来ると言って坂道を登って行った。私が写真を撮っていると、ほどなく戻ってきて『上に登って春日明神の帯を見たか』と尋ねてくれたが、時間も夕刻に近づいていたので、自分の目でそれを確かめることなしに車に乗った。
それでも車の窓から、まだ護岸工事の済んでいない蛇行して流れる川を眺めていると『春日明神さんの帯のようだな。』と言った又三郎の言葉が思い出されるのであった・・・
八木巻川沿いに暫く下って「大迫銭座跡」の案内板の所で車を止めてくれた。
この説明によると盛岡藩(南部藩)は1865年11月11日に幕府に申し出て、ここ大迫で貨幣を鋳造したとあった。
この案内版の向こう側にはたばこ畑が広がっていて、何か作業をしている人影が見えた。
ここでも鈴木さんが、作業をしている人の所まで行って「風の三郎伝説」のことを尋ねてくれた。しかしながら、これまでと同様の応えであった。
賢治は1996年12月には大迫地域にたばこ畑の土性調査に訪れ、葉たばこに品評会にも出席しているようだ。この時も関博士と一緒に石川旅館に宿泊し、その様子が詩に書き残されている。
「風の又三郎」の9月5日には、こんな一節が書かれている。
「 その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下のほうの葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにならんでいかにもおもしろそうでした。
すると三郎はいきなり、『なんだい、この葉は。』と言いながら葉を一枚むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、『わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専売局にうんとしかられるぞ。わあ、又三郎何してとった。』と少し顔いろを悪くして言いました。みんなも口々に言いました。『わあい。専売局であ、この葉一枚ずつ数えで帳面さつけでるだ。おら知らないぞ。』 『おらも知らないぞ。』
『おらも知らないぞ。』みんな口をそろえてはやしました。」 ・・・
私が子供の頃、向かいの家で葉たばこをつくっていた。カンカン照りの真夏に大きくなった葉たばこを一枚一枚下の方から摘み、たばこのヤニで真っ黒になった手で、夜なべにそれを荒縄に挟み込み、翌日から天日乾燥させるのだ。葉たばこを挟んだ3メートルほどの荒縄が、何百本もあるわけで、その扱いはた変な 作業である。特に夕立の気配がすると大急ぎで家の中へ取り込まねばならない。
私もその様子を見て、土手を駆け上がり手伝ったことが何度もある。
こ うして夏場から秋にかけて乾燥させた葉たばこを丁寧に一枚一枚手で伸ばして、それを決められた枚数で束ねるのが冬場の仕事になるのだ。どんなに丁寧に扱っ ても崩れてしまうことがある。その崩れた葉たばこですら、自家用に吸うことを「えんぺたばこ」と称して、硬く禁じらていたことを子供の私でも知っていた。 そう考えると、又三郎が葉たばこを取ってしまたことで、一郎や嘉助、佐太郎、耕助、悦治 みんなの騒ぎになってしっまったのであろう。
特に「南部葉」は香り好く、葉巻として珍重されてブランドであったことを考えるとなおさらのことだ。この「南部葉」の収穫時期は、一般の葉たばこよりも1ケ月ほど遅く、「風の又三郎」の9月5日は正にその時期であった。このことは、やはり賢治が葉たばこの栽培の仕方を良く知っていたことを伺わせる。
盛岡に向かう途中で道の駅に立ち寄り、鈴木さんに大福餅を馳走になり、盛岡駅まで送ってもらった。鈴木さんの車で浜島さんは花巻空港へ向かった。
こうして「風の又三郎の里」大迫を廻る旅は終わった。鈴木さん、本当にありがとうございました。その後も鈴木さんが、関連する写真を何枚も送ってくれた。このブログを書き上げたのは、丁度1ケ月遅れの7月20日になってしまったが、これを機に中断していた「風の又三郎 空白の9月3日」の掲載を始めようと思った。
7月20日朝7時、自宅前の梅林堂の駐車場で「熊谷うちわ祭り」の神事が執り行われ、3日間の「うちわ祭り」が始まった。
いよいよ『暑いぞ熊谷』も本格的にスタートしてしまった・・・
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