「なめとこ山の熊」読後感想(4)

淵沢小十郎の鉄砲

4.マタギの作法

 マタギの家の炉端
 マタギの家の炉端

  私が悴んだ手を囲炉裏にかざして暖めていると、間もなく父と猟仲間も山兎を背負って帰って来た。こんな時、母は決まって「さむがったべ。まんずまんず、そのままふんごんでけろ。(寒かったでしょう。まずまず、そのままで踏み込んでください。)」と言うのだ。みんなの「しんべ」(わらじのつま先から足の甲にかけてスリッパのように藁で編まれた冬用の履物)の紐も、はんばきの紐も凍りついて解けないので、そのまま家に上り込んで囲炉裏に足を投げ出すのであった。すると母は暖めておいた土瓶の濁酒を湯呑み茶碗に注ぎながら、「うさぎが捕れで、えがったなんす。(兎が捕れて、良かったね。)」とご苦労を労うのだった。 

きゃんづぎ、金きゃんづき
きゃんづぎ、金きゃんづき

 冬のなめとこ山から戻った小十郎も、軒先でバサバサと雪を払い落してけらを脱ぎ、そのまま座敷にあがり、囲炉裏ばたで凍みついた「しんべ」とはんばきの紐を解かしたに違いない。そして氷が解けるまで、孫たちに山で出会った猿の親子の事等を話してあげたことだろう。

 マタギの出立(装束)
 マタギの出立(装束)

 その頃には私も見様見真似で、山兎のさばき方を覚えていた。私は父が研いでおいた小刀で、山兎のあごの戸ころから胸から腹へかけて皮をすうっと割いて行くのだ。これは小十郎が熊の皮を剥ぐ時と同じなのである。賢治は、「それからあとのけしきはわたしはだいきらいだ。」と筆を置いている。『なめとこ山と熊』の冒頭では「人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。まちがっているかもしれないけれどもわたしはそう思うのだ。」と言っているが、マタギの小十郎の作法を間違いなしに描き出していると私は思う。

 山兎(冬は真っ白な毛並み)
 山兎(冬は真っ白な毛並み)

 賢治のだいきらいな景色ではあるが、私は山兎の皮を傷つけないように毛皮を引っ張りながら丁寧に小刀で毛皮を剥がしていた。すっかり毛皮を剥いでから、腑分けをして臓物を取り出す。この時期の山兎は殆ど青い草など食べていないので綺麗な内臓なのである。この内臓はよく洗ってから煮込んでから猟犬の餌にする。

 それから骨から肉をそぎ落とし、大根と葱の味噌仕立てで食べる。残った骨を石の上でハンマーで細かく砕き、小麦粉とお水で捏ねてから肉団子のように丸めてから、味噌汁に入れて食べる。父は、「殺生していただいた命を粗末にしたら、山の神の罰が当たる。」といつも言っていた。

 鰰の串焼き(囲炉裏で焼いた)
 鰰の串焼き(囲炉裏で焼いた)

 長い冬を乗り越えるために、母は裏の畑に土室を造り色んな野菜を囲い、大きな樽に白菜を漬け込んだり、沢庵も漬け込んだりしていた。冬場に手に入る魚は、十日に一度位魚箱を背負ってやって来るイサバヤさんから塩のよく効いたホッケの糠漬けや塩辛いカド(ニシン)くらいのものだった。生魚と言えば鰰だけだったかも知れない。霙の降りだしたころに男鹿半島沖でとれた鰰を数箱買って、串刺しにした鰰をずらりと囲炉裏にさし、焼いて腹いっぱい食べた。残った鰰は塩と麹で漬け込んでいた。正月前になると母は一里もの雪道を下って街に買い出しに行ってもお肉などは手に入らなかったし、信仰のせいか四足は食べないという家もあったのは確かだ。

 それでもたまに親戚の熊五郎獣医さんから豚肉の塊を貰うことはあったが、こうした雉や鴨や山兎などの山の恵みは雪深い山里の貴重なタンパク源として、冬場の生活を助けてくれたのだと思い返している。

 私が育った村の守り神「奥宮山」
 私が育った村の守り神「奥宮山」

  山の神と言えば、猟に出かける朝には必ずお神酒を神棚にお供えし、猟の無事を祈っていた。そして夕方に猟から戻ると柏手を打って神棚に無事を報告してから、恭しく朝にお供えしたお神酒をおし頂いてグイット飲むのだ。

 これは父にとって都合の良い山の神様だったのかもしれないと、ずっと後になって気付いた。小十郎にはどんな山の神様がいたのであろうか。

                               (続く)