5月10日に少し遅くなってしまったが、鈴木守さんの『「羅須地人協会時代」再検証』を三郎さんに送った。それから「宮沢賢治熊谷来訪100周年の年に」題して短歌と随筆を投稿し、掲載された『文芸熊谷 第5号』と私のブログをプリントしたものを同封した。
すると「三郎こけし」と三郎さんからの手紙が入っていた。その中には「むのたけじの葬儀」への参列した事と「偲ぶ会」の様子などが書かれてあった・・・
最近「2020年までに憲法を改定したい」と述べた安倍総理の記者会見が話題をよび、国会でもその質疑が集中的に行われていた。そんなこともあり、改めて「憲法9条」にこだわっていた「むのたけじ」のことが思い出された・・・
< 三郎さんからの手紙 >
この度は、本やら資料など沢山御恵贈下されありがとうございました。
数えの89才、ふり返ってみれば、ここ迄生きてるということは不思議な気も致します。診療所の医師が退職してからは病院にも行かず、薬も飲まず、もしろさわやかになった気がします。この調子だとまだ少し延びるかもしれません。
こけしをつくることが適当な運動になるので、それが良いのではないかとも思っております。奥宮で勉強した男の同級生は、私が一人となってしまいました。女のひとは五人残っております。
昨年の十月に行われた「むのたけじの葬儀」には、家族の者に支えられて参加し、来賓として出席された人達(弁護士、大学教授など多数)のトップの席に座らされ、最初一番の焼香をさせられてびっくりしました。
そのあと「偲ぶ会」に出席し八分ほどのスピーチをしましたが、私のそれが、新年テレビに報じられ、これまた驚きでした。・・・
五月十三日 小南 三郎
小南 毅 さま
「むのたけじさんを偲ぶ会」のパンフは二枚ありましたのでお送りします
ご挨拶にかえて
東京、早稲田大学で行われた「偲ぶ会」で、むのさんのひ孫くんたちに会った。8歳で小学校2
年生の穂坂波留(はる)くんと5歳の侑楽(ゆら)くんだ。むのさんは「おおじじ」と呼ばれていたらしい。ひ孫を膝の上に乗せたり、時々彼らに「元気ですか」と電話をしていた「おおじじ」のむのさんが、彼らにプレゼントしたものがある。それは1枚の色紙だ。
「自分の弱さを知っているものが最も強い」と書いてある。ひ孫くんたちにはまだ理解できないだろうが、やがて成長して理解し、むのおおじじが伝えた言葉として、確実に未来につながるだろう。
先月23日、むのさんは骨だけになった。斎場でお骨を拾ったルポライターの鎌田慧さんは、「むのさんの骨は太くて、骨箱に入れようとした係りの人がびっくりしていた」と話していた。それは、まさに、むのさんの土匪骨だ。
そして、その太い骨をつくりあげたのは、秋田の土であり、秋田の水だ。
敗戦の日に新聞社を辞め、横手に戻り、「新聞たいまつ」を出し続けた時も、むのさんは秋田の大地を信じ、そこにしっかりと根を張って立ち、世界さえも見据えた。
「戦争」を殺す・‥。
むのさんが秋田で燃やし続けた「たいまつ」は、未来を明るく照らすことができるのか、それは、わたしたちが、むのさんから手渡された「たいまつ」を
己の炎として熱く燃やし続けることができるかにかかっている。
(偲ぶ会実行委員・ABS秋田放送 須藤聖賓)
第二次世界大戦を体験した武野さんは、一貫して反戦を叫び、平和憲法第9条の堅持を訴え続けてきた。この憲法9条の改正が、議論を呼んでいる現在こそ武野武治氏の主張に耳を傾ける時だと思い、ブログに掲載した。数多くの彼の著著に関しては割愛させていただいた。
<むのたけじ(武野武治)略歴>
1915年1月2日 秋田県仙北郡六郷町に百姓の子として生まれた。
1936年3月 東京外国語学校を卒業し、報知新聞入社、支局、社会部勤務
1940年12月 朝日新聞東京本社の社会部に勤務、戦場にも出かけた
1945年8月 新聞人として戦時体験を反省し、ケジメとして朝日新聞を退社
1948年2月 秋田県横手市で「たいまつ新聞社」設立「週刊たいまつ」発行
・破壊された農業・農村を立て直し、戦争要らぬ・やらぬ社会づくりを提言し、青壮年と女性の学習運動に努力した。経営困難で、それを家族全員の労働で補いながら、発行を30年続けた。
1978年1月 第780号を出し、休刊した。
・それから今日まで、ジャーナリストとして執筆と講演の仕事を続けてきた。
201年8月21日 永眠 「死ぬ時そこが生涯のてっぺん むのたけじ」
< プログラム >
14:30 受付開始
15:00 開会の挨拶
宝蔵寺住職 中沢宏哉
15:10 第1部 「むのたけじと共に残したもの」
永田佳子(秋田市消費者協会・会長)
菅谷理市(元横手郵便局員)
小南三郎 (こけし職人)
北条常久 (共著者)
15:40 弔電披露(朗読・酒井茉耶)
ミニドキュメント「100歳、叫ぶ」(ABS秋田放送制作)
ドキュメント映画予告編
『笑う101歳×2歳 笹本恒子・むのたけじ』
河邑厚徳監督作品 2017午初夏に全国順次公開予定
16:00 第2部 「むのたけじの魂を未来へ
石戸谷雅子(偲ぶ会実行委員・潟上9条の会)
虻川高範(弁護士)
京野楽弥子(さやこ)
外池 智(秋田大学教育文化学部教授)
秋田大学学生のみなさん
16:50 喪主のご挨拶 武野大策
16:55 閉会あ喜田拶 工藤新一(偲ぶ会実行委員・秋田市議会議員)
< 偲ぶ会の話し手の紹介より抜粋 >
3.小南三郎
湯沢市皆頼在住。元皆瀬村長。
木地山こけしを作る職人。
「新聞たいまつ」に共鳴した若者たちが集まって作った市民団体「平和の戦列」のメンバー。
むのさんが開く学習会に参加し多くを学んだ。
三郎さんは、私の兄と小学校からの同級生で、誕生日も三日した違わないと聞いた。若い頃は、村の青年団を率いて闘志あるれる活動をしていたようである。
そして今89歳、ようやく穏やかな暮らしをなさっているご様子で、手紙の末尾は、次のように結ばれていた・・・
「こけしは在庫が一杯ありますので、知人等にも差し上げて御利用頂ければうれしい限りです。何しろ残された時間を健康のためにやっているので、御気づかいは一切無用 御利用頂ければ、これ以上のことはありません。」
実は、恒例の「お花見同期会」が新宿であり、その後バラバラになっていた写真をDVDに編集し「高校のころの仲間たち」を作成してみた・・・これも自分の生涯の一つの記録と思いながら。
このDVDを湯沢の同期の仲間に送ったら、お礼の電話が入った。話している内に、彼が「小南三郎さんを知っているか」との話になり、私の父方の親戚で祖母の出たところで、昨日三郎こけしと手紙をいただいたと伝えた。彼は、三郎さんへのテレビ取材の仲介を頼まれていると言ったので、三郎さんが「むのたけじを偲ぶ会」に出席した時の冊子を送ってもらったと伝えた。すると、彼は「湯沢でも武野武治を偲ぶ会を開いた」ということだ・・・
これまで高校時代の仲間が、むのたけじに関わってきたことを全く知りませんでした・・・「戦争要らぬ・やらぬ社会づくり」という、むのたけじの主張に共鳴している仲間が、身近に居たことに心強く思いながらブログを書いた。
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あすなろ (火曜日, 19 11月 2019 21:50)
安倍総理は憲法改正が悲願なのでしょうか?トランプ大統領は思いやり予算の4倍を要求しているとか、そんなことを考えると日本が自立するためには改正も必要かなと思いますが、やっぱり、切りがないのでどこかで流れをかえなくては、アメリカやロシアのように軍備を売るような国になりたくないです。