平成28年12月16日の夕刻、息子の定期検診のから帰ると、青柳夫人から薄墨で刷られた葉書が届いていた。11月に青柳先輩が亡くなられたとの文面に息を呑んだ。暫くの間、色んな事が頭の中を駆け巡ったが、少し呼吸を整えて、奥様にお電話を差し上げた。
青柳先輩は、職を退いてから糖尿病を患い、次第に足が思うに動かなくなり、自宅で黙って座っていることが多くなったということです。そしてゴルフにも出かけなくなり、春や秋の天気の良い日に散歩する位になってしまった。そうして居るうちに自宅での療養、介護も困難となり、止む無く9月頃に入院したそうです。そして11月30日、昼食を摂っている時に誤飲による呼吸不全に陥り、帰らぬ人となってしまわれたということです。
夫の葬儀を済ませ、まだ気を張り詰めているせいか、奥様は立て続けに一部始終をお話してくださいました。私は、ほんの少し同袍寮での先輩の暮らしぶりをお話するしかなかった。そして最後に奥様が、先輩と同期の山王氏のことを気にかけておられたので、岩大工学部の名簿をめくり、山王さんに連絡を取った。幸い先輩に連れられて、山王さんの下宿に行き、当時の学生にとっては高級品のニッカウイスキーをご馳走になったこともあり、山王さんとはお付き合いもあったので、ことの次第をお伝えすることができた。そして山王さんには青柳先輩の電話番号をお伝えに、奥様への電話をお願いした。
その夜は、日中に車で出かけ風邪気味だったこともあり普段よりは少し早めに床に入り、ひと眠りして目が覚めたら11時11分であった。それからは眼が冴えて寝つけず、次々と青さんのこと、同袍寮のことが頭に浮かんできて、眠れなくなってしまった。
(宮良さん) (町田さん) (川本さん) (英君)
私が同袍寮に入ったのは昭和40年4月である。その時、46室の新入生は農学部の英君と私の二名であった。46室の先輩には、電気4年宮良さん、資源3年町田さん、資源2年青柳さん、そして応化2年の川本さんの4人でした。青柳さんは、廊下の方の窓側の万年床で、真ん中に英君、そして宮良さんの順に床がのべてあったと思う。通路を挟んで、川本さん、小南、町田さんが床をのべていた。先日の川本さんの手紙にあった46室の人別帳の如く、それぞれ個性豊かな面々の共同生活の場であった。青柳さんの訃報の知らせを受けたその夜、川本さんに電話したら、青さんをどう人別(文化人 or 野蛮人)したらよいのか迷ってしまい記載しかねたと話していた。
確かに青さんは思慮深い方で、普段は決してお喋りではなかったし、決して活動的でもなかったような気がする。青さんは佐渡で由緒あるお寺さんのご子息で、時折「般若心経」を暗唱したり、またある時は、鴨長明の「方丈記」の冒頭を口にしていたのを覚えている。
その青さんの生活のリズムも他の人とは少し異なり、夜半は眠っていることが多く、皆が寝静まった深夜に独り机に向うという勉強家でした。そんな46室は不夜城の如く、誰かが灯りを灯していた。
こうした寮生活は新入寮生歓迎会から始まり、寮生活にもだんだん馴染んできたころ盛短の白梅寮との合ハイが企画され、小岩井農場に出かけた。私は、初めての女子大生とのハイキングに真新しい運動靴で出かけた。
足の爪がのびていて、親指の爪を痛めてしまい、その爪が生え変わるまで尾を引いた。
沖縄出身の宮良さんは啄木が好きで、私は渋民村や北山のお寺などに連れて行ってもらった。そして週末には決まってダンスに出かけていた。
町田さんは、軟式テニス部で活躍し、学友会の会長もやっていた。
それから、みんなが寝静まった深夜に独りで黙々と勉強している青さんの姿からは、到底想像し難いことではあるが、青さんは意外とダンスが好きであった。
川本さんに段取りしてもらい、一緒に合ハイに行った女子大生を誘ってダンスホールに何度か出かけたこともある。
そして秋になり寮祭の頃だったと思うが、合ハイに行った女子大生が同袍寮46室に訪れたことがあった。
その寮祭で部屋別対抗の駅伝に参加したことがある。確か5人のランナーを揃える必要があったが、特に川本さんが張り切っていて、夜な夜な英君とトレーニングを重ねている様子を見て、私も出場することにした。
その時は、宮良さん、町田さん、川本さん、英君、私が襷をつないだ。
私は、競馬場の砂地の区間を走った記憶がある。どのチームにも弱点があり、たまたま私の区間に他のチームの弱点が重なったらしく、決して足の速くない私が二人追い越し二位まで順位を上げて、アンカーの町田さんに襷を渡すことができた。
その時の青さんは、監督として自転車で中継地点を廻ってくれた。
結果三位入賞を果たし、その夜は部屋での祝勝会と相成った。
翌年、宮良さんは卒業され郷里の沖縄に戻られ、農学部林業科の蔵田君が入ってきた。
それから、時期はよく覚えていないが、川本さんの後輩の機械の吉川君と同室となり、英君と吉川君と私の三人で岩手山に登ったこともある。吉川君とはさほど長いお付き合いではなかったが、彼は几帳面な性格で結婚披露宴に招かれた。そこで吉岡さんにお逢いし、帰りは吉岡さんの所に泊めてもらう羽目になっしまった。
私が2年次であった7月のある夜、郷里の叔父から私に電話が入った。自宅で療養していた母が危篤だとの知らせだった。その時、青さんが翌朝の一番列車に乗るように勧めてくれた。夜中に起き出したのだろうか、明け方に青さんが自転車で盛岡駅まで送ってくれた。その上、電気コンロで炊いたのか、塩むすびを一つ持たせてくれた。ありがたかった。当時は黒沢尻(北上)から横手経由にて湯沢に出る路線しかなかった。黒沢尻に着いてみると、乗り換えに1時間程の間があり、駅の近くの神社にお参りした。その時の写真がアルバムに残されていた。
湯沢から路線バスで1時間ほどかかり、実家に辿り着いた時は、お昼近くになっていたが、何とか間に合った。やはり母はそのまま黄土へ逝ってしまい、その後の行事を済ませている内に夏休みになってしまった。そして家庭教師のバイトで約束していた1週間ほどの日程をこなしてと、前期の試験の備えは殆どできていなかった。
そんな中で、青さんが代数のマトリックス演算を一晩中教えてくれた。明け方近くにひと眠りして試験に臨んだ。試験の問題はすべて教わったものばかりで、思わずヤッタと呟いた。しかし、いざ答案を書き出したら、頭の中が真っ白にクリアされてしまい、解っているはずなのに、書くことができない状態に陥ってしまい、焦るばかりであった。
それからドイツ語は、48室の堀口君が先輩と仰ぐ寅さんが予想問題を作って私を助けてくれた。こんな友人のお陰で何とか合格点を獲得できて、教養学部から工学部への移籍がかなった。
こうして青さんは、私を呑みに誘ってくれるようになった。上田通りの「倉寿司?」に行くと、大将が青さんを気に入っていて「学生さんは、お腹を空かせているだろう。」と言って、おにぎりのような寿司を出してくれた。こんな青さんは細やかな神経を持ちながらも、太っ腹な先輩であった。
その年の冬休みに青さんが、秋田駒ヶ岳の麓にある国民宿舎に泊まり、スキーをしようと言い出した。丁度、田沢湖線が開通して間もない頃だったと思うが、一緒に出掛けた。 それから、青さんを実家に誘い二泊してもらったと思う。その時、青さんは私の従兄に猟銃を撃たせてもらったと喜んでいた。
当時46室では学友会会長を町田さん、川本さんと継承していたが、私が3年の時に機械の小林君にバトンタッチしてもらった。お隣47室の吉岡さんが学友会の会計を担当しており、同袍寮のOB会でお会いする戸崎君、安保君、中川君が同室であった。私は2年になると47室の吉岡さんの勧めで、会計を引き継ぎ、大学祭の会計もやらされていた。
その頃、青さんは当時としては貴重なミノルタの一眼レフのカメラを持っていた。私は、その大事なカメラを青さんからお借りして大学祭や第2回電気展の記録写真を撮った。今でもその時の写真がアルバムに残っている。
その青さんは、将棋とお茶が好きで、いつも大きな茶碗でお茶を飲みながら将棋をさしていた。また、吉岡さんと英君が茶道部だったこともあり、大学祭のお茶会には連れだってでかけた。青さんは、どちらかというと風流を好む人で、お茶会での満足そうな青さんの顔が思い出される。
私が3年次の春に郡司君と長谷川君が入ってきた。郡司君は、部屋の歓迎会の時に「ブルーシャトー」を歌い、今年のレコード大賞になると言い当てた奴だ。そして長谷川君は、少しはにかみ屋でおとなしい奴だった。彼らも寮生活に慣れて来た秋ごろ、夕方ランニングに出かけた川本さんが、盛岡体育館脇で手負いの雉を拾ってきたのです。
私の父親は、冬場に猟をしていたので、青さんから小刀を借りて見様見真似でその雉をさばき、ネギだの豆腐だのを仕入れて来て「雉鍋」にして食べた。無論、一升瓶を揃えるのは怠らなかった。川本さんも青さんも、みんなが車座で「雉鍋」を囲み、美味い美味いと言って食べてくれたのを思い出す。
そしてまた年が明けて、青さんと川本さんも卒論発表を終えてホッとした頃、卒業旅行の計画が持ち上がった。その花巻温泉への一泊旅行に私もお供させてもらった。当時は金銭的なゆとりなどなかったはずなのに、よく実行できたものだと思う。
その時の旅館の名前など覚えていないが、花巻から電車に乗り鉛温泉に宿泊したような気がする。ただ、はっきりと覚えているのは、持ち込んだ4合瓶を炬燵の中に隠し、お銚子が空になると、そのお酒を注ぎ足して呑んだことだけは確かだ。
翌日は、近くを散策したが、どこへ行ったのかは覚えていない。それから花巻に出て、羅須地人協会の所へ行き宮沢賢治の詩碑を見学した。
そして青さんは坪井工業(株)へ、川本さんは日本甜菜製造(株)へとそれぞれ就職されて、寮を去って行かれた。
そして私も44年に秩父セメント(株)へ就職し、熊谷工場の中央管理室にあるコンピュータに触っていた。それから3年位経ったある日、青さんから秩父の工事現場に来ているとの知らせがあった。会社を終えてから後輩の車で秩父まで会いにいった。その工事は、秩父市内の秩父鉄道の下を通り貫けるアンダーパスの施工であった。その夜は、秩父駅前の居酒屋で青さんとの再会に杯を重ねた。そして私は後輩の家に泊めてもらい、そこから翌朝出勤した。それから時を経た昭和53年の夏から7年間も秩父勤務をすることになり、青さんが作ってくれたアンダーパスを通る度に青さんのことを思い出すことになった。
昭和47年2月から冬季オリンピック札幌大会が開催されることになり、北海道恵庭にいた友達が、私のスキー趣味を知っていてジャンプ競技とアルペン競技のチケットを入手し、飛行機の手配まで済ませ「冬季オリンピックを見に来い。」と言ってくれた。
ところが、青さんから結婚式の司会を頼まれ、その日程がぶつかってしまった。さて、どうしようかと思ったが、やはりお世話になった青さんの結婚式の司会を務めさせていただくことにした。丁度その頃の結婚式場は過密スケジュールで運営されており、係の方から時間を追いまくられて、予定されていた親戚のご挨拶を紹介することができなかった。今でも、申し訳ないことをしたと悔いております。
そして47年5月には私も妻を娶り、板橋の社宅住まいとなった。いつだったか、川本さんが出張で上京した時、板橋の社宅に泊まったことがあった。その夜の川本さんのいびきは健在で、家内が驚いていたようだ。
こちらも定かではないが、49年の夏に上野御徒町辺りで同袍寮の集まりがあり、その帰りに青さんを板橋までお連れしたことがあった。その頃には青さんのお子さんが誕生されて間もない時期であったらしく、赤ちゃんがミルクを吐いてしまったと奥様から電話が入ったのを覚えている。うちの息子は早く生まれていたので、家内が心配ないとアドバスしていたような気がする。
そうこうしている間に、不覚にも私は酔いつぶれてしまったが、青さんは家内相手に明け方まで話し込んでいて、朝風呂に入りリフレッシュして帰ったらしい・・・私は、眼が覚めてから、ことの成り行きの話をきいた。
それから何年かして秩父セメントのコンピュータ関連部門が、システム綜合開発(株)として分社化され、外部の仕事を受注するようになった。私の部門は、プロセス制御分野を担当し全国のコンビナートへの出張も多くなった。
そんな時、四日市か知多半島の工場への出張の帰りに名古屋で青さんにお逢いした。その頃の青さんは、名古屋支店の勤務だったようで、名古屋で呑んでから知多のご自宅に泊めてもらったことがある。その時は、まだまだ若い頃で二日酔いするほど呑んでしまった。翌日はきまり悪く、奥様にお迷惑をおかけしたことを反省しつつおいとました。その時に青さんから貰った「ぐい吞み」を大事に使わせてもらっている。
今となっては、これが青さんとお逢いした最後となってしまった。
今から5年程まえに娘夫婦が名古屋に転勤したことがあった。ほんの半年程であったが、その時に名古屋に行き、青さんにお逢いしておけば良かったと、今になって悔やんでいる。
ここに「青柳さん 追悼の記」を書き記したが、殆ど自己中心の記事になってしまった。この記事をご覧いただいた「青柳さんとご縁」のあった皆さまに、青さんを偲んでいただけるキッカケになれば幸いです。
そして、これからは機会をとらえ自ら進んで旧友にお逢いしようと心に決めた。最後に、青さんが好んで口にしていた「方丈記」の冒頭を記す。
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
青柳 眞次様のご冥福をお祈り申しあげます。
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井手(青柳真次の娘) (月曜日, 23 1月 2017 07:54)
小南毅さん、初めまして。埼玉県に住む井手麻由子と申します。
父のブログの所でコメントを書きたかったのですが、どこから入ればわからずこちらにメッセージを送ります(facebookにも申請してしまいました)
私は亡くなった青柳真次の娘でございます。この度は父の逝去に伴うご高配、本当に感謝しております。
先週末、四十九日の法要で実家に帰った所、母より小南さんがアップしてくださったブログがあるとの事で拝見いたしました。
大学時代の話をよく楽しそうに話していた父のことを思い出してアルバムを見ていたら、父のアルバムにも小南さん始め他の方々も写っていました。
四十九日で父を見送った私にはこんな悲しい事が人生であるものかと思っていたのに、小南さんのような聡明で心優しい方が父の事をブログに載せてくださって心から喜びを感じました。
小南さんのブログやYouTubeの旅行記なども楽しく拝見させていただきました。とても詳細にわかりやすく情景が思い浮かぶ様に文章に落とし込んでいるのを見てなかなか凡人にはできないなと(笑)
父の生きる世界、父の時代の価値観などはなかなか知り得る事ができないでいましたので、この小南さんのブログを通じて父の事を少し知る事ができました。
世界で一番尊敬する父のそばに 小南さんの様な豊かな心を持った思いやりに溢れた方がいることをとても嬉しく思います。
ブログにも書いてありましたが、父は新潟県の佐渡にある寺の生まれです。父は坊さんになる道が決まっていましたが、ある時、新潟での大きな地震を経験した事で寺に残る事をやめ家族の反対を押し切って岩手大学に進学しました。老後は佐渡に住みたいと言うほど自分の寺を愛していました。
こちらのブログがよく書かれていますので良かったら読んでください。
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/09/10/000000
とにかく感謝の気持ちを伝えたくてこちらにメッセージを送らさせていただきました。
父に会いたくなったらこのブログを読んでなぐさめてもらおうと思います(笑)
小南さん、きっと私だけでなくたくさんの方々に感謝されている事でしょう。今のボランティアのお仕事でもきっと色んな人を支えている事でしょう。
どうかいつまでもお元気でいてください。ブログも楽しみにしています。
小南 毅 (月曜日, 23 1月 2017 14:11)
井手様、コメントをいただき、ありがとうございます。
青柳先輩のご実家のお寺さんが、井手さまご紹介のブログに掲載されております。是非、クリックしてみてください。
青柳先輩の進む道を決定付けた、新潟地震を私は小学校の代用教員をしているときに体験しました。その時のことを熊谷文芸3号の「48年ぶりに書いた手紙」に書かれております。お時間のある時にごらんください。 小南