昨年10月28日の「第13回賢治と歩む会」は、元会社の同期に誘われてラオスへ出かけており、休んでしまった…
久しぶりに仲間と会えるので楽しみにしていたが、昼食後に少し横に鳴っている間に出遅れてしまい、懸命に自転車を漕いだ。
何とか定刻前に着いたら、萩原先生が自転車置き場の所で一服していた。私が自転車を止めると、また一本取り出して私に付き合いながら、秋田駒に出かけた時に雪道で難儀した話をしてくれた…
その時は清六さんも一緒だったが、下り坂でブレーキを踏み過ぎ、終いにはブレーキから煙が出てきてしまい、慌てて雪の塊を押しつけて冷やしたそうだ…そして「賢治所縁の地への納経の旅でしたが、吹雪のために実現できなかった。」と最後に着け加えられた…
本日の課題は「注文の多い料理店」であった…今回も劇団「シナトラ」の原田竹子さんが朗読してくださった…その朗読が何とも心地よく、時々眼を瞑って聴き入った。
まるで賢治の描く森の中へ迷い込んだような錯覚に陥った…
原田さんの朗読が終わると、みんな一様にため息を漏らし、肩を撫でおろしていた。それほどまでに物語の中に引き込まれてしまったのであろう。
そして順番に感想やら疑問点やらを述べた。いつも作品をとことん読み込んできて、賢治作品の奥深いところまで語ってくれる東さんの前に私の所へ廻ってきたので、少しはお話しできそうだと切りだした…
賢治は、大正13年12月1日に『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』を自費出版した。この本には「どんぐりと山猫」、「狼森と苽森、盗森」、「注文の多い料理店」、「烏の北斗七星」、「水仙月の四日」、「山男の四月」、「かしはばやしの夜」、「月夜のでんしんばしら」、「獅子踊りのはじまり」の9編が収録されている。
今回「注文の多い料理店」(初稿 大正10年11月10日)を読み返してみたら、どうも他の賢治童話とは違う類の作品ではないかと感じた…
そこで、他の作品ももう一度読み返し、初稿の日付順に並べてみた。
「かしはばやしの夜」
:初稿 大正10年8月25日
これは初期の作品ということもあり、あまり読まれていないかも知れない。
ある日暮れに清作が畑仕事をしていると「うこんしゃっぽのカンカラカンのカン」と調子はずれの歌が、柏林の方から聞こえてきた…清作は柏林の前まで行くと、赤いトルコ帽、鼠色の服に靴の背の高い画かきに捕まり、変な挨拶を交わす… この柏林の木大王の客人となっていた不思議な画かきに誘われて、清作は柏林の中へ入って行ったが、木こりもやっていた清作は歓迎されなかった…木大王は柏林の木を切られた被害者の意識であり、一方清作は「山主の藤助に酒を二升買ってあるんだ。」と伐採許可を得ていると、意識の上での溝があった…
そこで画かきは、仲をとりもとうのど自慢大会を開いた。柏の木が、次々と変な歌詞でラップを唄い、それぞれ賞のメダルをもらって行く…
そして六番目の柏の木が「うこんしゃっぽのカンカラカンのカン あかいしゃっぽのカンカラカンのカン。」と唄うと、清作がこの歌は偽物だと抗議し、木大王と言い争う。すると画かきは「…にせものだからにせがねのメダルをやるんだ。…」と仲裁に入った。
しかし、次に頑丈そうな柏の木が出てきて清作を揶揄するような歌を唄うと、それに続いて次々と林の木々が唄い続け、清作をひやかした…清作が大王の前に飛び出そうとするのを画かきが押えた。
のど自慢大会の盛り上がりも薄れた頃に、梟の群れが柏林にやって来た…
そして梟の副官の提案で、梟と柏の木の合同の大乱舞会が始まったが、大王が歌が下等だとクレームを付けた…これに対して梟の副官が、それではみんなで唄いましょうと「月の歌、星の歌、柏の歌、梟の歌」を歌うと月は真珠のように、すこしおぼろになり、ついに大王も機嫌を直し唄い出した。
しかし「雨と風の歌」を歌い出すと霧が降りてきてしまった…
すると、柏の木々は踊っていたポーズのまゝ固まってしまい、赤いしゃっぽを残したまま画かきは姿を消し、梟も飛び去ってしまった… そこで清作は林を出ていきました…
このような人間のエゴと自然との触れ合いの物語を通して、果たして賢治は何を伝えたかったのであろうか…
「夜空のでんしんばしら」
:初稿 大正10年9月14日
ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路のたいらなところを停車場に向かって歩いていると、右手のシグナルがガタンと白い横木を斜めに下の方へぶらさげた。すると線路の左側のでんしんばしらがの列が大威張りで一ぺんに北の方へ歩き出した。恭一をじろじろ横目で見て通るでんしんばしらは、軍隊の出立に見えた…そのでんしんばしらは「ドッテテドッテテ、ドッテテド、でんしんばしらのぐんたいは…」と軍歌を唄った。そして向こうの方を六本うでぎのでんしんばしらの列は「ドッテテドッテテ、ドッテテド、二本うで木の工兵隊、六本うで木の龍騎兵…」と軍歌を唄いながら進んだ…
どういう訳か二本の腕木はを組んで、びっこを引きながらやって来て「…あしさきあが腐り出したんだ。長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」と嘆く負傷兵もいたが、全体主義の軍隊は強引に行進した…
その内に遠くの軍歌に交じって「お一、二、お一、二」という号令が聞えてきた。列の横を背の低い顔の黄色な爺さんが、電信柱の列を見回りながらやってきて「…行軍を見ていたのかい。」と話しかけ、恭一と握手するとお爺さんの眼の間から青い火花がぱちぱちっと出たと思うと、恭一は身体がぴりりっととしてあぶなくうしろへたおれそうになりました…恭一が歯をガタガタ鳴らし、震えているのを見て「おれは電気総長だよ。」と言って安心させた。
当時はまだまだ電気が十分普及していない時代だったので、電気総長は恭一にと電気のことを知らない人の滑稽な失敗談を話しながら、自分の隊ではそんな兵隊はいないと自慢するのだった…そうこうしている内に遠くに赤い二つの火が見え、汽車がやってきた。即決で電気総長は、慌てて進軍を止めた。
ところが、その汽車の客車の電灯が消えているのを見て「…けしからん。」と言って、素早く列車の下に潜り込んだので、「あぶない」と恭一がとめようとしたとき、客車の窓がぱっと明るくなって、一人の小さな子が手をあげて「あかるくなった、わあい。」と叫んで行きました。
この物語は、岩手軽便鉄道と東北本線の花巻駅近郊の線路が舞台となっていて、当時花巻の近郊で工兵隊の演習が行われていたというから、賢治は軍隊の行進を見ていたに違いないし、出兵の大儀が薄れてきた当時の日本軍シベリア出兵に対する批判もあったのかも知れない…
「鹿踊りのはじまり」
:初稿 大正10年9月15日
若い頃、くりの木から落ちて左の膝を痛めた嘉十は秋の収穫を終え、糧と味噌と鍋を背負い、にびっこをひきひき西の山へ湯治に向かった…すすきの野原の大きな榛の木の前で荷物を下ろし、腰に下げて来た栃の団子を食べ、栃の実ほどを鹿にために残し、ウメバチソウの白い花のしたに置いた…
そこからしばらく歩いてから嘉十はさっき休んだ所に手拭を忘れたのに気がつき、急いで引き返すと、そこには鹿が五、六疋集まっていた…
嘉十は気づかれぬように爪立てで、そっと苔を踏んで近づいて行った…
すると、鹿たちは栃団子に近くにある手拭を怪訝そうに、その周りを巡っていた…嘉十は耳がきいんと鳴って、それから鹿の声が風に乗って聞こえて来た。
鹿たちは、白い布切れは何だろうと話しながら、ついに一疋が勇気を出して近づいてみる…そして、観察したことを話し、また次の一疋が近づいて、見たことを報告して、ついには、六疋目がその白い布をくわえて戻ってきた…
そして「…そいづさえ取ってしめば、あどは何って怖っかなぐない。」と言って、今度は四方から栃団子を囲んで集まり、一番はじめに手拭に進んだ鹿から、順番に一口ずつ団子を食べた…
鹿はそれからまた環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。…
やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ち、鹿が細い声でうたいだした…その水晶の笛のような声に、嘉十は目をつぶってふるえあがりました。…嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて、「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。
すると鹿は一斉に逃げてしまい、嘉十は苦笑いしながら、穴があき土のついた手拭を拾って西の方へ歩き始めた…
夕陽のさす苔の野原で疲れて睡ってしまった時に、賢治が秋の風から聞いたお話となっている。農作物の実りを願い日々太陽を拝み、秋の実りに感謝して暮らすイーハトーヴの村人の自然との融和を描きかったのであろうか…
「どんくりと山猫」
:初稿 大正10年9月19日
ある土曜の夕方、山猫から一郎に届いた葉書から物語が始まる。次の朝、一郎は一人で谷川に沿った小路を奥へと入っていった。風がざあっとふくと、くりの木はばらばらと実をおとした…ここから一郎は幻想の世界に入って行く。
一郎は、くりの木や笛ふきの滝、くるみの木の上のリスに山猫の居場所を尋ねて谷川に沿って登って行った…
そして急な坂を登り切ると、にわかに黄金の草地に出た。そこに奇体な男・馬車別当が立っていた…学歴に劣等感を持っているこの男が、あの葉書を書いたという…その葉書に書かれたの文字をめぐる一郎とのやり取りも面白い。
そうこうしている内に、黄色い陣羽織を着た山猫さまが登場して、「…めんどうなあらそいがおこって、ちょっと裁判にこまりましたので、あなたのお考えを、うかがいたいとおもいましたのです。…」と伝えた。
そこに、私が一番だ、いや俺が一番だと口々に訴えながら、黄金のどんぐりがうじゃうじゃ出て来た…馬車別当が、がらんがらんと鈴をならすと静まりかえった。
山猫にどうしたらいいでしょうと尋ねられて「…このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくはお説教できいたんです。」と応えた…
これで裁判も終わり、お礼に黄金のどんぐりを一升もらい、きのこの馬車に乗って帰っていった…木ややぶがけむりのようにぐらぐらゆれました…
そして、一郎は幻想の世界から戻ると黄金のどんぐりは茶色に変っていた。
賢治には、この時すでにデクノボーのイメージができあがっていたのであろうかと、感慨深かった作品である。
「狼森と苽森、盗森」
:初稿 大正10年11月
小岩井農場の北に狼森、苽森、黒坂森、盗森の四つの森がありました。ある日、黒坂森から聞いた話を賢治は物語にした…
東の方から開墾する土地を探して、山刀や三本鍬や唐鍬などの道具を担いだ四人の百姓が家族を連れてやって来た…
そして「ここへ畑をおこしてもいいかあ」、「ここに家建ててもいいかあ」、「ここで火をたいてもいいかあ」、「すこし木いもらってもいいかあ」といちいち森に伺いを立てて、その野原に住まわせてもらった。
ところが翌年の秋に四人の子供が見えなくなり、狼森に探しに行くと九疋の狼が、子供たちに栗やきのこだのを焼いてご馳走していた。みんなは、あわもちをつくりお礼に狼森に届けた…
そして次の年の秋に、山刀も三本鍬も唐鍬の道具がすっかりなくなってしまった。みんなが笊森に探しに行くと、小さな山男がいたずらに笊の下に道具を隠していたのだ…村人は道具を返してもらい、お礼に粟餅をつくり狼森、笊森に持っていった…
その次の年の秋、粟餅を作ろうとしたら、村中の粟が消えてしまった…
村人は黒坂森に教わり、盗森まで探しに行くと真っ黒な手の長い大男がいて、粟を盗んでないとしらを切る…しかし、岩手山に見破られ男は、姿を消してしまう。でも、岩手山は「…みんなももう帰ってよかろう。あわはきっと返させよう。…」と言って村人を促した。そう言われて、村人が帰ってみると納屋に粟が戻っていた…
それ以来、冬のはじめには粟餅を作り、四つの森に持って行きました…
自然を大切にし、自然に感謝して糧を得て暮らし始めたというイーハトーブの生い立ちが語られている。しかしながら、機械化された農業を見て育った子供たちには、四人の百姓が担いできた山刀や三本鍬や唐鍬などの道具をどう使い分けて開墾するか想像もできないことでしょう…耕作放棄地が散見される現代では開墾するなど考えられず、尚更のこと山刀も三本鍬も唐鍬を見かけることもなくなってした…でも、この作品を読むと、岩手山の麓に広がる小岩井農場の近辺にイーハトーブの風景が浮かんでくるのである…
「注文の多い料理店」
:初稿 大正10年11月10日
東京から二人の若い紳士が、真新しい鉄砲を担ぎ、二匹の猟犬を連れてイーハトーブの奥山にやって来た。ところが、獲物を探して山奥に迷い込んでしまい、とうとう案内してきた地元の鉄砲打ちともはぐれてった…その上、二匹の愛犬が泡をはいて死んでしまうのだが、二人は口々に損金を自慢げに言い合う始末なのだった。
こうして状況が悪くなると、猟は止めて山鳥を十円も買って帰ろうということになるのだが、お腹は空いてくるし、かと言ってどっちへ行けば戻れるのかも分からないし、ほとほと弱ってしまった…
すると、風がどうとふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました…「あるきたくないよ。ああこまったなあ。なにか食べたいなあ。」…後ろを振り向くと、ざわざわ鳴るすすきの合間から「西洋料理店 山猫軒」の看板が見えた…
二人は多いに期待しながら山猫軒に入って行くと長い廊下が続き、扉の上に「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」と書かれてあった。その扉を通り抜けるたびに次々と現れる注文書を自分たちの都合の良いように解釈して店主の注文に応じながら長い廊下を進んで行く。
ついに裸になりクリームを塗った身体に塩を擦り込むことになり、二人はやっと自分たちが料理されることに気付いた…がたがた震えながら、後ろの扉から逃げようとするが、扉はびくともしない。前の扉の二つの大きな鍵穴から、きょきょろ二つの青い目玉がこっちを覗いています…顔がまるでくしゃくしゃの紙くずのようになり、…ぶるぶるふるえ、声もなくなきました…
「わん、わん、ぐゎあ」という声がして、あの白くまのような犬が二ひき、扉をつきやぶってへやのなかにとびこんできました…
そして、風がどうとふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました…みのぼうしをかぶった専門のりょうしが、草をざわざわ分けてやって来た。
二人の紳士は、十円だけ山鳥をかって、何食わぬ顔で東京へ帰って行きましたが、クシャクシャになった顔は、けっして元に戻ることはなかった。
「注文の多い料理店」は今回の課題なので、後で考えてみることにする。
「烏の北斗七星」
:初稿 大正10年12月21日
この作品では、烏の海軍と山がらすとの闘いが題材として取り上げられているが、戦後の子供たちには軍艦の種類や兵隊の位など分かり難いかも知れない…
この山烏との戦争の最中、大尉からすと海軍一の美声の許婚者のからすとの互いを思いやる恋の話も挿入されている。
そんな中で大尉のカラスは、山からすとの戦闘には勝利するものの、殺し合う戦争の空しさを嘆く…
『マジェル様、どうかにくむことのできない敵をころさないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引きさかれてもかまいません』
その後の賢治童話によく登場してくる自己犠牲の精神がすでにこの時期に描かれ、烏のマジェル(北斗七星)信仰を通して、戦争に対する考えや世界平和への祈りを語っている。
「水仙月の四日」
:初稿 大正11年1月19日
この物語には、水仙の花が咲く頃の雪の丘に二疋の雪狼を連れた雪童子、雪婆んごと九疋の雪狼をした従えた雪童子が登場してくる。しかも雪狼は、人の目には写らないという幻想の世界の中で物語が始まって行く…
山奥で木炭を焼いて暮らす部落にカルメラ鍋でカルメラを作ってみたくてしょうがない女の子が春が来るのを待っていて、やっと春が近づき野原が堅雪(雪化石膏の板)になった頃に女の子は木炭を売りに行く橇を押して町に出かけた…
雪童子は象のかたちをした丘に登り下を見ていると、前の日に木炭そりをおして町に行って、買ってもらった砂糖で早くカルメラを造りたい一心で、その包みを抱えた赤い毛布にくるまった女の子が、一人だけ先に帰ってきた。
そして雪童子がいる丘を登って来て、雪狼に命じて栗の木に付いた美しい黄金のやどりぎを取らせた…それから山すその細い雪道を登ってきた赤い毛布にくるまった女の子に向かって、ぷいってとやどりぎの枝を投げた…
子どもは、やどりぎのえだをもって、一生けんめいにあるきだした。
そこへ雪雲を引き連れて雪婆んごが現れ「ひゅう、なにをぐずぐずしているの。さあ降らすんだよ。降らすんだよ。…」とあやしい声が聞こえてきた。
その猛吹雪のなかで雪童子は、風の中に女の子の泣き声を聞いた…それでも雪婆んこは「…きょうは水仙月の四日だよ。ひゅう、ひゅう、…」と激しい吹雪を巻き起こす…赤い毛布をかぶったさっきの子が、風にかこまれて、もう足が雪からぬけなくなってよろよろたおれ、雪に手をついて、起きあがろうとして泣いていたのです…「たおれているんだよ。だめだねえ。」雪童子はむこうのほうからわざとひどくつきあたって子どもをたおしました。それから雪童子は、子どもに赤い毛布をすっぽりかけてやり、凍えないように雪で覆ってあげた。やがて雪が止むと雪狼に雪を掘り起こさせ、赤い毛布の端が、ちらっと雪から出たのを見て「もういいよ。」と言って帰っていった…
雪国の自然の厳しさを象徴する雪婆んごが荒れ狂う中で、赤い毛布をかぶった女の子を助ける雪童子を登場させるという物語の設定に賢治の優しさが感じられる賢治作品ではないかと思う…
雪童子の優しさからは、遠野物語の座敷童子が連想されてくる…
「山男の四月」
:初稿 大正11年4月7日
この作品は、あまり多くの人に読まれていないかも知れない…
不細工な山男が 春になりカタクリの花が咲くころ、山から里に下りてきて、枯草の香の漂う日当りの良い原っぱに仰向けになり、のんびりと雲の流れを追うところから物語が始まる…
山男は樵に化けて町に出かけ、魚屋の前で支那人の行商に出くわす…その支那人に騙されて薬を呑み、六神丸にされて紙箱に閉じ込められてしまう…
そして行商の行李(こうり)の中に入れられ、上海で六神丸にされてしまった支那人に元に戻して欲しいと頼まれる。こんな仕打ちをされても、行李の中から大声を出さないようにして行商の支那人を思いやる山男の描写は、賢治ならではの慈悲の心なのでしょうか…
この行商の陳さんが、女の子を騙そうとしたとき、山男はその丸薬を一粒呑み込み元の姿に戻ったが、陳さんは同時に呑むはずの水薬をこぼしてしまい、身体がどんどん大きくなってしまったのだ…
山男は、巨大な陳さんに追いかけられ、捕まったところで夢から覚めた…
何んとも、あっけない結末であるが、果たして賢治は何を伝えたかったのであろうかと考えさせられる作品である。
こうして『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』の童話集を改めて読み返してみた。
やはり、殆どの童話では、幻想世界での人間と自然との触れ合い、交感が描かれているのに対し「注文の多い料理店」は、どうも毛色が違うように思われる…
それでは、どうしてこのような物語の構想が生まれてきたのであろうか…成金趣味の二人の紳士がスタイルをきめ、真新しい鉄砲と高価な猟犬を連れてイーハトーブに狩猟にやって来るところから物語が始まる。そんな軽薄で不心得な俄か仕立ての猟師をイーハトーブの自然が受入るはずもなく、逆に山猫の獲物として次々と罠にはまって行く様子が、おどろおどろした物語として、二人が蟻地獄へ落ちて行くように描かれている…
では、賢治にこんな発想がどうして生まれたのであろうか…当時、国民皆が困窮の中で厳しいロシアとの戦いに勝利し、そして第一次世界大戦でも勝ち組となり、好景気へと進んで行く中で生まれた成金主義の軽薄な人々と好景気の恩恵を受けることのなかった故郷イーハトーブの暮らしとの大きなギャップを何度かの上京で感じとった賢治が、皮肉たっぷりのブラックユーモアとして描いたのではあるまいか…
更にその根底には、里人はよそからやって来た都会人の受け入れを拒むという、古くからの習わしが、二人の紳士に対する仕打ちとして描かれているのではないかと思う。
私が生まれ育った秋田の田舎でも、山越えで部落に入ってくる山道の側溝の草を部落の人々が手分けして刈り、終いには大きなわら人形を作り村はずれの生木に括り付け、木の枝を削って作った大小二本の刀を差す習わしがあった。それは「人形たて(にんぎょたで)」と呼ばれ、村役と称し一軒から一人駆り出されるの慣例であった。私も中学の頃に父の代役としてその役目をはたしたことがあったが、夕方には濁酒を持ち寄って一杯やるのも習わしであった…
こうして他の土地からの侵入を拒むという意思表示をし、厄払いを行っていたのを覚えている…(写真は本格的な事例である)
しかし、車社会となり他地域との交流も活発になった今日、部落への出入口に、厄払いの藁人形が番兵役として立ち続けているのだろうか…
ただ、この物語の二人の紳士の行動は、利己的で山猫からの注文を自分に都合の良いように解釈してしまうという自己中心で、しかも「そうだ、そうだ。」と言って、二人で納得し合うというお人好しの人物として描かれている。
それでは、翻って我が身で考えてみると、他人様から言われたことを「そうですね。」と、自分に都合の良いように解釈して同意してしまうが、後で当てが外れたという経験が何度もある。この二人の姿は決して他人事ではないぞと賢治が警告してくれているのかも知れない…
あと、どうしても疑問に残るのは、物語の冒頭でいきなり「二匹の愛犬が泡をはいて死んでしまう。」点と、物語の終盤で突然…「わん、わん、ぐゎあ」と言って犬が生き返って来るところである。賢治作品の多くの場合、必ず「風がどうと吹いて草や木がゆれて」から異界に入って行くのにと萩原先生に疑問を投げかけてみた…
みなさんからの感想や質問などの後、休憩に入り先生と一緒に一服した…
また会が始まると、萩原先生は多岐にわたり、色んなお話をしてくださった…私はこのお話が楽しみで毎回参加している。
私の疑問に対しては「犬が死んだ時点で、すでに異界に入っているのだ。」と解説して下さり、先生は次々と参加者の疑問に応えるお話をしてくださった。
ある会員から「注文の多い料理店」が子どもの教科書に載っていたとの話が出たので、私は「この作品は教材として取り扱うの難しいでしょうね…先生は何をどう教えたらよいを悩むでしょう。」と発言してしまった…すると、萩原先生が「この「注文の多い料理店」を国語の教科書に選定したのは私だ。」と言うではないか…国語教科書を出している会社は五社あり、各々の会社が「やまなし」とか「雪わたり」の既得権を手放すことはなく、文章の長さ等の制約もあり「注文の多い料理店」を選定したと説明された…でも、女の子の生徒からは、「怖いお話」と敬遠されていたとも付け加えられた…
賢治は「注文の多い料理店」を出す前に詩集「春と修羅」も自費出版しているが、いずれもあまり売れなかったと先生は語った…
特に「春と修羅」は返品の山となってしまい、出版社もたまりかねて神田の古本屋に流してしまったのが「ドッキ本(見切り品)」として山積されていた。たまたま草野心平が、それを五円で買い求めたことがきっかけで宮沢賢治が世の中に知られるようになったとは皮肉なことよと先生が話してくれた。
萩原先生は、草野心平氏との面識があり「大した酒豪であった」と付け加えられたので、左の童話集「注文の多い料理店」に入っていた冊子に掲載されていた草野心平の逸話を紹介した。「…一度草野心平さんは上野から列車に乗って花巻へ賢治さんに会いに行ったことがあるのです。ところが、どうしたことか草野さんは新潟行きの列車に乗ってしまいます。たぶん酔っぱらっていたのでしょう。お酒の好きな詩人でしたから。」このことが実現し、草野さんが賢治に会って励ましの言葉をかけていたら、さぞ元気がでたことでしょう。
年はじめの集まりでしたので「新年会」が熊谷駅前のレストランで行われた。
宴会が始まる前にやがて孫に読んで聞かせようと買い集めている宮沢賢治童話集の裏表紙に萩原先生にサインしていただいた。すると「この童話集は、全て私が編集して、それを天沢退二郎さんに眼を通してもらったものですよ。」と誇らしげに話してくれた…
先生から自慢げな話を聴いたのは初めてだ…
今回の新年会には八名の方が参加された。
特に「熊谷 賢治の会」の創設のころから加わっていたという小久保さんは京都からの参加で、多いに盛り上がった…
先生は最近ではお酒を少し自制されているとのことでしたが、面白いお話を伺いながら、あっという間に時間が過ぎてしまった…
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コスモス (火曜日, 13 3月 2018 22:52)
賢治さんの童話は確かに難しいですね。子供たちよりも大人に人気があるのでは。私が中学の時の教科書にあった「オッペルと象」という童話は、いま話題の働き方「労働改正法」のようです。
学芸会は「バナナン大将」の歌劇、あの頃の先生も賢治さんにかぶれてました。。
藁人形の写真には驚き。東北ってやはり理解できないほど大きな何かがありそうですね。