青柳先輩 墓参の旅路
「四匹の侍 佐渡紀行」は9月5日とき307号で始まった。東京駅から郡司さん、上野駅から安保さん、大宮駅から堀口さんが乗り込んだ。私は9時3分に熊谷駅から、予ねて約束していた2号車2階の自由席に乗った。そこには安保さんと堀口さんが乗っていた。
暫くして郡司さんが、1号車に4人の席があるからと言って迎えに来て、4人が向き合って座った・・・この4人は昭和40年代前半に岩手大学工学部の同袍寮で学生時代を送った46室、47室、48室の仲間である。実は今回の旅も昨年11月末に亡くなられた46室の青柳先輩のお墓参りが、そのキッカケなのである。
青柳先輩から、小木町小比叡の蓮華峰寺という由緒あるお寺が実家であると聞いていたので、是非訪ねてみようと計画された・・・
昔の仲間が久しぶりに会って、早速楽しい旅の話になるはずであったが、私のカメラの調子が悪く、私がカメラの調整に夢中になってしまい、長い間たいした言葉を交わすこともなく時が過ぎた。私もとうとう諦めた・・
カメラの電子化の進歩の話から、昔のコンピュータの話になり、盛り上がった・・・
その内にIBM1800,U200,S/1へと話は弾み昔のコンピュータの記憶容量はせいぜい64KB程度であり、まだ人間の頭脳で解析できる範囲であったことを懐かしんだ・・・今やPCでも9GBの世界だ。
こうして話に夢中になっている間に、終点の新潟駅に到着した。
新潟駅から新潟交通のバスに乗り、新潟港に向かった。このバスは市内循環の路線バスで、色んな所を経由するので意外と時間がかかった。この写真は、斜め後方から郡司さんが撮ってくれたものだ・・・
昔、昭和シェル新潟製油所のプロセス制御システムのプロジェクトを受注し、何度となく新潟に出張していたので、街並を眺めていたが、見覚えのあるところは見当たらなかった・・・
新潟港の発着ロビーは、結構広々としていた。佐渡までの乗船券は、各々で買い求めることになっていたが、窓口のお嬢さんが、4枚綴りの回数券の方がお得ですよと教えてくれたので、2冊買い求めた。
11時30分の出航までには暫く時間があったので、ロビー内を歩き回り、喫煙場所を探して一服させてもらった。
ジェットフォイル船は、ボーイング社製のジェットエンジンで動くらしく、時速80Kで航行し両津まで1時間ほどだ。以前秩父セメントの工場勤務の頃、会社の仲間と佐渡に渡ったことがあったが、その頃はもっと時間が掛ったであろうが、最早思いだせない。
船内は大人数のツアーグループも乗船し満席状態であった・・・
私は船に乗ってもカメラの不具合が気になり、色々と試していたら、隣の堀口さんが望遠レンズで試してみたらとアドバイスしてくれた。望遠でテストしたら正常に動いてくれた。この写真は、船内のディスプレイに映し出された景色を望遠で撮ったものである。
流石にジェットフォイル船は速かった。
1時間ほどで両津港に到着した・・・
まずは腹ごしらえと、荷物を持って外に出て見たが、写真で見えるように直ぐ近くにはお食事処は見当たらなかった・・・そこで一階の宝くじ売り場で尋ねると3階の食堂を紹介してくれた。
そこには両津港を見下ろせるかなり広い食堂があり、それぞれ海鮮丼や天婦羅定食を食べた・・・喉も乾きビールと行きたかったところだが、これから運転する人がいたので我慢した。昼食を終え安保さんが予約しておいてくれたレンタカー屋さんに向かった。
まずは、教わった花屋を探し、青柳先輩墓参にお供えするお花を求めた。ただ、今晩の宿で呑む佐渡の銘酒『北雪』を仕入れるのも忘れなかった・・・
4人でレンタカーに乗り込みトキの森公園に向かった。途中で加茂湖の脇を通ったらしいが湖面を見ることはできなかった・・・
およそ40分ほどで『トキの森公園』に到着した。そこには案内のおばさんが居て、行く道をガイドしてくれた。その昔、自然を飛び廻っていたトキも乱獲や環境破壊で絶滅し人工的保護を受けて生きている。
今や、トキは立派な観光資源なのだ・・・
トキ展示資料館への入口に、この石碑があった。『朱鷺よキンよ永遠なれ』と新潟県知事平山征夫氏の筆跡が刻まれていた・・・
このキンの意味するところは、佐渡金山のキンのことなのであろうかと、後になって考えさせられた・・・
この『トキの森公園案内図』にあるように朱い線で仕切られた右半分は、トキの保護飼育区域になっており立ち入り禁止である。
券売機でそれぞれ入場券を購入する所で問題が発生した。係員に券売機にログを調べてもらったら、安保さんがお金を入れたが、即キャンセルしてしまったことが判明・・・
資料館を見学し、観察回廊を廻っていると、『なかよしの獣医さんです。』というパネルがあった・・・まだ茶目っ気のある堀口さんが顔を覗かせて写真に納まった。その辺のところは歳を重ねても変らないようで、ふと同袍寮で暮らしているころの堀口さんを思い出させてくれたワンシーンである・・・
多目的飼育ケージの黒いトキを見て『トキふれあいセンター』に向かう途中に宮柊二の詩碑『朱鷺幻想』があった。彼は大戦後にシベリヤに抑留され、九死に一生を得て帰還した歌人としても名高い。その作風にも厳しいものがあり、心に迫りくるものを感じる。
詩碑の最後に反歌二首が刻まていた。
あきらけく島山明けて空に鳴く声こそはすれ朱鷺渡るらし
たちかへる年のあしたに島のごと甦りくる知識に遊ぶ
トキの森公園から再び両津に戻り、凡そ1時間かけて、海岸沿いに『姫崎灯台』にやって来た。この灯台は「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」に選ばれているそうだが、私には、その理由は不明である・・・
ともかく望遠レンズで一枚撮った。
時計は16時近かったでしょうか、少し夕暮れの感じである。海なし県の埼玉に住んでいると、静かな海を眺めているだけで何とも長閑で心穏やかな気分に浸ることができた。
そろそろ今日の目的地・青柳先輩の実家・蓮華峰寺に向かわねばならぬ時刻となった。
また海岸沿いに赤泊港を経て小木港に向けて1時間10分程の工程を走り続けた・・・
小木町小比叡山・蓮華峰寺の標識を見つけ、登り坂にさしかかったときは、17時に近かったであろうか・・・昨夜、5日の午後にお伺いすることを電話でお伝えしておいた。 電話口の青柳さんのお兄さんの奥様に「初めてなので、道に不案内ですから遅れるかもしれない。」とお断りして良かったと思った。
坂道を登り切り、少し下ったところにかなり広い駐車場があったが、そこには駐車せずに更にちょっとした谷底へと道を進んだ・・・何しろ沢山の伽藍が建っていて、どこにお住まいか見当つかなかったからである。この先に駐車できる場所があるだろうかと心配されたが、谷底まで進むとひときわ大きな伽藍の近くに数台分の駐車スペースがあった。
車から降りてもお住まいの廚が判らず、そこからお住まいの場所を探しながら石段を登った・・・登り切った所の「葵紋」の着いた提灯と山門があった。
蓮華峰寺と言っても左の写真の標識のようにいくつの伽藍が散在していた。とにかく写真に納めておこうと、それぞれがシャッターを切っていたが、恐らく4人の写真を全て持ち寄っても全てを写し切ってはいない。
どうぞ上の下線部(蓮華峰寺)をクリックして、青柳さんのご実家である蓮華峰寺の全体をご覧ください。
「佐渡が皇城の鬼門にあたるとして、弘法大師が開基したといわれる古刹。嵯峨天皇の勅願寺であったともいわれ、金剛寺・室生寺とともに真言の霊地となっています。
境内には国の重要文化財に指定されている金堂・骨堂・小比叡神社の石鳥居があります。6月下旬から7月上旬には7,000株のアジサイが一斉に開花する様子が見事なため、別名アジサイ寺とよばれています」
ネットでは上記のように紹介されているが、蓮華峰寺の 簡潔な紹介はこちらをご覧ください。
石段を登り詰めたが、お住まいは探し当らず石段を下った。左の写真が石段を上から見下ろした眺めであるが、かなりの距離と勾配であった。
結局のところ、車を止めたところの大きな伽藍と渡り廊下で繋がっている廚がお住まいであった・・・最早17時頃となり窓からの灯でお住まいであることが判り、安保さんから声がかかった。
青柳さんがここで暮らしていた子供の頃には、まだ車も多くなかった時代でしょうから先ほど下った道路は馬車道の迂廻路であったろう。
そうなるとあの長い石段を毎日登り降りしていたのだろうなどと想像しながら、下から石段を見上げていた。
玄関の引戸を開けると一目で青柳さんのお兄さんと判る方と奥さまが、出迎えてくれた。学生時代の青さんを知っている人であれば、誰しも歳を重ねた青さんの面影をこのお兄さんから感じとることができるでしょう。
そんなお兄さんが開口一番「皆さん、遠い所よく来てくれたね・・・真次(まさじ)も喜んでいるでしょう」と言って歓迎してくれた。
私が「青柳さんの結婚式で一度お目にかかっております。その時、司会を務めさせて頂きました」と話すと「私もお目にかかっておりますよ」と奥さまが付け加えられた。
郡司さんも出席していたが、本人はその記憶が薄いようだ・・・
お兄さんは、私たち4人を玄関からすぐの応接に招き入れ、丁寧にお茶を入れてくれた・・・流石にちゃんとした作法に則っとた入れ方のように見えた。そういえば青柳さんもお茶が好きで大きな湯飲み茶わんでお茶を飲みながら、机に向かっていたのを思い出した。茶道部の茶会に一緒に出掛けた・・・
お兄さんは、ソフアに腰を下ろし蓮華峰寺にまつわる話をしてくれた。蓮華峰寺には18棟もの伽藍があり、重要文化財の指定を受けた建物には、勝手に手を加えることはできないし、その維持管理は大変で、7割の援助はあるが費用も多大であると語った・・・
でも、戦前までは蓮華峰寺は広大な土地を所有しており、小木の港まで他人の土地を踏まずに行けたほどであり、小作地からの年貢でお殿様のような暮らしぶりだったと振り返った。そのような暮らしの中、父親はお寺のお務めが嫌いで、上京しては古書や骨董の焼き物を収集していたという。江戸時代の和算の大家・関孝和の著書が沢山残されていたと話してくれた・・・
ところが戦後の農地改革で、耕作地は全て小作人のものとなり、それまでの生活が一変したという。それでも父親を頼って、やって来た著名な文人は、蓮華峰寺に長逗留し、時折小木の町での遊興費のツケがまわされて来たそうだ。そんな時、高価なお皿や壷の骨董品が役立ったのだそうだ。そんな父親を支え続けた母親は、大層筆のたつしっかり者だったと振り返った。
お兄さんは京大で講師を務めながら仏教の研究を続け、インドから仏教伝来のルートを旅したという。ある時、その旅行に青柳さんを誘ったことがあったが、同行することはなかったと少し寂しそうに語ったのが印象に残った・・・
人口減少が続く佐渡には37軒ものお寺があり、檀家さんも減り大変であるがお兄さんは7人のお弟子さんを育て、今は息子さんに住職を譲りゆったりとお暮しのご様子でした。それでも総本山の役員はまだ続けていると言っていた。
「蓮華峰寺」青柳慶弘住職のお話、司馬遼太郎著の「街道をゆく 十 羽州街道 佐渡 国なかみち・小木街道」を参照したとしてネットに紹介されていた。
蓮華峰寺は空海により開基された、という伝承がある。 寺が建つ地は、比叡山に倣って小比叡山。 佐渡が京の鬼門の方角に当たるので、空海がここに寺を建て呪縛から解いたという話まで伝わる。
こうしてお兄さんのお話を聞いている間に奥様が持参したお花を花瓶に生けて、お参りできるように整えて下さった。
私は熊谷の五家宝とご仏前、それにこけしを並べてお参りした。小さいこけしの裏には今日の日付とそれぞれの名前を書き入れ、記念に持ち帰ってもらった。
これは安保さんがお参りしている写真である。郡司さん、堀口さんも同袍寮の頃の青柳さんを想い浮かべながらお参りされたことであろう・・・これで今回の旅の第一の目的を果たし終え、お互いに安堵した。
奥様が襖を開けて「ここは真次(まさじ)さんが好きな部屋で、帰ってくるといつもこの部屋で休んいましたよ」と教えてくれた。
今は北海道に住んでいる川本さんも学生時代の夏休みにやって来て、本堂に泊めてもらったと言っていたが、この部屋であったろうかなど思い起こしていた・・・同袍寮の頃の川本さんのイビキは素晴らしいものがあったが、ここ本堂の部屋に一人だったら、何の気遣いもいらなかったろうと・・・
ただし、これは50年も昔のことで、川本さんからの電話ではマスクを着けて眠ることですっかり解消し、ゆっくり眠れるようになったと話していた。
こうしてお兄さんから長いことお話を伺い、青柳さんの実家のお寺で青柳さんの魂を身近に感じながら、心穏やかな時間を過ごすことができた。そしてお暇する時に、お兄さんが「これを君たちに差し上げたい」と言って大きな袋を手渡してくれた。その中には「独鈷水」という弘法大清水(般若湯)が8本と4本のタオルが入っていた。そのタオルには「八角堂」が刷り込まれており、記念の品として取って置く事にした。
また、箱書きによると両端の尖った刃物が「独鈷」と呼ばれる密教独特の法具の一つであるが、本来武神インドラ(帝釈天)の武器として用いられたとの解説されていた・・・
蓮華峰寺 小比叡山のさるすべり 白き花纏ひ桜と見紛ふ 小南 毅
蓮華峰寺の蓮池の花咲つづけ 朋の魂 我を待ち居り 〃
今晩のお宿「かもめ荘」は、蓮華峰寺への登り口の近くであった。
少し遅めの到着であったが、温泉で汗を流し夕食を頂いた。と言うより早速ビールで乾杯し労をねぎらった。今日の運転は堀口さんが買って出てくれたので、まずは感謝の一杯を飲み干した・・・
学生時代には呑めなかった安保さんを含め、社会に出てから飲む機会も増えたようで、この4人、中々の酒豪なのだ。
これは堀口さんが撮ってくれた、夕食の記録写真である。ほとんどのお料理に海産物が使われ、海なし県の私にとっては嬉しいご馳走であった。その中に子供の頃食べた懐かしい一品があった・・・
「これ エゴですか」と給仕の人に尋ねると「そうです」と応えてくれた。それは海藻を寒天状に固めたもので、素朴で田舎の味がした。
部屋に戻り落ち着いたが、久しぶりに顔を合わせた4人の話は長かった。両津で仕入れた「北雪」はほどなく空になったが、それぞれの話は次第に粘っこい時事評論への発展して納まることを知らない・・・その内に今日頂いた「独鈷水」も2本ほど呑んだ。
私がロビーの喫煙テーブルでBGMのジャズを聴きながら一服していると、堀口さんが逃避してきた。そこで彼が外資系の会社に転職し、英語に苦労しながらも奮闘した話を暫く聞いていた・・・
私も海外出張の一人旅での失敗談を吐露したりしている内に、知る人の居ない外国で「かき捨てた恥」の数々を思い返す夜となった。
これは9月6日の朝食である。
昨夜から今朝にかけて雨が降り続いた・・・ 私は夜中に何度か目を覚ましが一晩中降っていた。6時になるのを待って朝風呂に入った。そして皆で朝食を食べた。夕べ最後に頂いた「独鈷水」の御利益でしょうか、あんなに呑んだのに二日酔いもなく、美味しくてお代わりをした。 だが、朝食を終えても、雨はまだ降り止まず・・・
今日は、屋内で見学できるとこを中心に回ったどうだろうかと提案した。
そして、まずは郡司さんの運転で出発した・・・
<千石舟展示館>
江戸時代に北前船の港として栄えた小木港で建造されたという「白山丸」が原寸大で再現展示されている千石舟展示館を見学した。
全国から腕に覚えのある船大工が集まってきて千石船が復元されたという・・・
外はまだ雨なので説明DVDで「千石舟のできるまで」、「北前舟」のことを学んだ。
江戸時代のサプライチェーンの仕組みがよく理解できた・・・
階段を登り「白山丸」に乗り込んだ。
真っ先に船主の椅子に座り、ポーズを決めて写真に納まった・・・
どうも見ても貫禄不足だ。
おそらくは、この辺りが船の中心部で、揺れが一番少ない場所なのだろうなどと考えながら、その雰囲気を味わった。
船底に降りると、随分天井が低かった。
この写真の手前に見える大谷石は、木造船を安定させるための重しのようだ・・・
帆柱は船の全長と同じ位あるから、船底に重しがないと転覆してしまうのだ。私は熊谷工場に居た頃、工場の若い技術屋の仲間で造ったというヨットに乗ったことがる。
利根川にヨットを浮かべると、まず船底に鉄板のアンカーを差し込むようにと教わった。それから帆を張り風を受けて走りだす訳だが、追い風だけでなく、向かい風でも前進できることを学んだ。
流体力学のベルヌーイの定理に叶うことだが、飛行機の翼の曲線が風を受けて浮力と推進力を生み出すように、ヨットの帆のたわみがそれを生み出してくれる。
ただ、方向を変えながらジグザグに前進する必要があるのだ・・・千石舟の一枚の帆で同じようなことができたのであろうかなどと考えていた。
「千石船展示館」に隣接した廃校となった小学校が博物館として活用されていた。
まだ雨が止まず、ゆっくりと見学した。昔使われていた農機具や生活用品には、秋田の田舎で手に馴染んだ物も多くて懐かしく見学した。建屋が新たに建てられた新館には、漁具を中心に展示されていた。
この写真奥の大きな建物は「千石舟展示館」である。毎年港祭りの時には、この建屋の扉を開いて「白山丸」が引き出され、クレーンを使って帆柱を立て帆を張った雄姿が見られるそうだ・・・是非その姿を見たいものだ。
雨も小降りになってきたので、次の見学地の宿根木へと向かった。
<宿根木の住宅密集地>
ここが宿根木で一番人気の三角家だそうで、吉永小百合さんもここで撮影した写真が、「大人の休日」のポスターになっている。
実は、我が家も角地にありその地面は台形だったので、家屋も台形に建てましたが、これほど有名にはならず残念である・・・
この路地にあった郵便局を見つけた。
私が生まれ育った秋田の田舎で、村に一つだけの郵便局もこんな佇まいだったのを思い出し、懐かしくなりシャッターを切った。
その頃はインターネットや携帯電話もなく固定電話ですら部落に一軒あれば良い方で、外の世界との繋がりは、全て郵便局経由だっただけに有難い存在であった・・・
路地に「宿根木のくらし」という看板があり、そこに「ちとちんとん」という神楽が紹介されていた。何とも露骨な絵であるが、どことなくユーモアセンスを感じた。私が子どもの頃暮した部落にも「板戸番楽」という神楽があった。11幕ほどの出し物があったが、その中にはこの絵のようなエロを連想させるような仕草で舞うものもあったような気がする。村に残った小学からの同級生3人が板戸番楽をやっていたが、既に村の若者に継承したと聞いている。
江戸時代の北前舟の港として交易が盛んになるにつれて、人々が集り人口が急膨張し、宿根木の住宅密集地域が形成さてたという。
細い石畳の路地も長い年月の人の往来で石畳の中央部が擦り減ってしまい、歩きにくいほどであった。この狭い路地の空間に花を見つけてシャッターを切った・・・
この写真は宿根木の住宅と路地を巡り終えて撮ったものだ。一番海岸に近い所なので、防風、防砂のためか長い竹で組まれた生垣で覆い隠されていた・・・
よく田舎の畦道で見かける道祖神が、細い路地の軒先に祀られているのが印象てきだったのでカメラに納めた・・・
宿根木で車を止めると最初に声をかけて来たのが黄色いつなぎ服にカーボーイハットの陽気なおじさんであった・・・その案内人に「とてもよかったよ」と声をかけたら海を背景にシャッターを切ってくれた。でも、これだけで終わらなかった・・・すぐさま「たらい舟」へ勧誘してきたのだ。
その陽気なおじさんが大きな声で「お客さま4名」とつなぎをいれた・・・
海岸の方へ歩きながら、「これでマージンをゲットしたんでしょうかね」と言って堀口さんと顔を見合わせた・・・
キッカケを作ってもらい、雨も上がったので、名物の「たらい舟」に乗ることにした。
直径2mにも満たないような「たらい舟」に乗って大丈夫なのかという不安もあった。 「たらい舟」には、ヨットのようなアンカーなど着けてないし、果たして安定するのかと思いながら、ライフジャケットを着けて乗り込んだ・・・船頭さんの袢纏に「はんぎり」とあったので尋ねると「桶を半分に切った」器という意味だと応えくれた。そういえば、私の田舎でも手揉みの洗濯の器を「半切り」と呼んでいた。勿論「たらい」とも呼ばれていたが、最早使われることはなくなってしまい、両方とも死語であるかも知れない・・・
ご覧のように海は湖面のように凪いでいて全く不安を感じることなく、「たらい舟」遊覧を楽しむことができた・・・
その昔は、北前船の寄港地として使われたほどの水深があったが、地震がキッカケで隆起して現在のようなったと説明してくれた。
でも、各所に船をつなぎとめた白い石柱が立っており、北前船の寄港地として繁栄した頃の名残を留めていた。
ここ宿根木から海岸沿いに沢崎鼻灯台を目指して進んだが、先般の集中豪雨の復旧工事のため通行止めで小木港まで引き返し、相川に向かった・・・途中で佐渡歴史伝承館に立ち寄り昼食を摂った。そこには拉致被害者・曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんが土産物売り場に立っていた。話題の主となった頃は、ガリガリに痩せ衰えていたが、肥って元気そうに見えたので話しかけてみたが、何の返答も得られなかった。何だか気の毒に思えた・・・
私はここで「大満足!海鮮丼」を食べた。食べきれないほどの大満足!!
<佐渡奉行所跡>
相川金山の麓に復元された佐渡奉行所があった。明治維新後は学校や役所として使われてきたそうだが、昭和17年に火災で江戸時代建屋は焼失した。その後発掘調査を行い、平成13年に御役所部分が忠実に復元され、観光資源として復活を遂げたという・・・
中々の威厳と風格のある建物で、江戸時代に徳川幕府の天領地であったことを示す「葵の御紋」を染め抜いた幕が掲げられていた。
中に入ると文芸員の方が詳しく案内してくれた。その説明によると屋内の部屋の配置などシステマテックに設計されていることが解った。裏手にはお奉行の住まいである「御陣屋跡」から発掘されていた土台石は整然と並んでいた。
部屋の壁には金の精錬方法を示す解説図も貼りだされいたが、郡司さんが鉛が使われていたはずだと拘った・・・
その鉛が展示されている部屋にやって来てその鉛を触ったり、持ち上げようとしたが、
中々動かなかったようだ・・・
でも自説が実証されて満足げであった。
「佐渡奉行所」から一段下がった所に江戸時代の金の精錬の様子が、実物大の道具類を装備して再現されていて、実習体験ができるようになっていた・・・
ここでも文芸員が懇切丁寧な説明と実習指導をしてくれた。様々な道具を実際に使いながら、半日位は楽しめそうな所だ。
佐渡市立相川病院の下にある駐車場の道路の下には、佐渡金山から掘り出された鉱石を実際に選鉱していた「北沢浮遊選鉱場」の跡地が広がっていた・・・先ほど実習してきた「浮遊選鉱法」が工業的な設備として、この斜面に建設され稼働してきたのだ。その設備をしたから見ようと車で移動した。
これが下から眺めた「北川浮遊選鉱場」の跡地なのである。昭和11年に建設が始まり、途中で大増産のために設計変更がなされたが、今では蔦が絡まる廃工場で、まるでジブリ映画の背景画のようでもある。
この設備は「シックナー」と呼ばれ、浮遊選鉱の大量生産のために、排水を循環可能な水と不純物を分離するために昭和の増産時代に建設された。直径50mの国内最大規模の設備であったという・・・
先程見た浮遊選鉱の仕掛けを思い出しながらその大規模な建屋跡を見上げた。
郡司さんも腰に手を当てた得意のポーズでしげしげと見渡していた・・・
そして「佐渡奉行所跡」から2Kほどの距離にある「佐渡相川金山」へ向かった。
<佐渡相川金山跡>
着いてみると多くの駐車場の案内があったが、第1駐車場まで登った。公有地のせいか駐車場は無料で観光客に開放されていた。
今日はウイークデーなので、それほど多くの観光客もおらず、ゆっくり見学できそうである。
宗太夫抗コースの坑道へと入っていった。
その昔、工場勤務のころ会社の仲間と訪れたことがあるが、その頃と比べると坑道も随分整備されているように思った。工夫は単なる人形だったが、今では動きのあるロボットが互いに会話しながら採掘や選鉱作業を再現してくれた。おまけに歌まで聞かせてくれた。
見学を終えて坑道から出てみると第2駐車場近くであった。私は元に戻ったと思い込んでいたが、地底の薄暗い坑道を巡っている間にすっかり方向感覚を失っていたのだ・・・
この写真は第1駐車場まで登り一休みしているところである。初期の頃、露頭していた金鉱を手で掘り進めたという「道游の割戸」を見ようと車で登ったが、良く見えなかったので引き返した・・・
駐車場で掃除のおばさんから教わったレストランの駐車場から見た「道游の割戸」の写真である。今回初めて私の望遠レンズが役立った写真かも知れない・・・ともかく目的の景色を眺めることができて良かった。
これで今日の目標はほぼ達成したことになるが、日本海に沈む夕日が見られるかもと、大佐渡スカイラインを登って行った・・・
しかし、曇天で見通しも宜しくなかったので、白雪台付近から引き返し、佐渡奉行所跡を通り相川の街を経由して海岸沿いに車を走らせ、尖閣湾近くの宿・佐渡ベルメールへと向かった。
郡司さんが少し眠くなったと言って運転を代ったタイミングは覚えていないが、宿に向かっている時は堀口さんがハンドルを握っていた。初めての所なのでカーナビに従って進んだ。ところが、少し変だと思いつつ何と細い細い道を海辺まで下って行った。そこから坂道を登ったところに「佐渡ベルメール」があった。どうも最初の入口に失敗かも・・・
今晩のお宿は、海辺のちょっとした断崖に建てられたとても景色の好い場所にあった。余りにも眺めが良かったので、みんな車を降りると直ぐにカメラを構えていた・・・
これは堀口さんに撮ってもらった写真である。この景色が気に入ったので、この場所でと注文を付けポーズを決めて撮ってもらった。顔が背景の上に出て、遠景にブリッジと海がある中々好い構図に納まっていた・・・
この佐渡紀行の記念の一枚として、心に留め置く写真になるだろう・・・
この写真は私が撮ったベストショットだ。
そんな気配に気づいたのか、宿の女将さんが出てきて「ようこそいらっしゃいました」と挨拶した・・・暫くお庭からの眺望を楽しんでから、荷物をもって宿にはいった。二階の部屋の窓からの景色も良かったが、女将さんの案内に従って4人で風呂に入った。
このお宿はユースホステルなので、浴衣の備えはなかった。学生時代の機械科の小林さんや同期の緒方さんがユースホステルで活動していて、結構規律が厳しいと聞いていたので、これまで利用したことはなく今回が初めての体験である。でもお酒は呑めるようだし、喫煙も許されているようで安心した。
これは二階から望遠で撮った写真である。
女将さんから季節ごとの夕陽の位置などのお話を聞いたが、今日の空模様では夕陽を眺めることは出来そうもない・・・
悔しかったのでベルメールのHPから借用したのが、下右端の写真である。
人生の落日もそう遠からず、こんな夕陽にお目にかかりかったものだ・・・
女将さんがカツのお皿に添えられた小さな紙を取りながら「このカツは何もつけずに召し上がってください」と言って廻っていた。確かにそのままで好い味付けで美味しい魚のカツであった。今晩も海のものが主役で、郡司さんが今日のサザエは大きいねと言いながら、くるりとサザエを取り出した・・・
4人でビールを呑み続けていると女将さんがサザエの炊き込みご飯が無くなってしまうからと言ってよそってきてくれた。これも美味しかった・・・
さて、今晩も部屋で酒飲みが始まった。今夜の議論は、どうなることか・・
論客の堀口さんのカメラがおかしいらしく、お酒は呑まず懸命にカメラをいじっていた。私も今晩はお酒を欲しくなかったが、安保さんが持参したお酒を呑み終え「独鈷水」の封をきった。そこで私も少しもらった・・・
そして「独鈷水」をもう一本開けた。その頃、堀口さんが「直ったよ」と喜びの声を上げ、流石に理工系らしく故障原因を事細かに説明してくれた。
私がベランダで一服していると安保さんがやって来た。そして俳句会のことや俳句の友だちのことを話してくれた。明日晴れたら日の出を見に行こうとも話していた・・・私が深夜にベランダへ出た時は月も顔を出し、雨雲は滑るように月を横切っていた。明日は晴れるかも知れない思いながら、沖合に目をやると漁火を灯す船が遠くに見え、その漁火に吸い寄せられるように小さな船が近づき、また再び離れて行く船は暗い海に消えた。その船の行く手と思しき左手に見える灯台は、ホタルのような青い光を明滅し呼吸しているようにも見えた。そんな暗い海を眺めながら、秋を感じさせる涼しい風を頬に受けていた。
<9月7日 朝>
朝食の記録写真である。今日も7時ごろ朝ご飯を美味しくたべた。食べ終わっても外は雨だった・・・安保さんと郡司さんは散歩してくると言って雨の中を出かけていった。
私と堀口さんは二階の窓から二人のコーモリ傘の動きを目で追っていた。そして二人が橋に到達するのを待って望遠レンズで彼らを撮った。
二人が散歩から帰り、安保さんが渡してくれた蓮華峰寺のお土産(独鈷水とタオル)を詰め込み荷造をした。それから布団と枕を押し入れに仕舞い、シーツと枕カバーをたたみ、フロントに渡した。これがユースホステルの作法なのだ。そして女将さんにお礼を言って別れを告げた。
今日も郡司さんがハンドルを握り佐渡の北の方へ向かった。およそ50分位走った頃、安保さんが「関岬灯台を見よう」と言い出し、スペースのある路肩に停車した。安保さんが土を登ってみると、そこは見晴らし台ではなくて個人の墓地だったそうで、諦めて車を走らせた・・・
更に40分ほど走ると見晴らしの良い海岸にでた・・・私が「止まってみようよ」と言った。10mほどバックするとトンネルを出た所に駐車スペースがあった。
私にとっても好都合で、車を降りてまずは一服させてもらった・・・
みんなも傘をさしながらカメラを構え写真を撮った。生憎の雨だが、色んな角度から撮れる景観をそれぞれが切り取りカメラに納めていた・・・ふと振り向くと安保さんが一人、トンネルを通り向こう側へ歩いて行くのが見えた。安保さんは好奇心の強い人だ。
暫くすると安保さんが帰って来て「トンネルの向こうに景色の好いところがあるから行ってみよう」と促してくれた。
誘われるままにトンネルを抜けると、素晴らしい景色が広がっていた。
そこには「佐渡弥彦米山国定公園」の看板があった・・・
丁度、車を止めて降りて来たご夫婦がいたので、4人揃って写真を撮ってもらった。
4人で旅をしていても揃って一枚の写真に納まるチャンスが無かったので幸運であった。
でも、後で改めて見てみると、もう少し左側に寄って空を背景にしたらみんなの顔がもっと明るく写ったかも知れないなどと思った。
みんなが傘をさしているので、まだ雨が降っていたようだが、堀口さんは明るい写真に仕上げてくれた。
国定公園の看板の地図と右端の写真を見ると、お椀を伏せたように見えるところが、どうやら「大野亀」のようだ。
こうして次の目的地が定まった・・・
安保さんが偵察してくれたお陰で、絶景ポイントを見逃さずにすんだ。感謝・感謝!
私は岩肌に根をはる白い花と舗装道路にまで蔓を伸ばし薄紫の小さな花を咲かせ、自己主張している草花がけな気に思えた。
再びトンネルを通って車を駐車した元の場所に戻った。
さあ「大野亀」の背中が直ぐ目の前に見るところまでやって来たが、ご覧のようにまだ雨が降り止まぬ。
道路にバスの文字が見えるが、ここはバスの駐車場で道路を挟んで反対側には結構広い乗用車の駐車場があった。お花のシーズンには多くの観光客がやってくる所なのだろう。
看板には「大野亀とカンゾウの群落」とあった。また、この図によると地中から火山が噴出して溶岩が固まり、この大野亀ができたらしい・・・そして海抜167mの高さで登るルートも整備されているようだ。この雨では誰も登ろうと言い出す者もいなく、私にはこの雨が幸いした・・・
いよいよ「二つ亀」までやって来た。
広い駐車場には一台の車も観光客もなく、唯々恨めしい雨が降り続いていた・・・
この案内図を見ると、下は海水浴場になっていて、歩いて「二つ亀」まで渡れるようだ。
天気が良ければ、砂浜に腰を下ろしのんびり海を眺めるのも好かろうが・・・
二つ亀ビューホテルの横を通って「二つ亀」を見渡せるところからの写真である。
雨の日の写真なので鮮明ではないが、よく見ると「二つ亀」までの道が薄っすらと見る。
この高台から下の海辺まで降りる道程も結構な距離がありそうだが、天気さえ良ければ、その意欲も湧いてきそうな景色である。
いよいよ本日最後の目的地「佐渡最北端の弾崎灯台」までやって来た。いや、この一言では済まされない、藪漕ぎを走破して辿り着いた感じだ・・・郡司さんの運転でなければ、途中からバックして引き返していたところだろう。何しろ生い茂った草と木の小枝が、自動洗車機のように車を擦り付けた・・・
後部座席にいた堀口さんが「自分の車だったら絶対入ってこないな」と呟いていた・・・それほどの藪漕ぎ走行だったのである。
ここは映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地として知られた灯台である。この映画は1957年に松竹が制作・公開した、木下惠介監督の作品で、高峰秀子と佐田啓二が主演した。この映画は文部省推薦で稲庭の町の映画館に観に行ったような記憶がある。
1986年にはリメーク版が木下恵介監督で加藤剛、大原麗子主演で公開されている。映画好きの私はこの作品も観た。
ここでロケされた映画の事など語っている割には、雨が酷かったので車から降りなかった。この写真は、堀口さんが公開してくれたものを借用した。でも、親切な郡司さんが、この像が見えるところで車を止めてくれた。 私は思わす「喜びも悲しみも幾歳月」の歌を歌い出したが、出だしの所しか歌詞が思いだせなかった。すると堀口さんが続けて歌ってくれた・・・晴れた日の写真と歌詞を添付しておく。
<喜びも悲しみも幾年月>
俺ら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯をかざす
灯をかざす
藪漕ぎも無事脱出し、両津へ向けて走り続け
11時頃には出発地点に戻った。
レンタカーを返す13時までにはまだ余裕があったので、私が「日蓮聖人大銅像」へ行ってみたいと言い出した。このことが大変な苦難の道に迷い込むとは露知らず・・・
私は宮沢賢治が日蓮宗の熱心な信者であることを本で知っていたので、日蓮が佐渡に流罪になった辺りに建立された日蓮の像を見たいと思ったのだ。
観光案内には、両津港から日蓮聖人大銅像まで車で9分とあったので、造作もないことだと思っていた。ところが、その幹線道路と異なるルートを進んだらしく中々探し当たらなかった・・・途中でちょっとしたトラブルもあったが、堀口さんがスマホナビを使ったりして何とか辿り着いた。
なるほど、見上げるような巨大な日蓮聖人大銅像であった。私は青柳さんの墓参のために持参して来たお線香をお供えした。
帰りは幹線道路だったらしく、あっという間に両津港に着き、12時半頃にはレンタカーを返却することができた。
四人の旅は、決してこれで終わりではなかった。ジェットフォイル14時25分までは時間があったのでお寿司屋に入った。もう運転することはないので、まずはビールを頼んだ。お品書きを見て「のどぐろ一貫:500円と握り寿司:900円」を頼んだ。すると郡司さんが「のどぐろは、マグロの喉か」というので写真を添付した。テニスの錦織圭が「日本へ帰ったらの『のどぐろ』を食べたい」と言うまで、私も高級なお魚であること知らなかった。
ここでも銘酒「北雪」を頼んだ。話が段々盛り上がり一人一本位頂いた。
4人とも程よい気持ちで佐渡汽船のターミナルに入ると土産物売り場が軒を連ねていた。
私はお酒の勢いもあって、色んなもの買い込んでしまったようだ。でも「のどぐろの炊き込みご飯」「のどぐろの味噌汁」は美味しかったし、乾燥ワカメなどの海藻も日々のお味噌汁で頂いている。
それぞれお土産を抱えて船に乗り込んだ。外が見える席に二人ずつ前後に座った。
そこは給水機の近くだったので、安保さんのザックの中にあった焼酎の水割りを作って配った。周りのお客様を気にしながら静かに呑んだ。こんな密かな酒盛りが、かえって愉快な気分にさせてくれた。そしてたっぷり残っていた焼酎の瓶も空になった・・・
荷物を持って船を降りたら、バスに乗るのが何だか面倒になりタクシーで新潟駅に向かった。駅に着いたら、新潟出張の帰りに呑んだ「菊水アルミ缶」が美味しかったことを思い出した。今回の旅で一度も運転しなかった私からのお礼にと思い、みんなにも試しに呑んでもらうことを想い着いた・・・
これがどういう結末を生み出すかも露知らず、私は冷え冷えの「菊水アルミ缶」八本を新幹線に持ち込んだ。 幸いにも平日のMaxとき336号 新潟 16:49 の自由席はガラ空きであった。まず、3人掛けの椅子をぐるりと廻し向かい合わせの席を作った。
私はカバン、ショルダーバック、お土産袋を棚に上げ着ていたジャケットを窓のフックに引っ掛けた。それからビニール袋に「菊水」を2本ずつ入れて3人に手渡した・・・これがファイナル・ラウンドのスタートだ。早速「菊水アルミ缶」の蓋を開けて4人で乾杯した。
冷たい「菊水」は口当たりがよかった。しかし、アルコール濃度19度の日本酒が与えるダメージの大きさを誰も予想できていなかった・・・
こうして「四匹の侍 佐渡紀行」の総括が始まった。安保さんには企画から実行までお世話になった。堀口さんと郡司さんには佐渡一周の運転をしてもらった。それに引き換え私は先輩風を吹かせ、後部座席に座っているだけであった。6日、7日と雨にやられたが、念願の「青柳先輩の墓参」も叶ったし、記憶に残る旅となった。安保さんも酔うほどに話が長くしつこくなるのも元気の証と安堵した。郡司さんと堀口さんは、まるで同袍寮の頃のようにお互いがヤンチャなチョッカイを出し合い若返ったように見えた。どんな話の展開であったか、最早記憶に残っていないが、この二人はすっかり打ち解けて仲良しになった証拠が私のスマホにしっかり記録されていた・・・
このような写真を撮っている私も相当に上機嫌になっていたことであろう。
新潟から約1時間半はあっという間で、熊谷18:21の到着時刻が迫っていたことなど全く眼中に無かったし、車内アナウンスも聞こえなかった。新幹線がホームに止まり「熊谷駅」の標識を見て初めて気づき、棚の荷物を抱えて降り口に走った。そこには郡司さんがステップに座り込み両足を踏ん張ってドアが閉じるの押さえてくれていた・・・少し危険な行為だが身を挺して、とっさに動いてくれていたのだ・・・
ホームに降り立ち歩き出してから、あの光景を思い出し胸にグットときた。
息子に熊谷駅南口まで迎えに来てもらい19時頃には帰宅できたが、着替えてそのまま寝込んでしまった。
あくる朝、朝食の支度を終え朝風呂に入って初めて覚醒した。
9月8日のメールのやり取りを見て、ことの真相に気付かされことになった。
一体どんなんことが起こっていたのか、そのメールの一部を紹介しよう。
G:小南さんのベージュ色ジャケット、私が預かっています。送りますか?
私が探していた自分の眼鏡ですが、リュックの中に入っていました。
G:あのジャケットは小南さんによく似合っていますので、送ります。
K: 郡司様 ポケットの中に新潟からの切符がまだ入っていましたよ・・・
どうやって改札を通ったのかね・・・「菊水」の勢いでしょうか・・・
全く記憶にございません。
H:郡司さん、貴兄の帽子を家まで被ってきてしまったようです。
19度の威力に負けました。近日中に宅配便で送ります。
G:堀口様 あの帽子は堀口がたいそう気に入ったようで
くれと言われてあげたものだったと思います。
H:郡司様 ご厚意に甘えて堀口家の家宝にさせて頂きます。
今後、会う時はこれを必ず着帽していきます。(多分すぐ忘れる予感)
A:小南さんの(菊水)で新幹線から横浜までの記憶が飛んでしまった。
よく自宅にたどり着けたと思っています。
A: 最終日9/7は、昼食と合わせて、ビールとお酒(北雪)を飲みました。
ジェットフォイルでは、芋焼酎(25°三岳900ml)も7割弱空けました。
新幹線では、小南さんご提供の菊水19゜200ml 2缶各々空けました。
大きなトラブルもなく、無事自宅へたどり着け誠に執着至極に存じます。
安保さん、郡司さん、堀口さん、ごめんなさいね。お互いの失敗談を内部告発するような暴露メールを掲載してしまいました。個人情報保護法に抵触するようでしたら、告発してくだい。当方は「菊水アルミ缶」3本くらいで示談に持ち込めるように弁護士に依頼するつもりです・・・
こんな道中でよかったら、来年も一緒に旅をしようぜ・・・小南 毅 記
2017.9.30
「佐渡紀行」のブログを書き終えたので「独鈷水」を頂きます。
この旅でお世話になった皆様への感謝の気持を込めて書かせていただきました。
<写真提供> 安保 進 郡司 隆充 堀口 富徳 ありがとう!
2017.10.2
<後記> 旅にご一緒したみんなに校正していただき、本日何とか読んでいただけるようになりました。青柳さんのお兄さんから頂いた「独鈷」を青さんの形見になってしまった「ぐい呑み」で今晩頂きました・・・味わいながら
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井手麻由子 (日曜日, 08 10月 2017 14:54)
蓮華峰寺に行ってくださってお父さんも、私達家族一同とてもシアワセな気分になりました。
そして旅行記がいつもながら描写が細かくて情景が想像できました。いろんな箇所を行けたみたいで内容の濃い旅行でしたね。
しかし皆さんは本当に好奇心が強くて柔軟で、若々しくお元気で人生を楽しんでて、こっちまでとても元気になりました。
情景が浮かぶのもいいんですけど、小南さんのノリツッコミのあるユーモラスな文面が毎度毎度おもしろくて笑ってしまいます。
中川 (木曜日, 23 5月 2019 10:02)
旅行記、楽しく読ませて頂きました。
初めまして、私は昭和43年に佐渡の赤泊中学校で青柳憲昇先生に担任をして頂いた中川と申します。
ご存じがどうか分からないので連絡させて頂きます。青柳先生は今年3月にお亡くなりになり、5月19日に盛大な葬儀が行われ、私も参列して参りました。
皆様には心の中で手を合わせて頂ければ先生もお喜びになると思います。
以上、簡単ですが連絡させて頂きました。
greengrass0803@gmail.com 中川