「まんさくこけし」を作っている三郎さんからの手紙
9月17日から1泊2日で同袍寮の仲間7人で秋田県の乳頭温泉の奥座敷・黒湯温泉にでかけた。この宿で「まんさくの花」というお酒を呑んだ。たいそう気に入ったらしく、皆で10本ほど呑んだようだ。実は「まんさくの花」は、お酒より先に「こけし」に付けられた名前だったのだ。
この旅行談は別途ブログに書く予定だが、今日はこの「まんさくの花」こけしの作家・三郎さんからの手紙を紹介したいと思う。
大正5年9月2日から8日にかけて、盛岡高等農林の関豊太郎教授と神野幾馬助教授の引率で23人の生徒の一人として、宮沢賢治は秩父地域の地質調査の研修旅行に来ている。
今年2016年の9月4日は、賢治小鹿野来訪100周年に当たり、その記念イベントが開かれた。その時、熊谷の「賢治と歩む会」の仲間と賢治研究家で埼玉大学名誉教授萩原先生の案内で記念イベントに出かけた。
この模様は9月4日のブログをご覧いただくとして、その会場で入手した本と資料を三郎さんにお送りし、三郎さんの読後感のお手紙を紹介したいと思う。
その前に三郎さんと私のつながりをご紹介せねばなるまい。
三郎さんは父方の祖母の実家であり、亡くなった秋田の兄貴と小学校からの同級生でだ。三郎さんは宮沢賢治が好きで、青年団の頃には賢治の「植物医師」を兄が演じ、三郎さん演出して村で公演したそうだ。更に、ガリ版刷りの文芸誌を発行していたようだ。几帳面な兄の書体はその頃のガリ版切りから続いていたのではないかと思われる。
また、鈴木守氏の著書でも取り上げられている松田甚次郎の「土に吠えろ」も貪るように読んだものだと話していた。若い頃は社会党委員して活動し、一時期、皆瀬村の村長を務めたこともある。
その後、弟子入りすることもなく独学で、木地山系のこけしを作るようになった。特に横手市が舞台となったNHKの朝ドラ『まんさくの花』では、三郎さんが作った『まんさくの花こけし』がヒロインのマスコットに採用されたことから、こけし愛好家が全国からやって来てくれるようになったと言っていた。
そして、私にとっての三郎さんは、大恩人なのだ。私が自宅浪人を続けいた頃、一期校の受験の迫った2月の中旬に火災にあい自宅が全焼してしまった。秋田の山間部は、雪が多く厳冬の時期であった。そんな我が家を見かねて、三郎さんは牛小屋を改造して住まわせてくれた。まだ子供が小さかった兄夫婦には、母屋の2階を貸してくれた。お陰で何とか冬場を乗り切ることができた。
<宮沢賢治に関して> 三郎さんからの手紙
朝夕は涼しくなりましたが、日中は30度近い日が続いております。この度は宮沢賢治に関するいろいろな資料・本などをお送り下さりありがとうございました。ことに宮沢賢治の大親友の保坂嘉内宛ての書簡ですが、唯今全部読み終えて宮沢賢治のありのままの姿が手にとるようにあらわれ賢治の実像に迫る思いでした。
これは素晴らしい本であり資料であり、賢治研究者にとっても、とても貴重なものと言えます。私は無宗教に近いものですが、賢治がかくまでに日蓮上人の南無妙法蓮華供に傾倒していたこと、親友の嘉内に何度も入信をすすめるところなどは異常とさえ思えるほどです。賢治も同じ人間であり、人一倍のなやみを持ち、弱さを自覚をしている人だったと思います。
それにしても、この度お送り下さった本、資料、ほんとに貴重なものだと思って感謝の便りです。
三郎さんは昭和4年生まれですが、若い頃から宮沢賢治が好きだったので、これまでも鈴木守氏の本を送っていた。そのことを知っていた鈴木守氏から言付かった『宮沢賢治作品集 松田甚次郎編』をお盆に三郎さんに送ったら、返信の手紙に次のようなことが記されていた。
板戸の奥宮神社のお祭りが過ぎたというのに、まだまだ暑さが、今日も30度を超えております。孫の歌、くり返し、くり返し拝見しました。よろこびが私のところにも伝わってきました。
むのたけじさんが百一才でなくなり新聞各紙、テレビが大きくとりあげました。秋田さきがけ新聞では、私もその同志の一人として取材され、紙上にとりあげられました。私と千田元横手市長、そして秋田市の文学課長の北条常久さんです。朝日新聞では社説にとりあげられ、ジャーナリストとしてもわれわれは、心しなければならないと死を悼む記事をのせておりました。
平成28年8月25日 三郎
私は、恥ずかしながら武野武治氏を良く知らなかったし、三郎さんとの係りも聞いたことがなかったのでネットで検索してみた。
武野武治氏の他界 (朝日新聞)
朝日新聞記者時代に終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社した。ふるさとの秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通した。
100歳になった昨年は戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区の東京臨海広域防災公園で行われた「憲法集会」でのスピーチで「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語ったのが、公の場での最後の訴えとなった。
2002年に胃がんの手術をし、06年に肺がんで放射線治療を受けたが、ほぼ完治。90歳を過ぎても自転車に乗り、「80歳より90歳のほうがいい仕事ができるようになった」と話した。
「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社)や「99歳一日一言」(岩波新書)、「日本で100年、生きてきて」(朝日新書)などを著し、「週刊金曜日」では故野坂昭如さんのあとのコラムを担当していた。(木瀬公二)
8月25日の三郎さんからの手紙を受け取って間もなく、花巻の鈴木守さんから武野武治氏と三郎さんのことをメールで知らされた。
そこで私は、武野武治氏と三郎さんは新聞「たいまつ」が関係しているのでしょうかと聞いてみた。すると、冒頭の手紙の続きとして、次のように知らせてきた。
<武野武治に関して> 三郎さんからの手紙
さて、この間亡くなった「むのたけじ」の事ですが、武野先生が「たいまつ新聞」を発行し、その「たいまつ」の読者になって、武野武治の考え方に共鳴し先生のもとに馳せ参じた若者の一人でした。20才前後だったと思います。
したがって70年近いつきあいであり、私の家にとまって話し合ったこともあります。
私はその「たいまつ」に投稿したり、平和論文の著集に一席入選し、新聞一面に掲載されたこともありました。武野先生の著書の何冊かに私のことを書かれているし、朝日新聞に私のことを書いてくれたりしたこともあって、機会ある度にお逢いしておりました。
東大のポポロ事件で有名な元横手市長の千田謙義さんなども東大をでてすぐ武野先生のもとに馳せ参じて活動したものです。
この間、秋田放送(テレビ)からお話があって、10月8日にごく親しい人達だけのささやかな葬儀が奥さんの菩提寺の仙北市神宮寺町のお寺で行われるので遺族から私を名ざしで、私の出席の是非を問われ、体調のこともあるが出席することにしました。
平成28年9月15日 三郎
100歳になった武野武治氏は、戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回ったという。
戦時中に生まれ、食糧難と物資の乏しい暮らしを体験しながらも、現在の生活に甘んじ安穏と過ごしている自分に気づかされた。
ネットのユーチューブに武野武治氏の動画がたくさん載っていた。せめて彼のメッセージに耳を傾けてみようと思った。
行く末に不安含みの法案にデモにぞ行かむ男孫がために
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