信州・別所温泉ー飛騨・高山ー越中・富山 1000キロの旅
6月2日朝10時前に太田さんから電話が入った…小森さんを乗せたから、10時45分頃には熊谷に着くだろうと言っていたので、伝言ゲームのように金井さんに予定より早くなると伝えた。それから、慌てて熊谷土産の『五家宝』の店に自転車を走らせたが…近所の製造販売店『花堤』が日曜日はお休みなのを知らなかった。
道路が混んでいたのでしょう…11時15分頃に太田さんの車が30m程通り過ぎて止まった…私は戸締りをし、荷物を手に小走りで駆け寄った…
熊谷警察署を右手に17号を少し走り、金井さん指定のスギ薬局の駐車場に到着した。
昭和44年頃には、金井さん家の目印になる大きな欅があって、友達とクリーニングを頼みに来たことあった。また、街の喫茶店で金井さんの妹さんとお会いした記憶がある…
少し待っていると金井さんが奥様と一緒に現れた…奥様は駐車場の辺りを指しながら、クリーニング工場は売り払い身軽になりましたと話されたので、目印の欅の事を尋ねると、台風で倒れてしまったと言って、ここへ案内してくれた…そこには『熊谷市指定文化財史跡』の立看板があった。この旧中山道の一里塚が、四人にとって今回の旅の出発点である…
指 定 年:昭 和 29 年11月3日
所在地 :熊 谷 市 大 字 新 島
この一里 塚 は、旧 中 山 道 の 東 側 に 築 か れ たもの で 、 今でも 高さ12メートル樹齢300 年 以 上 の けやきの大 木 が 残っています。
一慶 長 九 年 (1604年)、江戸幕 府 は 江 戸「本橋 を起点に、東 海 道 ▪中 山 道 な ど 主 要 な 街道 沿 い に 旅 の 道 の り の 目 印 とす る た め、1里(約 4 キロ メート ル)ごとに一里塚を設けましました。
当 時 は 、 中 山 道 の 両 側 に 五 間 四 方 の 塚 築き、榎 な ど が 植 え ら れ た と いうが、西 側 の 石 原 分 の 塚 は 現 在 残ってい ま せん 。
宝 暦 六 年 (1756年) の『道 中 絵 図 』 には、熊 谷 地 区で は、 久 下 新 田,柳 原 (現 在 は曙町)・新島 に 一 里 塚 が築かれ、「榎 二 本づつきづく」と あ る が 、 現存する新島の大木|は 不思議 なこ とに け や きで す 。
平 成 12 年9月 熊 谷 市 教 育 委 員 会
花園インターから高速に乗る前に女鹿さんからラインが入ってきた…
『今、笹川、浜島と白馬の残雪に立っており、これから一滑りしようとしている』と言うのだ…こちらも負けずに『ヘリをチャーターして飛んで行くから待っていてくれ』と返した…そんなこともあり、佐久平のパーキングの山脈方位版で八方尾根・白馬の方角を確かめ、残雪の山脈を背に立つ三人の姿を想像し、少し嫉妬していた…
お昼には信州そばが好いなどと勝手にリクエストしておいたのですが、太田さんがここで蕎麦を食べようと言い出した…
私は『ここの蕎麦は美味しいかなあ…ドライブインなどではなく、もっと本格的な所で食べたいものだ』などとドライバーの都合など考えずに、密かに思っていたのだ…
ところがどうして、出て来たお蕎麦は本物で、文句なしに美味かった。
大盛にすれば良かったと思ったが、太田さんは夜のご馳走を美味しく食べるためにお腹を空かせておくのだと言って追加しなかった…正解だ。
金井君だけが何故か暖かいかけ蕎麦を食べた…確かに戸外は肌寒かったのだが…
東京駅から新幹線に乗った皆さんは既に到着していたようだ…今回はいつもご苦労をお掛けしている飛世さんの奥様もご参加され、大歓迎!!
太田さんが運転する車も順調であったが、小森さん、金井さんと一緒に宿に着くと新幹線組組が出迎えてくれた…
部屋に荷物を置き暫く話しをしてから、散策に出かけた…
太田さんと私は、翌日には早朝から車で旅に出る予定だったので、前日に近くの名所を見学するつもりでもあった…
ここ別所温泉の宿の名も『上松屋、中松屋、下松屋』とあるように坂道に造られた古くからの湯治場だったらしく、坂道が多い…
まずは、国宝の八角三重塔のある安楽寺に向かったが、普段は余り歩かない私にとっては、この坂道はしんどかった…
私は、只々皆の後について行ったが、民家の近くなのに立派な山門があった…
『崇福山 安楽寺』の山門で寛政4年(1792)に建立され、安楽寺には国宝の三重塔があるというのだ…
ここからが結構きつい登坂が続き、私には『安楽寺』ではなく、『安楽死』でも好いなあと思った位だ…
健脚の山下さんと太田さんはずんずん先に歩いて行くが、渡部さんと私は、ほぼ同じペースで後を追った…
その二人は、時々カメラを構えたりして、足の弱さをカモフラージしながら登った…特に渡部さんは、背負ったバックからカメラを取り出し、ポーズをとらせるものだから時間を要したので、好都合でしたよ…
一足先に登り切った太田さんと山下さんに渡部さんが『おーい、そこでちょっと待て!』と大声で声を掛けてから、撮影開始となるのだが、その度に背負ったバックをおろし、カメラを取り出す訳なのである…
その渡部さんの注文に何一つ文句も言わずに従ってくれるという、呑気な仲間なのである…
相変わらず呑気な仲間の最後尾を登って行くと、緑に溢れる境内のお庭が見えてきた…
ほっと一息つきながらシャッターを切った…
仲間は、随分先を歩いているのが写っていた…
階段を登れば『経蔵』、右に進めば『国宝の八角三重塔と重文の開山二世和尚像』ですが、さて山下さん、どちらから回りましょうか…
それにしても、山下さんには全く疲れた様子は見えませんね…
大したもんです。
国宝・八角三重塔への登り坂は続いた…相変わらず、渡部さんと私は後から付いて行く状態で登って行った…
やがて杉木立の向こうに八角三重塔が見えて来た…
やっとの思いで国宝の八角三重塔の全容を眺めることができた…
屋根が四段あるのに三重塔なのかと思って見上げていたら、ツアーガイドの声が聞こえてきた…上の三重の屋根には風鐸が釣る下げられているが一番下には、風鐸を吊るす備えがないので、塔としては数えないのだと解説していた…勉強になった!
鹿児島寿蔵はアララギ派の歌人でもあり、昭和20年東京田端の自宅が空襲で焼失し、熊谷市上之に疎開し、7年間居住した。その後、昭和55年に熊谷を訪れ、星渓園で「熊谷草」の歌を詠んだ…
熊谷草なくてかなはじと星池に
植ゑて福ぶくしき花を咲かしむ
この歌碑の除幕式の写真撮ってくれとの依頼を受けて参加した…その時のブログ『鹿児島寿蔵歌碑除幕式』です。
曹洞宗の安楽寺は、鎌倉時代中期に入宋僧樵谷惟仙(しょうこくいせん)が開山して禅宗寺院となった。
国宝の八角三重塔は純粋な唐様(からよう)建築で,現存する唯一の唐様の塔として貴重な建物である。
このお堂に樵谷惟遷像と幼牛恵仁像は重要文化財として安置されている。
常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、※三楽寺の一つとして建立されました。(※長楽寺、安楽寺、常楽寺。長楽寺は焼失し北向観音堂の参道入口に碑を遺すのみです。)北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)』で全国的にも珍しい阿弥陀様です。
階段を上がって最初に目に飛び込んでくるのは茅葺の本堂。平成15年に修復工事を行った際、建立当時の建築様式に改めたという。
堂内には当時そのままの色彩を残す格子天井が美しく、ご本尊の妙観察智弥陀如来は、阿弥陀如来には珍しい宝冠を頂く阿弥陀様だという。
ここの階段もきつかった…
以前に参拝したことがあるという山下さんによると、北向観音堂は急峻な崖の上にあり、登るのは大変だと言っていたが、温泉街近くの高台にあった…私はホットしたもののやはり階段が待ち構えていた…
ここでも先頭を行くのは山下さんで太田さん、渡部さん、私と続いた。
北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来するそうだ。これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。
また、善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われるそうだ…
樹齢1200年の老木で天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木といわれている。
境内の東隅にある愛染明王堂とこの桂の木に因んで故川口松太郎氏(1899 - 1985、第一回直木賞受賞)が「愛染かつら」 を書かれたことは有名なだ。
私も子供の頃に上原謙と田中絹代の映画を観たような気がする。そして主題歌『旅の夜風』は馴染みのあるメロディーとして今でも耳の奥に残っている…
若い人たちからは「縁結びの霊木」として親しまれており、昭和14年6月5日、長野県の天然記念物に指定されたという。
44年 別所温泉同期会 2919.6.2
今回も湘南ボーイズと地元・市川さんのお陰で同期会が開催できたことに感謝です…
しかし、もう参加できなくなってしまた方々が8名もいて黙祷を捧げたが、名前が呼ばれる度に若い頃の面影が浮んできた…
昨年の盛岡での同期会、そして今年も参加してくれた1年後輩の安保さんの乾杯の音頭で宴会が始まった。
彼の挨拶は要領を得ていて、良くまとまっていたので、次に喋る予定の私にとっては困ったことになってしまった…
乾杯も済んだことだし、食べながら呑みながら聴いてくださいと前置きしてマイクを握った…
この年になると好いことも悪いことも色々ありますと切りだし、今年、湘南ボーイズと太田さんがやって来て、4月3日に熊谷の荒川土手で花見ができたと話しを始めた…
例年なら桜も盛りを過ぎる頃なのに寒波到来で7分咲きの花冷えだったが、夕方まで楽しいお酒を呑んだ…
その時、飛世さんが図書館の所で『金子兜太の記念講演会』の看板を見つけ聴きたいと言っていたので、往復はがきで申し込んでおいた…
講演会は5月18日で私の誕生日でもあったのでいそいそと出かけた…
講演会から帰って一休みしていると大川さんの携帯からメールが届いた。これまで何度となく連絡と取ったが、応答の無かった携帯から…
急いで開いてみると『私は大川の妹です…』から始まり、5月6日に兄が亡くなり、横手で葬儀を済ませました。皆さまに宜しくと結ばれていた…2017年正月に倒れ療養中の彼を太田さんと見舞った時は、リハビリのプランを語っていたのに、それ以来連絡が途絶えてしまっていた…妹さんによるとリハビリに入って間もなく癌が見つかり2年8カ月の闘病生活だと…
・音信を断ちての闘病きみが意地
・闘病を伏しまま逝きし野武士かな
・誕生日の君が訃報に天見仰ぐ
兜太が進めてきた現代俳句では季語など無くても俳句になると講演会で聴いたので作ってみた。それにしても彼が闘病のベットの上で、黙って携帯メールを読んでいたのかと思うと、やるせないというか、せつない気持ちがこみ上げてきた…
今回は別所温泉というライン・グルプのメールにやり取りで計画が練られて行った…その時の課題と背景を知らないと意味不明の単語のやり取りがくり返されていた。そして直前に高橋和幸君が腰痛のため参加できなくなり、そのキャンセル処理に飛世さんが慌ただしく動いてくれた…そんなご苦労を傍で見ていた奥様にもご参加いただき、その成果をご覧いただきたと思ったら、どうもお一人でて部屋いるらしいのです。飛世さんの奥様にとっても好い旅になりますようにと申し上げ、皆の賛同を得て話を終えた…
宴会の仕切りは武田さんにお願いすれば安心です…
何しろ学生時代から人の集まりを束ねてリードして行くことにかけては場数を踏んでおり、愉快に場を盛り上げてくれる力量の持主なのですから…
彼はこう始めた『まず一番遠くから参加してくれた桜井さんから』と呼び掛けたが桜井さんは気が付かない。そこで私が『耳も遠くなったようだ』と言うと空かさず『小南のように長くならず、完結に近況報告をしてください』と切り返してきた…
暫くすると永山さんがお酒を持ってやって来て、社内研修会で金子兜太の話を聴いたことがあると言う…
『どんぐりや帽子をとれば禿げ頭』と詠んだら、最高点の”天”をもらったと話してくれた…これには一本参った。兜太の評価なら最もだと…
隣の飛世さんに『小森さんの同期会初参加』を皆に話してくれと言われ前に出てマイクを借りた…もう一つ言い忘れた『来年も荒川土手の花見』をやるつもりだから来てくださいと案内した。そして脱帽した永山さんの俳句を紹介させてもらった…
渡部さんのちょっと勇み足で、札幌同期会の話を切りまっ出してしまったようだが、太田さんから北海道での同期会の提案があった…
どうも荒川土手での花見の時に話がでたそうだが、私には余り記憶の残っていない…
通例だと来年度は盛岡開催なのだが、再来年に予定されている大学の記念行事に合わせて盛岡での開催予定だという背景も理解できたので、太田さんの提案に大いに賛成である…
篠原さんは相変わらず旧街道を歩いているようで、今回は北陸を廻ってきたと話していた…そこで冒頭の写真を見せながら、熊谷・石原の一里塚を通った時には目印の欅がまだ健在だったかを確かめた…彼もスマホで記録を検索していたが、彼の写真でも欅は台風で倒れた後だった…それから金井さんを帰りに乗せて行ってくれとお願いし快諾してもらった…帰りは小森さんと金井さんが篠原さんの車で。
女鹿さんの話は興味深かった…
学生時代、立山に春スキーに行くことになり女鹿さん家の車に笹川、伊藤、浜島、工藤、小南と乗り込んで富山を目指した…高速など無かった頃だから相当の時間を要した。夕刻にやっとの思いで富山に到着し、その夜は富山の兄と叔母の家に分宿した…当時、兄は借家住まいだったのです…
翌朝、こんな出立で登山電車で美女平まで行き、そこから室堂までバスにのったが雪の壁はバスより高かった…夕方まで遊んでから山小屋に行ったら満室で断れ、谷底の小屋まで歩いた…何とか泊めてもらえたが、布団一枚に二人。女鹿さんの隣は女性だったと言うが、私の隣は笹川さんで寒い一夜を過ごした…
悪い仲間に立山に連れて行かれて以来、山の虜になってしまい『アルプス電気』に入社したと語った…
私が板橋の社宅にいる頃、女鹿さんが出張で上京した折に『カナデアン・ロッキーを滑ってきた!』と誇らしげに8ミリフィルムを持ってやってきたこともあった…
ある日突然、女鹿さんから電話がかかってきた…その呼び掛けで松本で落ち合い(女鹿、伊藤、鈴木、笹川、浜島、太田、飛世、小南)上高地に遊んだ…
その時、浜島さんが同期会を再開しようと言い出したと女鹿さんが話した…誰が言い出したかは忘れたが、大いに賛同した覚えがある…
今考えると、その場に飛世さん居てくれたお陰で翌年の花巻・大澤温泉の同期会が開催できたのだと思う…
そして今回まで毎年同期会を続いてきた…これは飛世さんをはじめとする湘南ボーイズのお陰だと感謝している…
ただ最近、伊藤さんが体調不良で参加できないのは寂しいかぎりだ…
今年の年賀状に『セメント野郎の休日』で出かけた蔵王での写真を貼り付けた…その時も女鹿さんが後輩を連れて宮城県側からやってきてくれた…この写真を見た女鹿さんが、リフトに乗っている人々が私の滑りを振り返って見てたと評してくれた…
女鹿さんはまだまだ現役のスキーヤーだが、私の方は、最早こうは行くまいと思いつつも嬉しかった。
山下さんの話は、妙に説得力があり皆が、箸を止めて聴き入った…
講師として教えていたせいなのであろうか…でも、今思い起こしても何の話だったの覚えていない…大変に失礼なことだが、認知症の兆候なのかも知れないのでご容赦ください。
大河ドラマ『真田丸』で使われたという切り絵の襖の前で宿の主が、物語の一節を語ってくれた…
終ったので私が写真を撮らせて欲しいと頼んでいたら、さっと秋葉さんが主の隣に座った…流石に古城巡りを趣味にしている秋葉さんの関心の高さかと感服した…
渡部さんが大川君を偲んで『青い山脈』を永山さんにリクエストしてあったようだ…この小説は石坂洋二郎が大川君の古里・横手に住んでいる頃に書いたそうで、横手駅の発車時にはこのメロディーが流されますと付け加え、永山さんと一緒に唄わせてもらった…下手でいいからと…
電気の先輩・柴田さんが『北上夜曲』の作詞も作曲も岩大の大先輩(作詞:岩手師範卒・菊地規、作曲:盛岡高等農林卒・安藤睦夫)であることを皆さんに知ってもらいたいというので、私がアンケートを作成してご協力をお願いしたことがあった。その結果報告とお礼を込めて『北上夜曲』を安保さんと唄った…実は5月23日に熊谷短歌会文学散歩に参加してくれた安保さんとカラオケで練習しておいたのだが…
そのままカラオケ端末の操作に手慣れた安保さんがリクエストを訊いて回ってくれたので助かった…
その司会を永山さんにお願いしたら快く引き受けてくれた…
これでスムーズに回ったっていったが、時間が足りなかったかも…
カラオケと言ったら、何と言っても工藤さんに唄ってもらわなくては…
学生時代にはそんなに上手いと思っていなかったのに…東北電力のご接待で相当に歌い込んだのであろう…
今日は『風雪流れ旅』を聴かせてくれた…少し訛るが歌は上手い!
濱野さんのたっての希望で『岩大の校歌』を唄った…
でも、最初の出だしは大声で唄えたものの、歌詞が浮んでこなくなり、次第に声が小さくなってしまった…
それでも何とか校歌を歌い終え、一本締めでお開きとなった…
宴会が終ると二次会会場の幹事部屋『山形』に集まってきた…今年も例によって桜井さんと渡部さんの議論(リベート)が始まるのかと半分期待、半分は遅くまで続いたら困るなあと思っていたが、何故か議論の開戦を迎えることはなかった…これもまた物足りなく、淋しいものだと思った…人間は自分勝手な生き物だ…
小森さんと私はベットを使わせてもらった…他に市川さん、篠原さん、渡部さんが同室で比較的早く就寝したが、私は夜中に何度か用足しに起きるので迷惑をかけるのではなかと気がかりだった…でも皆疲れていたらしく熟睡していた。
特に地元の市川さんは最後まで眠り込んでいたようでしたが、眼をさますと直ぐにビールの空き缶の後片付けを始められたので恐縮してしまった…『お疲れのようで熟睡してたね』話しかけると前日に行事があったからと笑っていたが、気苦労が多いのだと…そして空き缶などはスパーのゴミ箱にでも捨ててくれるのだろうかなどと余計なことをぼんやり考えていた…
早朝に一風呂浴びて、みんなと朝食を食べた…今日の朝食は一人前づつ用意されていて豪華でボリュームも多い…いつもならバイキング方式なので自分の適量を取り皿に盛りつけていたが…でも、親から食べ物は残すなと言われ育ったので頑張って完食した…朝から幸せな気分だ…
朝の出がけに飛世さんの奥様にご挨拶できて良かった…数年前に鈴木さんと一泊させてもらった時の茅ケ崎海岸レストラン・テラスでの朝食は忘れられない…折角ご一緒の旅なのに飛世さんを同期会で専有してしまい申し訳ないと詫びると、ニッコリ微笑んで独りで結構お酒を楽しみましたと応えてくださった…『今日は好い旅をしてください』と返した…
観光バス出発前のこと、浜島さんがまだ店番もいないお土産屋さんに入り、真田の赤備えを羽織っていた…それから外に出て来て『兜があれば良いのになあ!』と呟いた…
すると渡部さんが『浜島も中々チャメ気があるんだなあ…』と言いながらシャッターを切っていた…
みんなが乗ったバスの後を太田さんの車でついて行った…駐車場に着きバスから降りて来た松本さんが『ガイドさんの話が面白い、お金を払ってでも聴きたいくらいだ…』と言った。市川さんが手配せてくれたらしい…僧衣を身に纏っているが、果たしてお坊さんなのかと思いつつ…
和尚さんが六道地蔵の説明を…
天道(てんどう、天上道)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
みんな神妙に聴き入っていた…
天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という…
ただし修羅道を悪趣に含めて四悪趣(四悪道、四趣)とする場合もある。六道から修羅道を除いて(修羅道を地獄道におさめて)五道(五悪趣、五趣)とすることもある。
賢治は『春と修羅』を4月8日(釈迦の誕生日)の日付で発表している。
その難解な詩の中で『おれはひとりの修羅なのだ』と叫んでいる…
私は、この『修羅』の世界がどうもよく解らなくて、『宮澤賢治 銀河への旅』の画面を追いながらブログに書いてみた…もし、興味がございましたら覗いてみてください…
参道に立ち並ぶ羅漢の石仏はみな盃と徳利を手にしていた…私のご先祖さまなのであろうか…どうもお酒好きが多いようだ…
私も一番大きな盃を持っている羅漢さまから一口だけ呑ませてもらおうとしゃがみ込んだ…罰が当たるかも知れないと思いながらも…
惣門から参道を登ると正面に観音堂があった…そして西北の小高い丘に三間四方の檜皮葺「三重塔」が中空に舞う鶴の羽のような優雅な姿をみせますとあったが、上の写真のように見えた…
四季折々、春には桜、夏若葉、秋には紅葉の中に、冬には雪景色の中に浮かんで見えることだろうと想い描きながら見上げた…
東山道を旅する人々は「見返りの塔」といい塔の姿があまりにも美しいので、思わずふり返るほどであるという意から、つけられたと言われているそうである…
みんなは三重塔を見上げながら、和尚さんの解説を熱心に聴いていた…
ハンドル任せの気ままな旅路
この大法寺での集合写真を最後に太田さんと私は皆さんと別れて旅にでた…暑い日射しを浴びながら、松本市安曇3528番地1の道の駅『風穴の里』到着した…ここは水殿ダムの上に位置しているようだ…太田さんは自分ではアイスクリームを食べながら、私には生ビールを呑ませてくれた…太っ腹な太田さんである…
お昼過ぎに飛騨高山に到着(ドライブ・ステーション飛騨板蔵 岐阜県高山市丹生川町坊方2126-2)
お手洗いを済ませ『飛騨乃蔵』に入ると銘酒がズラリと並んでした…
私は一番だと勧められた『氷室』をゲットし太田さんの好きな濁酒をお土産にと買い求めた…
太田さんは現地調達主義らしく高山市内の案内時図を求めて観光案内所に行ったが、あまり好いものはなかったらしい…
『飛騨乃蔵』で今晩飲もうと『生の濁酒』も手に入れたが、その濁酒は生ですから酵母が活性化すると炭酸ガスを発生するので保冷してもらい抱きかかえながら車に乗った…
生濁酒をあまり揺らさないように抱えながら、高山の街並を眺めて廻った…次第に下腹と股間が冷たくなって足元に置いた…そしてこんなことを思い出した…高校時代、下宿の母さんの弟さんが東京からやって来て濁酒が呑みたいというので自宅の近所で分けてもらい藁で栓をした一升瓶を風呂敷に包みバスに乗った…当時、砂利道を走っていたバスは酷く揺れ、発酵して出て来た炭酸ガスと一緒にモクモクと瓶の口から溢れ出してしまったのだ…乗客の視線は一斉に私に向けられ真っ赤になったのを思い出した…そして足元の濁酒はそれほどは揺すれないし、栓もしっかりしているから、こんなことにはなるまいと自分に言い聞かせた…
飛騨国分寺は、岐阜県高山市にある高野山真言宗の寺院である。741年(天平13年)、聖武天皇により国分寺建立の詔が発せられ、757年(天平勝宝9年)頃、行基によって建立されたという。
819年(弘仁10年)、火災で焼失。855年(斉衡2年)ころ、再建。
室町時代に本堂が再建されるが、詳しい時期は不明である。七重塔(現三重塔)に再建記録とほぼ同じと推測すると、応永年間に焼失後再建され、1585年(天正13年)、金森長近が姉小路頼綱の松倉城を攻めたさいの兵火で焼失する。この後、再建。
天然記念物(国指定)の大イチョウは、 推定樹齢1250年、幹周10メートル、高さ37メートルだという。
台風で折れたという大銀杏の枝もかなりの太さだった…
その根元にこんな句碑があった…
・大銀杏 鳥のこもり痕 若葉哉
お昼どき過ぎていたので蕎麦でも食べようと高山市街地を廻ったが、駐車場が見つからず真宗大谷派高山別院照蓮寺まで来てしまった…
太田さんはここで私を降ろし、駐車場を探して引き返して行った…
その時間に境内を見学したり、一服させてもらった…
暫くして太田さんが御朱印帳を手に戻ってきた…駐車場はかなり遠い所だったようだ…ここ高山別院にも駐車場はあるが、それも商売にしているようで、信者の団体さんがバスでやってきて講を開いているようだった…沢山の寄進を募らなければ、こんなに立派な建物は維持出来ないかも知れないが…
高山の古い町並みを眺めながら市営駐車場に向かって歩いた…
途中に『飛騨高山まちの博物館』を見かけたので立ち寄った…
博物館は土蔵を改修して展示室にしたもので、渡り廊下を伝っていくつもの建屋を回遊するように設計されていた…
春の高山祭り、秋の高山祭りなどの冊子を頂いてきたが、未読である…
博物館の見学も途中で切り上げ、市営駐車場へ戻る道すがらも蕎麦屋さんを物色したが、とうとう駐車場に着いてしまった…
この駐車場わきの建物も何かの庁舎かと思われるが、シックで好い感じだったので写真に納めた…大正時代の建造物なのでしょうか…
白川郷に着いてみると道路は多くの観光客で溢れていた…合掌造りでの生活感は感じられず、まるで映画のセットのように思えたので、車に乗ったまま通り過ぎUターンして引き返した…
太田さんが『写真はいいよね!』と言うので一回もシャッターを切らなかった…
それから五箇山合掌造りを目指して走って行くと合掌造り菅沼集落を見下ろせる展望台があったが、既に閉っていたので道路から見下ろせるところで私を降ろしてくれた…
太田さんはまた車を駐車させるために引き返していった…申し訳ないと思いつつシャッターを切った…
もう陽は傾きかけるころで太田さんの顔も赤く照らされいる…
ここ菅沼集落の合掌造りでは村人が生活を営んでおり、遠くからでもその臭いが感じられた…谷底からかん高い子供たちの遊び声が響いてきていっそう生活感を実感させてくれた…でも、アイスクリームの旗や縁台が見え、ここにも観光客が入り込んでくるのかと世界遺産指定の波及効果をかいま見た気がする…
20年ほど前に合掌造りを見たことがあるが、その風景とどうも違うような気がすると呟いた…秋田の兄が福井の永平寺に参るため富山の兄の所へやって来ると言うので、私は出張先の金沢から富山に向かったが、先着のはずの秋田の兄が着いてなかった…平成10年8月の新潟豪雨に遭遇し列車が大幅に遅延したという…
翌朝のテレビが福井の永平寺近辺も土砂災害発生と報じたので永平寺参りは取り止めとなった…そこで富山の兄の車で五箇山にやって来て合掌造りを見学し、お蕎麦を食べ日帰り温泉に立ち寄ったが、その時の景色とどうも違うと話したら、太田さんが相倉集落へ連れて来てくれた…
相倉集落入口の駐車場に車を止めると公務員らしき若者がやって来て、住民が生活しているのでこの時間では中に入れませんと言う…大声を出さないことを条件にひっそりと集落に入った…しかし、脳裏に焼き付いている景色とは重ならなかった…
太田さんが、ここの民宿に泊るかと言ったが富山へ行くことになった…
相倉集落を出発したのは夕方の5時半頃だった。長いトンネルをいくつも抜けて富山駅前に着いたのは7時近くになっていて、太田さんが東横インに駆け込んだ…幸い空室があり宿を確保できた…
一休みして食事に出かけた…富山には何度か来たことはあったが夜の街に出たことはなかった。入院中の富山の兄にちょっと気が引けたが、太田さんを労って少し美味しいお魚を食べようと小料理屋風のお店に上がった…料理長お勧めコースに富山の岩牡蛎を頼んだ…生ビールの後、一番美味しい立山の冷酒をいただき、更にもう一本お高いお酒を呑んだ。
お勘定もそれなりでしたが二人共大満足。生の濁酒は呑めなかったよ…
朝に一風呂浴びて、6時頃から散歩に出た…太田さんに誘われ路面電車に乗ったら、富山駅でスイッチバックして再び走り出した…富山城址公園で降り園内を散策した。ここには50年も前、学生時代の夏休みに立山に登るつもりでやって来て、一人で登るのは駄目だ言い張った叔母に連れて来てもらった記憶はあるが、その時の景色はもう朧であった…
帰りにお堀沿いを通ったら『滝廉太郎号』と書かれた遊覧船があった…
太田さんが何故だろうと言っていたが、どうも「荒城の月」の着想の元になった城の一つということだ…
50年前に訪れたころよりも随分と整備が進めらて来たことだろうが、とても気持ちの好い散歩ができた…
これで朝ご飯も美味いだろう…
朝9時頃ホテルを出て高岡に向かった…夕べお店で聞いた国宝の寺の名が二人共出て来ない…路肩に停車して『龍雲寺』とカーナビにセットして走り出した…途中『瑞龍寺入口』の表示を無視して進んだら寺町に迷い込んでしまった…そうこで法事にやって来た人に尋ねると通り過ぎてきたことが判明したのだ…
瑞龍寺は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号は高岡山。本尊は釈迦如来。開基は前田利常、開山は広山恕陽。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、1997年(平成9年)に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、2018年現在も富山県唯一の国宝である。
瑞龍寺の伽藍の配置図が、人間の体になぞって書かれているのは、興味深いことだ…
・頭 :方丈
・首 :法堂
・お腹:仏殿
・右手:僧堂 ・左手:厨庫
・股間:山門
・右足:西浄 ・左足:浴室
< 瑞龍寺 石廊 >
前田利長公は本能寺の変後、織田信長公父子の分骨を迎えて、その霊を慰めるためと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山 広山恕陽禅師が利長公父子も加えて同じ形式の五基を建造したのがこの石廊の由来である。
< 利長公父子の石廊五基 > < 本格的な茶室 >
これは惣門の前に置かれた鬼瓦である…この鬼瓦を見ていた太田さんがホテルの冷蔵庫に生濁酒を忘れたことに気付いて連絡を取りキープしておいてくれと頼んだ…
富山県で唯一の国宝というが、この規模で原型が保たれているのには流石に驚き、感動した…今日も好いものを見せてもらった…
今度はカーナビ通りに走行し順調に高岡大仏に到着し、大仏背面の駐車場に駐車できた…
とても好い天気で暑かった…
大仏の身長は7.4mと表記されているが、地上からの高さ16m程とかなりの高さである…
入口で『若きは美し されど老いたるは 更に美し』を見つけ『好い言葉ですね』と呟いたら、中から出て来たご夫婦とおぼしきご婦人が、『心だけはね!』と言ってきたので『お顔もお美しいですよ!』と応えたら喜んで通り過ぎていった…
それから、ライングループ(別所温泉)にこの写真を送信した…
12時10分頃には高岡大仏を後にし、高岡古城公園へと向かった…
1605年(慶長10年)富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年(慶長14年)、富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半を焼失したため利長は魚津城に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰ったという。
高岡城は平城で高い石垣も見当たらいので、太田さんがお堀の周りを走り、そのまま富山に戻った…
富山に戻って、まずはホテルの冷蔵庫に忘れた生濁酒を回収した…
富山縣護國神社は、富山県富山市にある神社(護国神社)で、富山県出身の明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)までの戦没者を祭神とし、祭神は28,679柱になるそうである。
太田さんは、流石に御朱印を収集しているだけあって、この辺のところを解説してくれた…
私は社務所で蕎麦処を尋ねると宮司さんが丁寧に教えてくれた…
カーナビにセットして探したが見当たらず、ハミレスでイタリアン・ヌードル(パスタ)を食べた…
それから太田さんにお願いして入院している兄を見舞うことができた。その後、甥の店を訪ね甥が焼いたパンを土産に包んでもらった…
また、太田さんに富山名産の『こぶじめとかまぼこ』を食べてもらいたと思い、甥に教わったスーパー大阪屋に立ち寄った。
昨夜、お店の女将さんに富山の兄に連れて行ってもらった滝業のできる寺の話をしたら『大岩日石寺』だろうと教えてくれた…太田さんが病院の駐車場で待っている間にカーナビにセットしたようで、そこへ連れ行ってくれた…その時は秋田の兄も健在で、三人で名物のそうめんを食べたことを懐かしく思い出した…
この日石寺は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山(おおいわさん)で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。
太田さんが高速に乗る前にガソリンを満タンにした時は5時頃だった…そして『帰り500キロ、帰宅は10時頃かな…』と言ってハンドルを握った。私も心残りのない旅ができたが、一つだけ残念なのは、残雪をいただいた立山連峰が、朧に霞んだ空に阻まれてしまったことである…
それは、またの機会に期待して…
新潟の親知らず辺りを通った時は、日本海に沈む夕日には少し早かった…太田さんの運転は正確だった…時速110キロを目途に走ると1時間に100キロで予測できると話していた…
7時20分頃、東部湯の丸SAに着き土産のお菓子を買い求めた…
高崎に近づくにつれて次第に車の量も増加し、太田さんの予想を少し上回ったが、9時少し前には熊谷に到着できた…
上の写真は翌日の食卓である…
マス寿司は1個しかなくて、太田さんの分は買えなくてゴメン!
息子は少し温めて、旨い旨いと言って食べていた…こぶじめは冬場より柔らかめだったね…
ボケ防止に旅の徒然を思い出しながら綴ってみたものですから、差し障りの有る処もございましょうが、どうぞご容赦くださいませ・・・
<謝辞>太田さん1000キロ1000キロもの運転に感謝
別所温泉 地元 市川 武彦 お骨折りに感謝
湘南ボーイズ ご協力いただいた皆さまに感謝
写真提供:渡部 雅幸、橋本 正道、女鹿 靖典 感謝