宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて
〔 1916年(大正5年)9月 〕
・9月2日熊谷町松坂屋旅館泊(推定)
・9月3日国神村梅乃屋旅館泊(推定)
・9月4日小鹿野町寿屋旅館泊
・9月5日大滝村三峰神社宿坊泊
・9月6日秩父町角屋旅館泊
・9月7日秩父線野上駅(熊谷経由帰盛)
萩原昌好氏の長年にわたる調査結果を現した著書「宮沢賢治『修羅』への旅」
と平成23年に発見された小鹿野町寿屋旅館の館主田隖保の日記により明らかにされてきた。特に『田隖保の日記』は、これまで推定とされてきたことが、事実として実証さてたことは、多いに意義深いことだ思う・・・ (小鹿野町行政専門員 山本 実美様の資料参照)
2016年は宮沢賢治の熊谷来訪100周年にあたり、記念に『文芸熊谷第5号』に随筆と短歌を投稿したら掲載された。
そして「第6回熊谷短歌会文学散歩」
「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」を企画し、理事会の賛同を得て実施できることになった。今回は、タイム・スケジュールの関係で訪れることができなかった歌碑も紹介しておく。
武蔵の国熊谷宿に蠍座の
淡々ひかりぬ九月の二日
熊谷の連生坊がたてし碑の
旅はるばると泪あふれぬ
宮沢賢治
毛虫焼くまひるの火立つこれやこの
秩父寄居のましろきそらに
つくづくと「粋なもやうの博多帯」
荒川ぎしの片岩のいろ
宮沢賢治
この歌碑の2首目「粋なもやうの・・・」は、上長瀞の歌碑にも刻まれている賢治が短歌を詠んだ場所に関して、寄居町と長瀞町が、主張し合っているようである・・・ (第3回熊谷短歌会文学散歩にて見学済)
当日の朝7時頃、突然携帯に電話が入った。横須賀から参加予定の岩大の後輩からであった。寝坊してしまい熊谷着9時16分になってしまうと言うのだ・・・すぐさまPCで東京駅発の新幹線を調べて、8時4分に乗れば間に合うとメールで知らせた・・・彼も何とか間に合ってくれた。
こうして第6回熊谷短歌会文学散歩への参加者26名を乗せたバスは、平成29年5月31日に熊谷駅南口を午前9時に出発した。今日の参加者には「賢治と歩む会」から2名、長年「熊谷賢治の会」で活動された方も加わった。
バスの中で「100年の時を越えて -秩父鉄道と宮沢賢治-」のDVDを流したところ大変好評であった。
運転手さんに確認したら、上長瀞の歌碑まではまだ30分程かかるとのことだったので「宮沢賢治の花木」のDVDを流した。このDVDは昨年の盛岡での同期会で鈴木守氏に入手していただいたものだ。盛岡や花巻近郊の山野で賢治が愛した草花の写真に賢治が作った曲がBGMで流れた。
「種山ケ原の夜」の歌、「星めぐりの歌」、「月夜のでんしんばしら」や「ポランの広場」の歌、このほかに花巻農学校の精神歌や応援歌なども流れたと思うが、音楽の才の無い私には、聞き分けることができなかった・・・
しかし、常日頃から短歌を詠む方々は、草花を良く観察されているので、このDVDも興味深く観ていただけてように感じた。
つくづくと「粋なもやうの博多帯」
荒川ぎしの片岩のいろ
宮沢賢治
上長瀞の養浩亭駐車場に本日ご案内いただく小鹿野町行政専門員の山本正実様がお待ちになっていた。わざわざ「宮沢賢治秩父地質旅行の歌碑を訪ねて」の資料を作成し、更に小鹿野歌舞伎の資料なども取り揃えていただいた。
山本氏とのご縁は、昨年の9月4日「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120年記念祭」に萩原昌好先生と「賢治と歩む会」の仲間と一緒に参加させていただいたことに始まった。今回は、瀧田代表にご紹介いただいた山本様にお願いして、ご案内役をお引き受けいただいた。
山本様は、賢治が短歌9首を書き記し、保坂嘉内宛てた大正5年9月5日小鹿野町郵便局の消印が押された葉書を拡大コピーした資料を示しながら説明を始められた。
それから、賢治が「粋なもやうの博多帯」と詠んだ「虎岩」を案内してくださった。
それから秩父地方は、古生層を含め造山活動による変成岩から新生代の地層に至るまでを観察できる地域として、世界的に注目を集めていたという。そのような様々な地層が露頭していたことから「地球の窓」と呼ばれ、「日本地質学発祥の地」になったのだと山本様は説明してくれた・・・
9月3日賢治一行は、寄居町から荒川沿いに上流に向かい「立が瀬断層」や「象ケ鼻」を調査し波久礼へと向かった。荒川から上った一行は「茶屋(旧吉田邸)」で冷えた身体を休めたことであろう。そこから末野の石切場近くの絹雲母片麻岩の露頭を見学し、汽車で国神(上長瀞)へやってきた。 それから長瀞の岩畳を調査し、その夜は、国神の梅乃屋に宿泊したようだと萩原先生は述べている。
見学を終えバスに乗り込んでから、「賢治さんはサイダーが大好きで、嬉しいことがあると農学校の学生にご馳走したそうです。」と言って皆さんに冷やして置いたサイダーをお配りした。すると山本様も「よくこだわりますね。」と言って微笑んでくれた・・
翌日、三台のガタ馬車に分乗し赤平川沿いに小鹿野へ向かったと山本様が説明してくれた。今回は、バスだとすれ違いが困難なことから、一番新しい道路を使って「ようばけ」に向かって走っていますと付け加えた・・・
バスが「ようばけ」に到着すると、山本様は「1600万年前の日本列島の模式図」を広げて、日本列島の生い立ちから説明してくれた・・・その向こうには、高さ100m、幅400mにわたる「ようばけ」と呼ばれる広大な断層を眺めながら、お話を聴いた。
そして賢治たちが、その崖をよじ登り岩石標本を採取する姿を思い浮かべていた・・・
さはやかに 半月かヽる 薄明の
秩父の峡のかへり道かな
宮沢賢治
この山は 小鹿野の町も 見へずして
太古の層に白百合の咲く
保阪嘉内
この友情の歌碑は、背景に「ようばけ」を望む最高の場所に建立されたと確信した。
山本様は、この友情の歌碑の横に立ち、盛岡高等農林学校のころの同人、宮沢賢治、保坂嘉内、河本義行、小菅健吉の4人が中心となり発行した同人誌「アザリア」の話をしてくれた。この碑の両脇には4本の欅が並んで植えられており、同人4人にたとえて「『アザリア』の木」と呼ばれていると話してくれた。
大正6年7月7日の夜に同人は集まり「アザリア1号」の合評会が開かれ、その閉会後この4人は深夜の秋田街道を雫石まで歩いたという。
特に1年後輩の嘉内は、賢治とは自啓寮の同室であったこともあり、互いの信頼は深く、大正6年7月14、15日に二人だけで岩手山に登った。銀河がしらじらと南から北にかかり、岩手山の裾野の薄明かりの中で消えかけた「たいまつ」を代るがわる吹いたという・・・「あなたとかはるがはる一生懸命そのおきを吹いた。銀河が南の雲のきれまから一寸見え沼森は微光の底に睡ってゐる。」(宮澤賢治)
そして賢治にとっては「まことの国」の建設であり、嘉内にとっては「パラダイス(花園農村の理想)」の建設に命を捧げようという「銀河の誓い」を交わしたという。
しかし、嘉内がアザリア5号に発表した「社会と自分」の中で若者の高揚し気持ちを抑えきれずに書いてしまった「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム」の一節が、学校当局に問題視されることなり、ついに退学処分になってしまった。
賢治がそのことを知ったのは、春休み明けであった。賢治は懸命に学校側にかけあったり、可愛がってもらっていた関豊太郎教授にも嘆願したらしいが、嘉内の退学処分を覆すことはできなかったようだ・・・
そして「絶対真理」は法華経の研鑽と布教だと信じる賢治は、自分を変革させてくれたと信じる「法華経」を退学した嘉内に贈り、日蓮宗への入信を熱心に勧誘したようだ。
大正9年2月2日の嘉内宛書簡にて、賢治は「国柱会入会」を知らせ、「南妙法蓮華経」を唱えながら花巻の街を巡り歩いた。
そして大正10年1月23日遂に家出をして上京し「国柱会」の門をたたいた・・・
この一連の行動には、もう一つの狙いがあった。それは岩手山に登り「銀河の誓い」を交わし合った親友嘉内を「日蓮宗」に入信させ、共に「理想とする国造り」に邁進したいと願う賢治のパフォーマンスであったとも考えられる。
しかし、こうした賢治の働きかけも空しく、7月18日の面会を最後に賢治と嘉内は決別することになった。
こうした賢治から嘉内に宛てた書簡73通が保坂家に保管されている。
けれども結果的には、賢治は国柱会の高知尾師の奨めにより法華文学の創作を始めた。また、賢治は、実家からの仕送りを拒絶し東大赤門前の出版社に勤めガリ版を切り、夕刻からは街に出て布教活動を行い、寝る間を惜しんで創作活動に没頭した。
裕福な家に生まれた賢治が自活したのは、恐らく一生涯でこの時期だけだったかも知れない・・・でも、こうして賢治は数多くの童話作品などを書き残してくれることになったのだと思う。
ここでの賢治の創作活動は、花巻女学校に勤め始めていた妹トシ子の容態悪化が知らされ、大正10年9月12日頃に帰花するまで続けられた。その時賢治が持ち帰った大きなトランクには、びっしりと原稿が詰め込まれおり、それを開けて妹トシ子に見せたという。その後、そのトランクは2年ばかりの間、薄暗い土蔵の2階に投げられていたそうだ・・・
山本様から丁寧なご説明を伺い、その感動も覚めやらぬうちに、集合写真を撮った・・・ところが、写真を撮り終えて気が緩んだのか、女性の方が足を滑らせて転倒してしまった。その時嘉内の歌碑にコツンと頭を打ったようだ。その方には、化石館を見学する間、木陰のベンチで休んでいただいたが、「ここで集合写真を撮ろう。」などと提案しなければ良かったと悔やまれた・・・でも、翌日に大倉さんから電話が入り、転倒された方は大丈夫でしたと告げられた時は、ほっと安堵した。
<賢治と嘉内 友情の歌碑>
<おがの化石館>
次の目的地・小鹿野町庁舎に向かうバスの中で、山本氏はTシャツに着替えながら「今日はチャレンジデーなので、庁舎の前ではTシャツでないと具合が悪い。」と言っていた。 何でも、町民が15分以上運動をして、その参加率を競うのだそうである。
6月1日のメールで『昨日の「チャレンジデー」は小鹿野町参加率57.5%、北海道東神楽町57.9%で0.4パーセントの僅差で負けてしまいました。』と伝えてきた・・・ 文学散歩一行26名も参加の意志表明をしたのに負けてしまったということは、残念なことである。
山峡の 町の土蔵の うすうすと
夕もやに暮れ われらもだせり
宮沢賢治
賢治は最初に下の句を「夕もやに暮れ
われら歌へり」と詠んだが、「校友会会報」に投稿するさい「われらもだせり」と推敲されたと山本様は説明してくれた。
そして、賢治たちが夕方まで地質調査を行い疲れて帰る道すがら、自分たちを鼓舞するために盛岡高等農林の校歌とか自啓寮の寮歌でも歌ったのかも知れないし、そうだとすれば、「われら歌へり」でも好かったのかも知れないと付け加えられた・・・
それから、ほど近い小鹿野町観光交流館へ向かった。
大正5年9月4日秩父地質調査旅行に訪れた賢治一行が宿泊した「寿屋旅館」は、小鹿野町が「観光交流館」として改築し、維持管理されていた。ここで昼食の予定であったが、到着時間が速かったせいもあり、どうも準備が整っていないようだ・・・
山本氏は、食事前にご案内しようと、早速賢治の詩碑の前に立った。
山本氏は、この詩碑建立に際し萩原先生にお骨折りいただいたことからお話を始めた。
この詩碑は花巻市の方角を向いているものの、賢治が手帳に記した書体をそのまま刻むことはできないかを花巻の賢治記念館等と折衝して頂いたが、かなわなかったと言いながら、賢治が使っていた手帳のレプリカを取り出した。
賢治は、この詩を公に発表するために書いたものではなく、自分自身に対する願望を手帳に書き留めたものであろう。
そして、上段欄外にメモされた11.3.は重要な意味を持つと説明を加えた。11月3日は国柱会の田中智学が提唱していた明治節に当たり、賢治はこの日を機に自分に対する戒めとして、当時公用語として用いられていたカタカナで書いたのであろうと萩原先生の説を披露してくれた。
山本氏は、また葉書を拡大コピーした大きな紙を広げて説明を始めた・・・
ここまでの旅で詠んだ九首の短歌を鉛筆で葉書に書き、賢治は親友保坂嘉内宛に投函した。その葉書に押された小鹿野局の消印が、賢治が9月5日に小鹿野に宿泊していた唯一の物証であった。
ところが、これまで賢治一行が宿泊したと推定されていた寿旅館が平成20年に廃業となり、その建物を小鹿野町が購入し、平成23年に改築前の資料整理中に寿旅館の館主田隝保が書いた明治36年から昭和24年にわたる日記帳を偶然私が発見したと山本氏が語った。
まず、次の記事で賢治一行は寿旅館に宿泊したことが明白となった。
「9月4日(上段)」
○盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊ス 午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、原町箱屋辺迄ムカヒニユク
賢治一行が馬車に乗り赤平川沿いに小鹿野町に向かい、小鹿野の手前で「ようばけ」の広大な岩壁を調査したようだ。
そして「午前中来館」とあるから午前中に寿屋旅館に到着したと記されている。
更に「三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、原町箱屋辺迄ムカヒニユク」の記事から、源(皆本)沢の調査の帰り道で賢治は土蔵の街並みを見て
「山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり」
と詠んだのではかと思う。この「歌へり」は「もだせり」に変更され「校友会誌会報」第三十二号に発表されている。
山本氏は「田隝保日記」のレプリカを指し示しながら説明を続けた・・・
「9月4日本文の欄」
○盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス、同一行ハ本日三田川村ニ向ハレ今夜投宿、明日ハ三峰山ヘ、(三峰ハ一行初メテナリ)明後日ハ大宮魚惣角屋旅館宿泊ナリ
これまで賢治一行が三峰神社の宿坊に泊まったことは、三峰神社の社務所日誌にも記載があり明らかとされてきたが、これで大宮(現在の秩父市)の角屋旅館に宿泊したことも明らかになったという。
「九月五日の日記上段」
○三峰三宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヨウノ手紙ナリ
○魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車屋要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石ヲモ送レリ
との記載もあり、当時の事実関係だけでなく館主田隝保の優しい心配りが伺われる。
最後に「生徒一行ノ石ヲモ送レリ」とあるが、これは地質調査団を受容れる定宿としての務めでもあったのだろう。(秩父大宮から盛岡高等農林学校へ向けて発送のであろう)
山本様は、九月七日消印埼玉秩父局0‐9 武蔵国三峰山 宮沢賢治の保坂嘉内宛ての葉書に書かれた短歌の中から二首を取り上げて説明を続けた。
星月夜なほいなづまはきらめきぬ
三みねやまになけるこほろぎ
こほろぎよいなびかりする星の夜の
三峰やまにひとりなくかな
賢治は三峰山で星月夜に見た稲妻を短歌に詠み込んでいる。9月5日の夜三峰山山頂は良く晴れていたが平野部には電雷の記録があったと熊谷気象台に残されていたことを萩原昌好氏は、既に突き止めていたが、更に
「9月5日田隝保日記」
○今夜ハ八時頃雷鳴電光多シク、点燈滅シ、二時間モ立テバ点火スベシトノ話ナリシガ遂ニ終夜点火無シ
と賢治が三峰山に見た稲妻を裏付ける内容が記されていた。
翌朝、賢治一行は三峰山を下山し、徒歩で秩父大宮に向かい影森の鍾乳洞に立ち寄ったと思われる。秩父大宮の角屋旅館に着くと、そこには寿旅館の館主田隝保が手配した岩石サンプルが届いていたことであろう。
私は「田隝保日記」の発見者が目の前にいる山本氏であることを知り、多いに感動し思わず拍手してしまった・・・
すると「賢治と歩む会」の小川さんが、山本様のことを皆さんにご紹介くださり助かりました。さらに「熊谷賢治の会」が中心となり建立した熊谷の賢治の歌碑に下には、タイムカプセルが埋められていることや「賢治と歩む会」の活動なども付け加えてくださった。
そして本日参加された黒澤さんの事もご紹介いただいた。
黒澤さんは地元小鹿野地区のご出身で、熊谷の八木橋デパートにお勤めのころ「熊谷賢治の会」で活動されていたようです。
今回も「古鷹神社」の賢治の歌碑を見学した後に賢治一行が地質調査に入ったという皆本沢の橋まで足を延ばすことを提案してくださった。現在は熊谷歌舞伎の会でもご活躍で小鹿野歌舞伎に携わっている山本様とも親交がおありのごようすであった・・・
小鹿野地域は昔から養蚕が盛んでであり、江戸時代から天領地として管理されており、時々代官がやって来て、この寿屋旅館を本陣として使っていたとのことである。
その内部は当時を再現した造りとなっていた。その廊下の壁には朝日新聞社主催の宮沢賢治展で使用されたパネルを移設したものであると山本様が説明してくれた。
<賢治の詩碑前でのご説明>
<本陣内部の見学とご説明>
昼食後に賢治一行が宿泊した寿屋の2階を見学させてもらった。山本様は、賢治が葉書を投函した小鹿野町郵便局は、この2階の窓から見える道路を挟んだはす向かいにあったと説明してくれた・・・
この畳20畳の部屋に23名もの学生たちが宿泊したとのことに、それぞれの方がその様子を想像していたようだ。
2階の裏側の窓から本陣の屋根と古い土蔵が見えた。
賢治が「山かひの町の土蔵のうすうすと」と詠んだ土蔵は、この土蔵だったかも知れない、などと想像をふくらませた・・・
幸運にも小鹿野町の山本様に案内していただいたお陰て、普通では見学できないところまで見学できて感謝、感激であった。
<賢治一行が宿泊した寿屋の2階>
私は、昨年「文芸熊谷 第5号」に「宮沢賢治 熊谷来訪100周年の年に」と題して短歌と随筆を投稿した。 この随筆は、山本様がこの寿屋旅館から「田隝保日記」を発見して下さらなかったら書けなかった内容であった。
私は6月1日に、このようなことを書き記し山本様に御礼のメールをさしあげた。
霧晴れぬ 分れて乗れる 三台の
ガタ馬車は行く 山岨のみち
宮沢賢治
山本様は、小鹿野郵便局に投函された賢治の葉書の拡大コピーを広げて説明を始めた。
この歌碑の歌は葉書に書かれた9首目の短歌であった。
平成23年に寿屋旅館から発見された「田隝保日記」に書き記された「三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、原町箱屋辺迄ムカヒニユク」の記事により、賢治一行が源(皆本)沢も地質調査を行っていたという事実が新たに明らかになった。この歌碑は平成28年7月に小鹿野町と小鹿野賢治の会によって建立された一番新しい賢治の歌碑である。
当時の道路事情と小鹿野から三田川村までの距離を考えると、賢治一行25名は三台のガタ馬車(乗合馬車)に分乗し1時間程かけてここまでやって来たのではないかと、山本様が解説してくれた。
4月22日の「第11回賢治と歩む会」で萩原先生に「文学散歩のコース」をご覧頂いたら
このコースでの見どころを30分ほど説明してくださった・・・今日ご参加の皆様にもお聞かせしたかったが、残念でした。
会が終了してから、萩原先生に「古鷹神社の歌碑」の写真を頼まれたことを山本様にお伝えすると「先生はまだお出でになっていない。」とのことであった・・・
この古鷹神社境内にそびえたつ樹齢400年の杉の巨木は、100年前にこの下を通った賢治一行を見守っていたのかと想像すると何だか杉の木が愛おしくなり、杉の木を撫てやりたくなってしまった・・・
この杉の巨木の向こうにある建物は、屋内に300席もの客席を備えた歌舞伎の舞台があると山本様が説明してくれた。
人家もまばらにしか見当たらない山間の三田川村に、こんな立派な歌舞伎小屋があるとは信じ難いことであるが、小鹿野地域に根ざした歌舞伎の伝統なのであろう・・・
ここ「古鷹神社」近辺に黒澤様は生まれ育ったとのことで、子供の頃の様子やつり橋があったことなどを話してくれた。
それから10分程歩いて、賢治一行が地質調査に入ったという源(皆本)沢と赤平川の合流地点に架かっている橋迄行ってみた。
<古鷹神社境内の賢治の歌碑>
<賢治一行が地質調査した皆本沢>
最後の旅程である秩父鉄道野上駅に向かうバスの中では、山本様から小鹿野歌舞伎の歴史や各集落ごとに代々受け継がれきた歌舞伎の伝統についてお話を伺った。山本様が所属する「小鹿野歌舞伎」は、年間25回もの公演を行っているとのことには驚かされた。
歌舞伎の公演にはお金がかかるが、カツラや衣装など全て自前でまかなえるからできるのだと話された・・・吉田町の道の駅で地場産のお土産を買い求めた。
盆地にも 今日は別れの 本野上
駅にひかれる たうきびの穂よ
宮沢賢治
9月7日朝に秩父大宮の角屋旅館を出発した賢治一行は、汽車に乗り上長瀞までやって来た。そして再び長瀞の岩畳に降り、荒川沿いに本野上まで岩石などを調査しながら下ったと思われる。こうしてすべての調査日程を終え充実感に浸りながら、賢治は「風に光る唐きびの風景」を見て歌を詠み、本野上駅から汽車に乗り秩父盆地に別れを告げたのであろう・・・
萩原先生は、賢治たちの調査の最後の目玉が、この長瀞のポットホールだったろう述べている。
渦を巻く流れに巻き込まれた石が、長い年月をかけて岩盤を削り、こうしたポットホールを削りだすのだという。奥山の雪解けの大水や台風の豪雨が、渦巻く激流をなしポットホールを成長させてきたのであろう・・・
ここ野上駅前の賢治の歌碑を訪ねる本日の文学散歩の最後のコースである。
山本様には、上長瀞の賢治の歌碑見学からバスに同乗いただき、野上駅に至るまで一日中同行して丁寧にご説明いただいた。たいそうお疲れになられたことでしょうが、全工程を終えられ安堵されご様子であった・・・
文学散歩(宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて)に参加された26名は、山本様のご説明を伺いながら歌碑を訪ね、多いに学び多いに感動し、賢治一行25名が全旅程を終えて感じていたような満足感に浸った。
最後に金子会長から山本様への謝辞を述べさせていただき、お別れすることになった。
ありがとうございました。山本様には、お車を駐車してある上長瀞まで電車でお帰りいただくことになってしまい、誠に申し訳なく思った。
<野上駅前の賢治の歌碑>
一行は「盆地にも今日は別れの本野上」と野上駅に別れを告げてバスに乗り込んだ。バスの中で第5回熊谷短歌会文学散歩(渋沢栄一翁 所縁の地を訪ねて)のDVDを掛けたが、画面サイズが小さくて皆さんの詠草の下の句しか映らず、失敗であった。
でも、準備しておいたDVDをお土産に差し上げることで、何とか埋め合わせをさせていただいた。
熊谷駅到着まで30分程あるとのでしたので、賢治が花巻の下根子桜の宮沢家別邸に「羅須知人協会」を設立し、1926年(大正15年)に農民のために書いた「農民芸術概論網要」を要約したDVDを放映した。これは賢治独特の論理展開でもあり、少々理解し難かったようだ。
でも、この中の一節「永久の未完成これ完成である」は、私自身の短歌でもあるような気がして、金子会長に投げかけてみた・・・
熊谷駅の近くになり、ご参加いただいた皆様への御礼と森田会報編集長の代行として6月末までに短歌2首の提出をお願いした。
最後に金子会長から文学散歩を締めくくるお言葉を頂き、無事バスは定刻16時半に熊谷駅南口に到着した。
皆さんも大満足のようすで、バスから降りてお一人、お一人からお礼のお言葉をいただいた。これを私一人で受け止めるのはもったいないことで、この様子をそのまま山本様にお届けできたらと思った。
<参照文献>
・宮沢賢治「修羅」への旅 萩村昌好著 朝文社
・宮沢賢治の青春 菅原千恵子著 角川文庫
・私が友保坂嘉内-宮澤賢治全書簡 岩手県立美術館
・兄のトランク 宮沢清六 ちくま文庫
・宮沢賢治小鹿野町来訪100年記念詩 小鹿野町
・宮沢賢治秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて 小鹿野町行政専門員
山本 実美 作成資料
コメントをお書きください
平井 守 (木曜日, 08 6月 2017 23:25)
素晴らしいブログ有難うございました。あっという間にこれだけのことをやってのける早業に感服!言葉が出ない。文学散歩の始めから最後まで本当に感謝
しています。改めてお礼申し上げます。繰り返し読んでゆきます。
今後ともよろしくお願いいたします。 平井
金子貞雄 (木曜日, 08 6月 2017 23:37)
力作です。短期間でよくここまで纏められました。大変素晴らしく且つ貴重な内容を含んだ感動のブログとなりましたね。多くの人に読んでもらいたいと思います。
新井あや子 (金曜日, 09 6月 2017 10:00)
わずか一週間前の事なのに、もうこうして振り返れることができますのは、とても嬉しく感謝感激です。「スピードは命」改めて考えさせられました。
歌を詠む参考にさせていただきます。ありがとうございました。 �
小川美穂子 (土曜日, 01 7月 2017 05:51)
すばらしいブログですね。びっくりでした。とりいそぎ、小鹿野の旅行のところは熟読。なんとまあ詳しく、しかも文学的に、まとめていらっしゃることか。感激が蘇りました。大きな拍手を送ります。これはまったく、みなさんにみていただきたいものですね。☆文化連合の文化祭、終わってから知ったのですが、そういうときに、こういったものは発表なさるのですか。私は実はアナログ・スローでして、スピードについて行けない古いタイプなので
すが、来年はぜひ参加したいなと思います。