高倉 健 追悼特別展

東京ステーションギャラリー (2017.1.8見学)

 私が初めて観た映画は「二十四の瞳」であったと思う。小学校3年の時、担任の黒沢ちえ先生が生徒を4キロもの砂利道を引率して、稲庭町の映画館に連れて行ってくれた。映画館といっても、丸太に板を打ち付けた背もたれのないベンチのような座席であったのを覚えている。

 確か、3月末の春休み前の頃で、北国ではまだまだ寒い頃でした。館内には大きな薪ストーブが焚かれていたが、隙間風が足元を吹き抜け、小さな体をと寄せ合うようにして観た。

 奥宮小6年(今、後藤、門脇、阿部、斉藤校長、浅利、黒沢、土崎、小南、緑川 各先生)
 奥宮小6年(今、後藤、門脇、阿部、斉藤校長、浅利、黒沢、土崎、小南、緑川 各先生)

 「二十四の瞳」は、壷井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演で昭和29年に映画化されているが、子供の私たちには、映画が伝えたかった本当の意味は理解できなかった。ただ、大石先生が「兵隊さんは嫌い。漁師の方が好きだ。」と子供たちに言った言葉が心に残り、帰りの道すがらその訳を考えたいたのを思い出す。担任の黒沢先生は、とても厳しい先生でした。それでも辺鄙な山間部の小学生の私に絵を描かせては、展覧会に出展してくれたり工作を出展してくれたり、眼をかけてくれた。4年から6年生までは、高跳びの選手で、とても人気のあった門脇先生が担任であった。私はあまり勉強しなかったので6年生の秋に、緑川先生の音楽の時間に、門脇先生が私を宿直室に連れて行き気合を入れてくれたことを今でも覚えている。

二十四の瞳の思い出のシーン
二十四の瞳の思い出のシーン

 大人になってから、何度か「二十四の瞳」を観た。そのたびに戦争で失明してしまった磯吉(田村高廣)が、子供の頃に対岸の先生の家を訪ねた時にてみんなで撮った写真を指でなぞりながら、同級生の名前を呼ぶ場面で涙を拭いた。

 そして、年老いた大石先生を見ていると、悪戯をしては黒板を指す細い竹の棒でピシャリと手を叩いてくれた黒沢先生を懐かしく思い出す。その黒沢先生も90歳を過ぎ、施設で暮らしているという・・・

 これが、私が初めて映画と出会った時の思い出である。

 でも、子供の頃に映画を観るチャンスは殆どなく、もっぱらラジオドラマを聴いては、その場面を想像するしかなかった。「笛吹童子」「紅孔雀」「赤胴鈴之助」などに夢中になった。

 それでも私は映画が好きで、木の板で映写機を作った。老眼鏡のレンズをボール紙の筒にセットし、焦点を合わせる仕掛けを作った。それから、2階の屋根裏部屋の物置を片付けて、壁に模造紙を貼ってスクリーンを作った。そして、兄のワイシャツの箱に張ってあったセロハン紙を細く切って、そこに絵具で絵を描いてフィルムを作った。一つ年下の従兄を誘って試写会をする運びとなったのだが・・・電気コードの延ばし、60ワットの裸電球を木箱の映写機に差し込んだ。そして焦点を調節すると模造紙のスクリーンにぼんやりとではあるが、確かに映像が映し出された。その完成の悦びもつかの間、何だかきな臭い匂いがして、木箱の映写機から煙が出て来たのだ。慌ててスイッチを切って、裸電球を引き抜いた。その時は、手に軽いやけどをしただけで済んだが、今考えると冷や汗ものである。

 中学の頃には、役場勤めの叔父と中学校に勤めていた兄が、米軍支給のナトコと呼ばれていた可搬式16ミリ映写機の映写技師の免許を取り、学校の体育館で時折映写会を開いてくれた。そのとき、米軍から配給されて記録フィルムを観た。それは朝鮮動乱やエスキモーの記録映画だったが、劇場用に制作された映画も上映してくれた。

 ある時、村祭りの余興に頼まれた野外映画会の手伝いをしたことがある。叔父と兄はやぐらの上で祭りの振舞い酒を呑んでしまい、私が映写機を回した。その時の映画は、竹山道雄原作、市川崑監督の「ビルマの竪琴」であった。そのフィルムのレンタル期間1週間ほどの間に、場所を変えて何回も上映され、私はその度にこの映画を観ることができた。三國連太郎の隊長、安井昌二の水島上等兵、浜村純の軍曹、西村晃の一等兵、そして内藤武敏の演じる小林一等兵のナレーションで最後が締めくくられた。中でも、捕虜収容所のあった部落のおばあさん(北林谷栄)の演技は忘れられない。

 「ビルマの竪琴」の集合写真(裏方は1年E組の懐かしい仲間、脚本を持っているのが私)
「ビルマの竪琴」の集合写真(裏方は1年E組の懐かしい仲間、脚本を持っているのが私)

 中学を卒業して高校に入った秋のことである。同じクラスの原田君が、文化祭で演劇をやろうと言い出したのだ。その時、彼が選んだ脚本が「ビルマの竪琴」で私が演出をやらされることになった。知らない中学からの集まりなのでキャスティングに困っていたら、原田君が殆どのキャストを決めてくれた。

 今思えば、いずれ劣らぬ名優が集まった。原田君が隊長を演じ、Ð組の松野君が水島上等兵役で、これが正にはまり役で観衆を泣かすことになった。

 また、現地人のおばあさん役の阿部さんの演技には舌をまいた。

 私は「ビルマの竪琴」の映画でのシーンは頭の中ですぐ再現できたので、間の取り方などの演技指導には自信があった。それに軍服や軍靴、戦闘帽などの小道具は、まだまだ使い古した本物で揃えることができた時代である。

 水島上等兵の竪琴に合わせては数学の柴田先生と音楽の大山先生が、袖でマンドリンを弾いてくれた。

 この「ビルマの竪琴」は好評で、横堀町商工会の依頼を受けて地方公演を行うことになり、スピカーを積んだトラックで宣伝して回った。今考えると当時の松田銀次校長が、良く許可をだしてくれたものだと思う。

 その頃、高校のある湯沢市までの交通機関は劣悪で、特に冬場はバスは稲庭町止まりであり、下宿するしかなかった。当時賑わっていた街中には4軒も映画館があった。日活系の「光座」、松竹・大映系の「高吉座」、駅前通りには東映系の「湯沢劇場」、それの横に「小劇」という洋画館があり、少ないこ遣とらっくいで洋画を観にでかけた。1年Ð組に堀君という秀才がいて、映画のことやアメリカン・ポップスの話しを聞かせてくれた。彼は根っからの街の子で、大いに文化的な刺激を受けた。西部劇を観ては「シェーンのアラン・ラッドと荒野の決闘のヘンリー・フォンダが打ち合ったら、どっちが早いか」などと議論したものだ。あの頃は、多くの俳優とその名前を記憶していたが、顔は思い出せるがその名優の名前が出て来ない・・・最近、BS3チャンネルで古い名画が再放送されるので観ている。この間、高校時代に「高吉座」にかかった「リオブラボー」を観た。ジョン・ウェーンとディン・マーチン、それに若いガンマンを演じるリッキー・ネルソンの早打ちをドキドキしながら観た。

 しかし、今ではすっかりシャッター通りになり、映画館はすべて閉館となってしまった。

東京ステーションギャラリー内壁
東京ステーションギャラリー内壁

 こんなに映画好きだった私も、あまり映画を観ない時代が長く続いた。特に就職してからは、殆ど映画を観ていなかったが、土曜日の午後、池袋の映画館で蔵原惟繕監督の「南極物語」を観た。映画は斜陽の時代に入った頃かと思うが、その時はほぼ満席で立ち見だったような気がする。

 取り残された犬たちの南極での越冬の姿、そして次第に命を落とし数が減って行き、ついにタロとジロウの二匹だけ生き残る。その二匹と再会した高倉健と渡瀬恒彦のシーンに会場のみなが涙を拭う名場面に感動した。

 その後も再放送の度に「南極物語」を観て一人涙を流した。

 朝10時の開場前なのに50人程のフアンが列をなしていた。展示会場は3階と2階に設けられていた。3階の会場に入ると、天井に取り付けられた映写機から、四方の壁を大スクリーンにして、健さん主演の初期の作品や任侠物の予告編が繰り返し映されていた。その映像は迫力があったが、音響は混線してしまっていて残念でした。

 少し興奮気味でその会場を出ると、通路の壁にモニターテレビが沢山取り付けられていて、それぞれで健さんの映画を2分から4分位に編集したものを数本ずつ写しだされていた。

 何しろ205本の作品をすべて見ると2時間はかかるとの説明があったが、私はその会場に3時間も止まることになった。

 健さんがデビューしたのは昭和31年の「電光空手打ち」だそうだが、その頃の映画は殆ど見ていない。最初の頃は、当時大人気の美空ひばりとの共演作品が10本もあったとは知らなかった。

 その中に健さんの奥さんになる江利チエミとの共演作もあった。結婚されたころは、むしろ江利チエミの「テネシーワルツ」の方が世に知れ渡っていたように思う。

 私が高倉健を初めて知ったのは「網走番外地」である。その映画は観ていなかったが、「網走番外地の歌」を覚えて歌ったら、兄に「お前、その歌をどこで覚えたの?」と訊かれたことがある。

 その後「唐獅子牡丹」の歌も覚えて歌ったが、映画を観てはいなかった。

 健さんが絶頂期の任侠物の映画は、テレビ放映されるようになってから観た。健さんと共演した鶴田浩二と池部良は良かったね。また健さんと共演の田中邦衛との相性も最高だ。

 最近、文藝春秋が編集した「高倉健追悼特集」を読むと、各界の色んな方々との係り合いのエピソードが掲載されていた。「居酒屋兆治」で共演した加藤登紀子の話は興味深かった。彼女の夫であった藤本敏夫は60年代に学生運動のリーダーであったことは良く知られているが、健さんをお手本に歩き姿まで真似ていたという。

 その頃の映画「昭和残侠伝」や「網走番外地」は、学生運動の闘士たちのバイブルであったそうだ。そんな訳で横尾忠則が描いた映画のポスターが、よく盗難にあったそうだ。

 健さんが東映に所属し、1年に10本以上撮影しているころの映画はあまり観ていなかったが、中村錦之助の「宮本武蔵」シリーズ全5巻の内、「二刀流開眼」「一乗寺の決闘」「巌流島の決闘」に佐々木小次郎役の健さんを映画館で観た。

 元来時代劇が好きだった私には、健さんの小次郎はとても新鮮に映った。東映の時代劇といえば片岡千恵蔵、市川右太衛門、近衛十四郎、大友柳太郎、月形龍之介、中村錦之助、東千代之介などの人気俳優がいて、子供の頃棒切れを持って千恵蔵の真似をして遊んだのを覚えている。

 初期の頃の健さんは千恵蔵や錦之助との共演作も多いが、次第にその人気が彼らを上回るようになって行った。

 やはり健さんが東映から独立し、年に1本位のペースで映画を撮るようになってからの作品が心に残っている。佐藤純彌監督の「君よ憤怒の河を渉れ」という映画が中国で大ヒットし、高倉健が国中のヒイーローになっていると息子から聞いた。どんな映画なのかとDVDで観た。悪に屈せず正義を貫くというストリーと中国の社会的な背景を考えるとなるほどと思った。佐藤純彌監督との作品で「新幹線大爆破」「ゴルゴ13」は、まだ見ていないが、熊谷出身の森村誠一原作の「野生の証明」は話題作だった。東北の集落の大虐殺で生き残った少女(薬師丸ひろ子)を助けて、自衛隊員の健さんが、スターロンのランボーのようにサバイバルを繰り広げた。 

 その後、チャン・イーモウ監督の「単騎千里を走る」は映画館で観た。中国での撮影は素人が出演したそうだが、健さんと少年との友情には心温まった。

 新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を原作とした森谷司郎監督の「八甲田山」は、撮影に3年も要し、健さんは私財を売ってこの作品に専念したという。

 雪国育ちの私には、吹雪の中の行軍の厳しさがことさらにリアルに感じた。

 このほか森谷司郎監督との作品は「動乱」「海峡」と大作が多い。

 「八甲田山」に続いての山田洋次監督「幸せの黄色いハンカチ」を観て、これまでとは違う高倉健に出会った。更に山田洋次監督の「遥かなる山の呼び声」は、昔観た西部劇「シェーン」を思い出すような爽やかさの中に人間の業の深さや哀愁が描かれていた。これも賠償千恵子との共演であったが、物語の最後の場面、健さんが網走に連行される列車の中で、賠償千恵子と健さんの心の橋渡しを演じる脇役ハナ肇の演技は素晴らしかった。

 2本目のハリウッド映画は、ロバート・ミッチャムと共演した「ザ・ヤクザ」も迫力があった。それにも増してマイケル・ダグラスと共演した「ブラック・レイン」は凄かった。中でも癌を隠して出演した松田優作の演技は狂気迫るものを感じさせた。また、「ミスター・ベースボール」ではコミカルな演技の健さんを観ることできる。

 市川崑監督の「四十七人の刺客」は、従来からの忠臣蔵の常識を覆すものだとの前評判も高かったので映画館に出かけた。病的にも見える色部又四郎を演じた中井貴一と大石内蔵助役の高倉健の二人の謀略戦、そして討入真近に屋形舟での対面シーンは殺気が漲り、観ている私まで身体が硬直してしまった。

 何と言っても降旗康男監督と高倉健のコンビは57年間にも及ぶが、二人とも東映から独立してからの作品は見応えがある。

 東映時代には「新網走番外地シリーズ」6本と任侠物4本の作品があるが、映画館で観た記憶がない。独立してからの最初の作品が「冬の華」では、堅気になった義兄弟の池部良を健さんが刺すシーンからスタートし、それから映画のタイトルが映し出さ れる。その時の幼子のために養育費を獄中から送り続けた健さんが出獄した時には、女学生に成長してた。その女学生・池上季実子が、足長おじさんと慕う健さんが父親を刺した男なのだ。

 その二人の間を取り持つ田中邦衛の脇役も良かった。

 その後「駅」「居酒屋兆治」「夜叉」「あ・うん」と続く。

 この「あ・うん」の坂東英二の演技にはびっくりである。元プロ野球の投手であったとは、とても信じがたい。

 そして浅田次郎原作の「鉄道員(ぽっぽや)」は、乙さん(高倉健)が運転、仙ちゃん(小林稔侍)が蒸気機関車の釜焚きをしているモノクロの画面から始まる。この映画は何度も観たが、廃線となる駅の駅長としての仕事をやり貫き定年を迎える男の横顔に悲哀を感じた。乙さんの妻(大竹しのぶ)が幼い娘を亡くした時も、妻が旭川の病院で亡くなった時も、乙さんはホームに立つ続けた。そして乙さんが定年を控えたある冬の夜に昔娘に買ってやったお人形を持った女の子が現れる。ついには末広涼子が登場して成長した娘の姿を乙さんに見せてくれる。

 最終列車を出迎えに出た乙さんがホームで倒れ亡くなる。ラストシーンで乙さんの棺を列車に乗せて、運転席で汽笛を鳴らす朋友仙ちゃんの小林稔侍には泣かされてしまった。

 いかにも浅田次郎らしい映画シナリオの設定である。

 子連れの酔っ払いを演じる志村けんも末広涼子も好いが、私は「だるま食堂」の奈良岡朋子が好きだ。

 「ホタル」は健さんから提案し企画された映画で「高倉健の映画」と呼ぶに相応しい作品だと降旗監督が語っている。

 物語は年若い特攻隊員を不憫に思って実の子供のようにかわいがり、戦後はその慰霊のために生涯を捧げた「富屋食堂」の女将鳥濱トメをモデルにした実話がベースとなっている。

 若い特攻隊員が「ホタルになって帰ってくる」と言い残して出撃して行くシーンが印象的だ。

 生き残った特攻隊員・藤枝(井川比佐志)は、青森の実家でりんごを作り、鹿児島の知覧で漁師をしている山岡(高倉健)にリンゴを送り続けた。

 しかし昭和から平成に年号が変わるとノートに書き続けた日記を孫娘に残し、藤枝は一人吹雪の冬山に入り自殺してしまう。そのことを知った山岡と妻和子(田中裕子)は藤枝の眠る青森を訪ねる。タンチョウ鶴の求愛の舞に遭遇して、健さんが雪の中で鶴を真似て舞う姿は、唐獅子牡丹の入れ墨と日本刀の健さんからは想像し難い名場面である。

  冨屋食堂
  冨屋食堂

 ある日、山岡は特攻隊員たちに〝知覧の母〟と呼ばれた「富屋食堂」の女主人・富子(奈良岡朋子)から、金山少尉(本名キム・ソンジェ(小澤征悦))の遺品を、体の弱った自分の代わりに韓国へ行って遺族に届けてほしいと頼まれる。実は、金山は実は知子の初恋の相手であり、結婚を約束したいいなずけだったのだ。

 山岡は、金山が死んで自分もあとを追おうとした知子を止め、いっしょになった。 そんな山岡と知子はふたりで海を渡り、韓国の釜山に出かけた。

 しかし当然のことながら、金山の生家の人たちに、山岡たちは歓待されず、むしろ「なぜ自分たちの子どもが死に、日本人のお前が生き残っているのだ」と罵られる。 山岡は金山が残した遺言「自分は大日本帝国のために出撃するのではない。恋人や朝鮮民族、朝鮮にいる家族のために出撃するのだ。」ということを伝えた。・・この場面には息を呑む。健さんも思わず涙がでたという。そして劇中歌「アリラン」も何かを訴えかけてくる。

 「あなたへ」は2012年6年ぶりの健さんの映画なので、一人で観に出かけた。この映画は富山の刑務所でクランクインしたそうだが、私の兄が富山市に住んでいるので、何度か出かけたことがある。5月の連休の頃には、山頂に雪を残した壮大な立山連峰を眺めることができる。

 健さん演じる倉島英二は、富山刑務所の木工指導教官である。そこに服役中の夫がいることを伏せて何度となく慰問にやって来る童謡歌手・洋子(田中裕子)の歌は、いつも決まって宮沢賢治の「星めぐりの歌」であった。

 賢治が好きな私は、何故この「星めぐりの歌」が採用されたのかと考えながらも、いつの間にか映画に吸い込まれて行った。

 職業訓練で作った神輿
 職業訓練で作った神輿

あかいめだまの さそり

ひろげた鷲の  つばさ

あをいめだまの 小いぬ、

ひかりのへびの とぐろ。

 

オリオンは高く うたひ

つゆとしもとを おとす、

           アンドロメダの くもは

           さかなのくちの かたち。 

 

           大ぐまのあしを きたに

           五つのばした  ところ。

           小熊のひたいの うへは

           そらのめぐりの めあて。

 

  海への散骨を願った洋子にとって「故郷の海が、そらのめぐりの めあて」でだったのであろうか・・・。

 獄中の夫が亡くなり洋子は英二と結婚するが、洋子が病で亡くなった時に絵手紙が届けられる。そこには“故郷の海に散骨して欲しい”という洋子の想いが記されていた。洋子の遺言は依頼人により、平戸の郵便局に7日間保管されていた。英二は、亡くなった洋子の真意を知るために、故郷へ向けて自分で内装をしたワンボックスカーで、富山から長崎県平戸の漁港・薄香に向けて一人旅を始める。旅の途中で出会う人々との関わりあいも面白い。

 キャンピングカーで放浪する元国語教師(ビートたけし)に会う。放浪の俳人・種田山頭火を諳んじ「放浪と旅の違いは目的があるかないか」であり、山頭火の違いは、芭蕉には「旅は帰るところがある」と語るのである。

 その正体は車上荒らし犯で、下関市の関門海峡を見渡せる展望台で、英二の目の前で山口県警察の警察官に逮捕され、自分も警察署で事情聴取を受ける。

 田宮裕司( 草彅剛)は、北海道の物産展を出店するため日本を回っている。車の故障で困っているところを英二に助けてもらい一緒に旅をする。妻に不倫の噂があり、真実を知るのを恐れて、自らすすんで出張しているというのだ。

 南原慎一 ( 佐藤浩市)は、年齢は上だが田宮主任の部下で、過去に何かを抱えている。英二に平戸で困ったことがあったら大浦吾郎を訪ねろと教える。 

 英二が平戸に着き郵便局で受取った封書には洋子の故郷の灯台を描いた絵手紙に「さようなら」とだけ添書きがあった。

 濱崎奈緒子( 綾瀬はるか)は、英二の頼みを聞いて船を捜してくれる。濱崎多恵子( 余貴美子)は、奈緒子の母で濱崎食堂を営む。夫が海で遭難して行方不明になって以来、奈緒子を一人で育てている。大浦卓也( 三浦貴大)は、薄香の漁師で祖父大浦吾郎の対応に腹を立て、英二のため無理やりにでも船を出そうとする。

 多恵子は、英二が示した南原慎一が書いてくれたメモの筆跡を見て、海で遭難した夫が生きていることを知る。そして卓也と来月結婚する予定の奈緒子のウエディングドレス姿の写真を散骨の時に海に流してくれと頼む。

 大浦吾郎( 大滝秀治)は、散骨のために船を出すことを頑なに断るが、ついに船を出してくれて、散骨をする海を眺めながら「久しぶりにきれいな海ば見た」という。健さんは、この短い台詞に「泣きましたから。泣くシーンじゃないのに。ドキっとしました。」と共演シーンでの最後の台詞について振り返っている。この「あなたへ」が大滝秀治の遺作となってしまった。 

 英二は、散骨を終えてから門司で北海道物産展を訪ね南原慎一と再会する。そして娘・奈緒子のウエディングドレス姿の写真を手渡す。

 英二は「刑務所から娑婆につなぎを取ることを”鳩を飛ばす”というが、今私が鳩になった。」と呟くのだった。

 撮影を終えた健さんは、富山刑務所の講堂で受刑者350名を前に「自分は、日本の俳優では1番多く、皆さんのようなユニフォームを着た俳優だと思います。『あなたへ』は、人を思うことの大切さ、そして思うことは“切なさ”にもつながると思います。1日も早く、あなたにとって大切な人のところへ帰ってあげてください。心から祈っています」と声を詰まらせながら作品を紹介し、受刑者へのメッセージを伝えた。この日、同刑務所内で封切り公開中の「あなたへ」のDVDが上映されたという。

 2014年11月10日午前3時40分に高倉健さんは帰らぬ人となった。次回作の準備を進めていたそうであるが、この「あなたへ」が健さんの遺作となってしまった。

 その後、高倉健を追悼する長編トキュメンタリー映画「健さん」が2016年8月20日に公開されたので映画館に出かけた。

 健さんを知る国内外の俳優、監督とのインタビューで構成されていた。

 そして日本の男・高倉健の人生哲学として

「漫然と生きる男ではなく、一生懸命な男を演じたい」

「どんなに大声を出しても、伝わらないものは伝わらない。むしろ言葉が少ないから伝わるものもある」とメッセージを投げかけて来た。

 健さんが、比叡山飯室谷長寿院で滝行をした時に知り合った阿闍梨和尚から貰った「往く道は精進して、忍びて終わり、悔いなし」という言葉を大事にしていると、健さんの最後の手記に書かれていた。