札所19番 ~ 札所27番
8月7日に秩父札所めぐりを終えた時に10月にまた行こうと約束していた…10月になって太田さんの都合を聞いたら、10日か11日はどうかということで、渡部さんに連絡して10日に決まった…
10日近くになると台風19号の発生が報道され天気が心配…
当日は少し冷え込んだのでカーデガンを着こんで自転車で熊谷駅に向かったが、天気は良さそうだった…
熊谷駅9時3分の急行に乗った…太田さんは既に今日の予定が決まっているらしく、19番から24番までが目標だった…車中、太田さんのヨーロッパ旅行の話に聴き入った。
10時頃、お花畑駅で降りレンタカーを予約しておいた西武秩父駅に向かった…
この頃には大分気温も上がり、私はカーデガンを脱いだ…太田さんは最初からテーシャツでしたが…
渡部さんがこの写真を撮ろうとカメラを構えていると通りかかった男女二人のサラリーマンが立ち止まってくれた…秩父はのどかです…
今回、私がネットでレンターカーの予約と支払いを済めせておいたので、簡単な説明を聞いてレンタカーに乗り込んだ…
太田さんが札所19番の住所をカーナビにセットして出発した…
札所19番までは5,6キロの距離である…
―――――――――― 秩父札所19番 ―――――――――
飛測山 龍石寺
この札所は大きい一面の岩盤上に建てられています。
七間半、四面表流れの向拝をふした方形造りの大きい観音堂です。
近年寺の荒廃を憂い広く浄財を募り、昭和四十七年改体復元が成り、その折宝永二年の墨書が発見されました。薄暗い堂内には闘魔を始め、十手王像など冥途の恐怖を強調するもの、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあって仏教の暗い一面をみせる札所でもあります。
本尊は、千手観世音坐像で像高四九糎寄木造りで、室町時代の作です。
「昔、この地方に大早越があり、弘法大師は天皇の勅にところ、この大盤石二っに割れて、神泉苑より竜が昇天し、雲を呼びたちまちに雨降りおこり、人畜草木みなよみがえり大曽作を得たという縁起があります。
龍石寺は秩父橋近くの小高い丘の上にあった…丘と言っても一つの大きな岩盤の上に建立されたお寺であるというが…確かにその岩盤が露出しているとこもあった…
台風19号の発生で心配された天気もこの通り清々しい真青な秋晴れでした…
―――――――――― 秩父札所20番 ―――――――――
法王山 岩ノ上堂
この札所は三間四面方形造りで他の堂における指折の建築で、延宝初年、内田家先代、内田武左衛門尉政勝の再建によるものといわれており ます。
現在の堂は江戸中期の造営と思われますが、元禄年間に内陣の補修、宝永年間に彫刻の補修を経てきたもので、唐模様系統の建築で優秀な造りとされております。岩の上堂の名の如くこの地は荒川西岸の崖上にあって本尊は聖観世音立像で高さ七一糎、寄木漆箔、藤原時代の作と言われ、市指定有形文化財になっています。
昔、人皇七十二代白河院の勅によって建立された荘厳な堂であったといわれ、応仁の頃から次第にすたれ、本尊のみ岩の上に雨にさらされた時もあったといわれ幾多の 伝説もあります。札所にまっわる孝子話、乳水場の霊験も縁起とされております。内陣には見事な呑日厨子の形式による厨子があって、三十三身題と日天、月天像、風雷神像などの像がはられ、札所の中でもすぐれたものと共に責重なも実のです。
岩ノ上堂は荒川の秩父橋を渡った札所19番から0.8kの所だった…
石段の上から木々に囲まれたお堂が見えた…
お堂の下を流れる荒川のせせらぎの音が聞こえて、お堂の周りは、秋の木洩れ日が眩しく眼にしみた…
久しぶりにとても長閑な雰囲気を感じることができた…
ほど良い湿気のためか地面が苔に覆われたところに東屋があった…
私は、ここで一休みすることを提案しベンチに腰を下ろした…
巡礼の人々がここでお弁当でも食べながら疲れをいやすのだろうか…
―――――――――― 秩父札所21番 ―――――――――
要光山 観音寺
この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像が見あります。
大正十二年小学校火災により類焼後、今の堂がつくられました。焼失前は 三間四面の堂であったといわれ、境内には聖観世音立像、百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等あり盛時が偲ばれます。
堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎(田舎千両と称えられた)の墓もあって地芝居隆盛の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。
昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場になったとい います。
関邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放てる神矢がここに落ち、悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起があります。
観音寺は札所20番から0.9kのところの道路沿いにあり、道路を挟んだところに駐車場があった…
結構交通量の多い所だったが、渡部さんがカメラを構えていたら2台の車が停車して写真を撮り終えるのを待ってくれた…熊谷辺りでは信じられない光景であった…
―――――――――― 秩父札所22番 ―――――――――
西陽山 永福寺
この堂は童子堂と称し、府坂地内より現在の地、永田城跡に移動したと伝えられ近くに城の堀跡が現存しております。
四柱屋根三間四面で周囲際に勾欄付の株をつけ欄間や扉には薄肉彫り淡彩の彫刻があります。山門の仁王門は、童子仁王と云い椎拙であるが受矯のあるもので童子の名無にふさわしい仁王門です。本尊は聖観世音がまつられております。
この堂は淳和天皇の御第、三品式部卿伊報親王の著提のため、遍照僧正がこの領主に命じて草創 したと云われております。
昔讃岐に慳食な長者があって、行脚の僧長者に食を乞えども与えられず、僧は金を払いて米を求め犬に与えればこの家の件、犬となり共に喰いる様に親は驚き悲しみ大きく長老は僧に因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国の霊場を廻り当山に来て始めて元の人間にな ったと云う縁起があります。
永福寺は札所21番から1.4kの所にあり、ここ永田城跡に移された故か、境内が広い駐車スペースになっていた…
お堂の中は撮影禁止との案内板が立てられていたが、渡部さんはカメラで覗き込んでいた…
この山門の屋根は茅葺で趣があった… 黒澤明の「椿三十郎」で「永福寺の山門の二階で寝ていたら…」という三十郎の台詞のシーンが思い出されるような雰囲気であった…
この山門が気に入り何枚か写真に納めた…
―――――――――― 秩父札所23番 ―――――――――
松風山 音楽寺
この札所は秩父地方屈指の景観地にあり重本堂は三間四面ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが 江戸中期の大さな堂です。
内陣は唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しおります。本尊聖観世音は一本造桧材で面八十一極宝町時代の作です。
梵鐘も明和五年の銘があり昭和三十二年二月市指定文化財になっております。
明治十七年田代栄助を総理とする秩父事の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだと云う逸話ものこっております。
楽天長年間辺の昔、慈覚大師は関東霊地開拓一折この地の優れたることに感じ聖観世音像を安置し 山路を開きたもうとき数多くの小鹿現われて大師を案内したため小鹿坂の地名になったと云う縁起があります。
音楽寺は札所22番から1.4kの山の中腹にある。その名の通りお参りすれば音楽が上達するというご利益に預かれるようにとカラオケ好きなお客さまを何度か案内したことがあった…久しぶりにやってきて、新しくなった納経所と勘違いし、少し戸惑いを感じてしまった…
今でも音楽上達信仰は続いているようで、今年デビューしたらしい新人歌手のポスターが幾重にも貼られていた…
このお二人のカラオケは、あまり聞いたことがないが、音楽寺にお参りしたからには、今度の同期会でカラオケで唄ってくれるかも…
駐車場からはかなり登って来たので一休みさせてもらった…
12時を廻っていたので、御朱印をいただいた時に「この近くのおそば屋さんは…」と訊ねると、24番へ行く途中に色んなお店があると教えてくれた…
秩父困民党無名戦士の墓
われら
困民党
暴徒と呼ばれ
暴動といわれることを
拒否しない
この墓石にはこう刻まれていた…
明治十七年田代栄助を総理とする秩父事の群衆は、この鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだと云う…
今その鐘を太田さんが…
昭和44年に秩父セメントに入社した時、総理・田代栄助の子孫と言われる人が工場長をしていたし、秩父事件で襲われた名主柿原一族も同じ会社で働いていたことを思い出した…
最も柿原定吉は秩父セメント創設に関わった一人でもあるのです…
心
訪れる
人それぞれに
嘉福の人
感謝の心
永遠に保たん
昭和五十四年九月
無名戦士の墓石の隣にあった…
―――――――――― 秩父札所24番 ―――――――――
光智山 法泉寺
この札所は三間四面方形づくりで江戸中期になるもので、唐様を随所に配し、変化のある意匠をこらして妙味ある本堂であります。
特に唐戸は凹字形に後退してうけ、左右に仁王像をまつり、八角柱で変わったつくりをみせて「本尊は聖観世音一木造りの坐像、像高二五糎室町時代の作で宋朝風のものといわれます。
養老元年の昔、越前の大徳秦澄、夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を観請したものといわれ、本尊も当山より現れし観音像を安置奉祀したといわれます。又、武州恋ヶ窪の遊女、口内の病に悩んでいたところ、秩父の修行僧が一本の楊枝を与え、白山の観音を信じてもちうべしと教えられ、歓んで信心し、かの楊枝で口内をそそいだところ、忽ちのうちに癒えたという縁起があります。
法泉寺は札所23番から3.5kの急な石段を登ったところにあった…
ここでも太田さんは元気一杯で一気に石段を登ったが、私と渡部さんは中腹の踊り場で一休みした…
その時、すでに盛りを過ぎ咲き残っている彼岸花を写真に納めた…
息を切らしながら登り詰めた…
高台にある法泉寺の境内は清々しい気分にさせてくれた…
もう12時40分を過ぎ空腹だったので御朱印をいただいてから、そば処を訊ねた…
すると、ここから300mほど戻った所の右手に「長尾根」というお蕎麦屋さんがあると教えてくれた…
法泉寺境内からの眺めも素晴らしかった…
常日頃、秩父市内から正面の武甲山を眺めてきたが、法泉寺からの眺めは違っていた…
石灰石を採掘したベンチ・カットの様子が良く判るアングルだったので何枚か写真に納めた…
――――――――――― 酒蔵 秩父錦 ―――――――――
先程教わった「長尾根」を見過ごししまったようで、先に「酒蔵 秩父錦」に立ち寄った…酒造博物館は有料だったので遠慮し、売店に入った…レストランも併設かと期待したが団体客のみを受容れているようだった…でも、お酒の試飲はできるようだ…申し入れると清酒4本、米焼酎4本をテーブルに並べ、それぞれの特徴を説明してくれた…私は清酒と焼酎の全てをトライした…すきっ腹に酒のまわりも早く、味の違いも判らなくなってきたが、黙って説明に頷きながら呑んだ…一方、渡部さんは清酒を呑み終えたところでストップしてしまった…やはり、すきっ腹にこたえたらしい…
太田さんは寛容で、黙って二人の試飲に付き合ってくれた…
私は余りにも気の毒になり、太田さんと渡部さんには濁り酒を自分用には最初に呑んだ清酒をお土産に買い求めた…
―――――――――― そば処 長尾根 ―――――――――
教わった蕎麦屋・長尾根に着いたのは14時過ぎだった…
ここでも太田さんはフリーのビールを頼み、私と渡部さんはキリン一番搾りを呑みながら天ぷら蕎麦を食べた… お腹が空いていたので、蕎麦も美味しかったし、天ぷらもボリュームたっぷりだった…
―――――――――― 秩父札所25番 ―――――――――
岩谷山 久昌寺
この札所は通称御手判寺といいます。この由来は播州書写山の性空上人、秩父巡拝時の折、閣魔大王から贈られた石の手判を当寺に納めたという。これにちなんで御手判寺ともいうのである。
堂は三間四面、表流れの向拝をふした方形造りで堂内には宮殿形の厨子がおいてあります。本尊は聖観世音立像一木造り像高五六糎室町時代の作といわれます。
その昔、上ノ山奥野の女、心荒く父母親類縁者にも疎み果てられ、自ら懐胎の身ながらも追いたてられ久那の岩洞に住み、鬼女如く振るまい里人に恐れられていました。
女の子生まれて母に似ず神仏を尊び里人の助けにより、旅僧の持ちし観音像をまつり、母没後の菩提のためにこの地を霊地にしたという、これが寺の草創である。
久昌寺は札所24番から2.9kの久那にあった…
久那には会社の同期が住んでいる…彼の家には代々伝わる平賀源内の描いた絵図や古文書が現存するという…いつか拝見したいものだ…
久昌寺は久那の山懐に抱かれ、境内に池があり、その池には蓮の葉が浮いていていた…静寂の中をゆっくり散策したい雰囲気である…
でも、もう3時近かったので御朱印をいただいた…
そこには御手判を刷り込んだ魔除札も飾られていた…
―――――――――― 秩父札所26番 ―――――――――
萬松山 圓融寺 (岩井堂)
この札所の本尊は恵心僧都の作といわれる八寸七分の立像聖観音で現在は園融寺本堂に安置されているが、かつては岩井堂に安置されていた。岩井堂は寺より南へ約1.5kmに元久二年(1205年・鎌倉時代)に建立した。周囲は急峻な地形で岩壁におおわれ、その中腹に三間四面の方形造りに、勾欄をめぐらす唐様の細部をなした美しい堂です。
正面谷間に向けての舞台造りは、京都の清水寺を偲ばせます。
眼下百米谷川よりの霊霧、眼前の武甲の雄姿を収めたこの堂に身をおく時、まえに補陀落の浄土を見るに似ます。
岩窟にはその昔、弘法大師三七日の秘法を修めたという護摩壇、仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その子重能、重忠等の信仰の深かりし縁起もあります。本寺の本堂には昭和33年7月市指定の文化財「勝軍地蔵立像」像高121cm、木造寄木造りで玉眼入りの鎧の上に環甲の袈裟をつけた鎌倉時代の優秀作といわれる仏像が安置されています。
この他、県指定文化財鳥山燕の「景清の牢破」絵画額等もあります。
園融寺は札所25番から3.8kの下影森にあった…
堂々とした大きな構えのお堂には圧倒される程であったが、何しろ15時を過ぎていたので、取り急ぎ御朱印をいただき、次の札所に向かった…
―――――――――― 秩父札所27番 ―――――――――
龍河山 大渕寺
この札所は、明治·大正と二度にわたる大火で堂宇をすべて消失しました。その後、 本堂観音堂を兼終ねた仮堂として再建されでいたが、平成七年裏山を切開き、 三間四面、宝形屋根の観音堂が再建されました。
本尊は聖観世音です。門前には市指定史跡影森用水路跡もみられます。
その皆行脚の僧宝明、諸国をめぐり、この地に霊境の多いにうたれ、春秋七年を過ごし思わぬ足の病となり行住坐臥して念誦するのみとなりました。弘法大師この地に至りてこれを愍たみ一体の観音を刻みて与えました。
宝明は悦び吾一人杯するはもったいなしと里人に伝え一宇の堂を建て本尊をまつり、宝明を第一祖にしたという縁起があります。
大渕寺は札所26番から1.4kの上影森にあった…到達まではかなり細い道路を通ったが、門前には駐車スペースが整備されていた…
西日に照らしだされた参道は、中々の趣を醸し出していて今日最後の札所として相応しかった…
あまり写真を撮らない太田さんも何故か仰け反りながらアングルを定めていた…
お朱印を下さった方も珍しく良く喋るお坊さんで、御朱印帳の書き出しの頁が逆だと能書きを言って、間違えた書道の先生を非難していた…
ところが、花崗岩の門柱に張られたしめ縄が気になった太田さんが引き返して、その訳をお訊ねしたところ、正月のしめ縄を面倒だから外してないだけだとの返答だったと…
他人さまをあれほど声高に避難していたのにと思いつつ車に乗った…
太田さんの運転のお陰で札所27番まで巡ることができ大満足でお花畑駅から16時50分の電車に乗り帰路に着いた…
―――――――― 下山祝い 藍屋熊谷店 ――――――――
太田さんには存分に呑んで貰おうとセットメニューを予約しておいたのだが、6日にランチに来てみたら、当分の間呑み放題中止の貼り紙が目にとまった…
慌てて訊ねてみると熊谷でラグビーWCが開催さる日だけの限定付きだったのでほっとした…
話題はもっぱら太田さんが家族三人で旅したイタリア、イギリス、フランスの体験談で盛り上がった…飛行機と拠点ホテル以外は、ご子息がネットを駆使して現地で予約したというから大したものだと感心しながら聴き入った…
ただ、パリでデモに巻き込まれ催涙ガスを浴び、地元ポリスから目薬をもらい手当をしている間に、動画を撮影していたご子息とはぐれてしまったそうだ。その時は、流石の太田さんも弱ってしまったようだが、太田さんは本能的な土地勘を生かし、何とかホテルまで歩いて戻ることができたそうだ…
その夜は互いの無事に安堵し、家族三人野外レストランで乾杯したそうだ…
こうした話は尽きることはなかったが、今夜はあまり無理せず、20時半頃には駅に向かった…
次回は12月にと約束して、熊谷駅前で旅の締め括りの写真を撮ってもらった…このブログの写真は、殆ど渡部さんが送ってくれたものを使わせてもらった。ありがとう…
2019.10.19 文責:小南 毅
コメントをお書きください
湘南Boys・Watta (月曜日, 21 10月 2019 13:16)
ありがとう 楽しんで読みましたよ
「チョピリ・・辛口の大渕寺」「椿三十郎・・永福寺の山門」等 ・・
次回が楽しみだね
新井あや子 (月曜日, 21 10月 2019 18:01)
お疲れ様でした。私もいつか何時かと思いつつそのままです。友達と最初に行ったところが結願のお寺で、お風呂に入って帰ってきました。逆さ周りで頑張らねば。
コスモス (土曜日, 26 10月 2019 21:44)
秩父困民党の音楽寺は有名ですが椋神社は札所巡りに入ってないのですね。
神社だからかしら?
秩父神社はいったことがありますがその他の神社は殆ど知らなくて今はもういけないだろうなーと羨ましく写真を見ています。