第11回 賢治と歩む会 2017.4.22

「月夜のでんしんばしら」

 始まる前に時間があったので、萩原先生に「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」の企画書を見て頂いた・・・

 今日は、遅れて参加される方がおられるとのことで、萩原先生が旅の見どころ話してくれた。長年にわたり賢治一行の足取りを検証し続けてきた萩原先生のお話は興味深く、3名の参加希望があった。

 劇団「シナトラ」の原田さんに「月夜のでんしんばしら」を朗読していただき、皆さんが感想を述べた・・・それぞれ感じ方は異なるが、興味深かった・・・

 それから萩原先生が、「賢治がどうして電信柱の行進をイメージできたのか」を解説してくれた。賢治は盛岡から花巻まで線路沿いに歩いて帰ったそうだ・・・時には小走りしたことあっただろう。そんな場面で迫りくる電信柱を眺め、電信柱の行進のイメージが出来上がったようだ。

     <花巻駅周辺>
     <花巻駅周辺>

 この「月夜のでんしんばしら」の一節に 「ところが愕いたことは、六本うで木のまた向うに、三本うで木のまっ赤なエボレットをつけた兵隊があるいていることです。」

とあるのは、花巻軽便鉄道の電信柱のことですと萩原先生は説明を加えた。

 これは、羽生方面から秩父鉄道の路線が熊谷駅に入ってきているようなものだとイメージを膨らませてくれた。

 こんな背景を伺うと、今にも線路沿いに歩いて来る賢治の姿が浮かんでくるようだった・・・

  <電信柱の絵(保坂嘉内)>
  <電信柱の絵(保坂嘉内)>

 ところで賢治は「夜空のでんしんばしら」のモチーフをどこから思いついたのだろう。

左の絵は、嘉内が中学のころに描いたものだという・・・賢治は盛岡高等農林の自啓寮で同室だった嘉内は、この絵を賢治に見せていたのではないだろうか。

 そして二人で岩手山に登り銀河の流れる下で語り明かし、二人で交わした「銀河の誓い」以来、この電信柱には特別な意味が込められることになったようだ・・・

 <電信柱の絵(宮沢賢治)>
 <電信柱の絵(宮沢賢治)>

 賢治は『アザリア』第3号の「心と物象」の中で

 落ちかかる そらのしたとて 電信の

   はしらよりそふ 青山のせな

と詠い、嘉内は「絶品」褒め讃えた。そして12月23日の嘉内の日記には

 夕闇のデンシンバシラへだたりて

   ひろ野の雪と二人の若者

と歌を記し、『アザリア』第5号に嘉内は

 雪の夜の電信バシラのおののきに

   ふるひ吠える犬がありたり

という歌を載せている。寄り添って腕木を連ねる電信柱は、「銀河の誓い」で交わした通じ合う意志と理想を示す象徴であったのであろう・・・

<注文の多い料理店>
<注文の多い料理店>

この「月夜のでんしんばしら」は大正10年9月14日の日付で書かれ、大正13年12月に出版された『注文の多い料理店』の中の一編である。

 啄木の北へ走る電柱列の歌、

「かぞへたる子なし一列驀地(ましぐ ら)に北に走れる電柱の数」が、賢治のこの童話 「月夜のでんしんばしら」や詩「一本木野」に示 唆を与えたと米地文夫氏( 2011)の論文にあったが、興味深い話だ。賢治は盛岡中学の先輩である啄木の短歌に憧れて歌を詠むようになったというから、この歌も読んでいたに違いない。しかし、

「ドッテテドッテテ、ドッテテド

 いちれつ一万五千人

 はりがねかたくむすびたり」と電信柱を規律正しい軍隊の行進に見立てるところなど、もはや賢治の世界だと思う。そして「どういうわけか、二本のはしらがうで木を組んで、びっこを引いていっしょにやってきました。そしていかにもつかれたようにふらふら頭をふって、それから口をまげてふうと息を吐き、よろよろ倒れそうになりました。」と続くが、この二本の電信柱は賢治と嘉内に相違ないと私は思った。大正10年7月18日に決別してしまった二人は、 

大正10年9月14日の日付で書かれた「月夜のでんしんばしら」の中で「もうつかれてあるけない。あしさきが腐り出したんだ。長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」と応えるのである・・・ 

 <北に向かって行進する電信柱>
 <北に向かって行進する電信柱>

 この作品が書かれた大正10年には上原の指揮の下で 日本陸軍はシベリア出兵を行っていた。この「月夜のでんしんばしら」の電気総長は、当時の日本陸軍の実質上の最高指揮官である上原 勇作参謀総長をモデルにしているようだ。

 このような時代背景を考えると、北へ向かって行進する電信柱に意味があり、ロシア革命も決定的となってしまい、大儀を失ったシベリア出兵に対する賢治の批判的な立場もこの作品に込められていたのではないだろうか。

<参考文献>

 宮沢賢治の青春 ”ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって

   菅原 千恵子 角川文庫

 宮沢賢治「月夜のでんしんばしら」とシベリア出兵

   米地 文夫 岩手大学 総合政策 第14巻第2号(2013)

 

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (金曜日, 16 8月 2019 22:51)

    初めて花巻の賢治記念館を訪れたのは平成の初め頃だったのかしら?
    電信柱が目に付いて私たちを迎えてくれるようでした。小雪の降る坂道を登っていくとよだかの星のレリーフがあり、小さい記念館でした。
    2,3年前にも訪れましたが立派な建物になっていてレストランもあったかしら?前にはなかったような赤いとりでが立っていて神社のような、、なのがあり、、、賢治さんは神様になっちゃたのかなとおもいました。生前は経済力がなかった賢治さんですが花巻市に多大な経済の貢献していますね。