猫の事務所
数日前に瀧田さんから電話があって、萩原先生が風邪をひかれ殆ど声が出ないという…そこで、そのつなぎに盛岡での同期会のランチ「注文の多いお弁当」の話をして欲しいと依頼があった…瀧田さんが私のブログを読んでのことらしい…
私もブログに使った写真や資料をとりまとめてDVDを編集して、当日に備えた…
「猫の事務所」の初出は、尾形亀之助編の「月曜」の3月号(大正15年3月)に掲載されたが、本編発表の原稿は現存しないという…
だが、その先駆形態を示す草稿一篇はあるとのことだ…
その初期形では「猫の戸籍調査」が事務所の役割となっているが、なぜか発表形では「猫の歴史と地理」になっている…
また、作品末尾の「かあいさう、かあいさう」と釜猫への同情が削除されているという…
ねこの事務所 …ある小さな官衙に関する幻想…
賢治は、何故…幻想などと、断り書きのようなサブタイトルを付けたのだろうか…その当時、賢治が社会(役人根性)批判することに対する大きな権力が作用していたのであろうか…
この辺のところは、私には理解できていないが、物語のあらすじはこうだ…
事務長の黒猫、一番書記から白猫、虎猫、三毛猫とアイディンティテーが明確だが、四番書記の主人公・釜猫は、夜に暖かいカマドで眠り煤だらけで出勤してくるただの猫なのだが、その釜猫は40倍の難関を突破した優秀な猫なのだ…
ところが、釜猫のこの優秀さが厄となって行く…上級書記官に対する質問を聴き、先読みして次に来るであろう質問に関する回答記事の原簿のページに小さな手を挟み込んで待ち受け程機転が利いたのである…
事務長の黒猫から指名されると即座に応える優秀さを所長は気に入り釜猫を可愛がるが、反面仲間の猫からは嫉まれることになるのだ…
そんな仲間からの視線に気づいた釜猫は、懸命に仲間に尽くそうと努力するのだが、釜猫へのいじめはエスカレートして行く…
ある日、釜猫が風邪で休むと「釜猫は事務長の椅子を狙っている」と事務長に告げ口される…
翌日、釜猫が出勤すると自分の仕事は取り上げられ、大事な原簿も取り上げらてしまった…
釜猫は悔しくて弁当も食べずに泣いていたが、それすら無視されイジメの最高潮に達した…
そんな様子を窓から覗いていた金色の頭のししが現れ、事務所の解散を命じてしまった…賢治は「ぼくは半分ししに同意する」と結んだ…
この「猫の事務所」の筋道は読み易い、それだけに色んな感想があり、なるほど、なるほどと思いながら聞いた…でも、「ぼくは半分ししに同意する」を作者の言か、釜猫の言かで意見が分かれた…
作品は一人称の視点、三人称の視点、全人称の視点で書かれると先生は解説し、この作品の「ぼく」は語り手、つまり賢治の感想であると説明された…賢治がイジメの話を作品に取り上げたのは、幼い頃から家業の質屋・古着屋の裕福な家の子として、村の子供たちから疎まれイジメを受けた体験があったからではないかと萩原先生は語った…こんな幼児体験もあり賢治は家業の質屋を継ぎたがらなかったようだが、弟の清六さんも「質屋は継ぎたくなかった…」と呟いたことがあるという…実際、清六さんは「金物屋・荒物屋」を開店し、家業を継がなかった…
私は、賢治は職場でこのようなイジメの現場を目にしたのだろうかと思ったが、どうも花巻農学校の教師をしていた時期と作品が書かれた時を考えると可能性は職場でのイジメを体験した可能性もあるのではないかと思った…花巻農学校の校長が代って、賢治は教師を辞めたというのも何か絡んでいるのだろうか…
私も長いサラリーマン生活の中で、職場でのイジメを目にしてきた…いや、体験したこともある…
それは親分肌の上司で、気に入った部下をとことん可愛がった。ところが、ある部下の讒言を信じ込むとある日突然イジメに変り、その人の仕事を他の部かに命じ、仕事を無くして行くのである…そして「職場に居辛くするには、仕事を干すのが一番だ」と言っていたのを今でも覚えている…
つまり、その人の職場での居場所を無くすことなのだ…
物語では、唐突に金色の頭のししが現れ、事務所の解散を命じてしまうのも解せないし、作者が「ぼくは半分ししに同意する」と結んでしまうのも、私にとっては消化不良のことがらである…
たいていの賢治作品では「善悪正邪」の一方だけに結論付けないことが多いのだが、そだけに、この物語も不充足感を残す結末なのであろうと、自分自身を納得させながら「猫の事務所」を読み終えた…
少し後味は悪いが…
休憩時間を挟んで、9月3日盛岡での同期会の時の「注文の多いお弁当(賢治所縁の北山を訪ねて)」DVDを上映した…
今回は、飛世さんから教わった方法(Lighting Digital AV Adapter)でスマホで受信した画像を直接TV画面に写しだした。パソコンを持参しなくても手軽に皆さんに見てもらうことができて助かった… その時のブログ「注文の多いお弁当」もご覧ください。
瀧田さんから「賢治と歩む会」も今年で4年になるので、これまでを振り返り皆さんの感想を伺いたいとの発案があった…
まず、「熊谷 賢治の会」の頃から活動してきた小川さんからスタートした…私は小川さんのお誘いを熊谷短歌会の金子会長の紹介で第2回の「なめとこ山の熊」から参加させてもらっている…
他にも「熊谷 賢治の会」の発足時から萩原先生とお付き合いのある方のお話を聞いて、熊谷賢治の会における宮沢賢治との関りを知ることができた…
それから「賢治と歩む会」の会報をお届けしている小鹿野町の山本さんからのお便りを瀧田さんが紹介してくれた…山本さんには、昨年の熊谷短歌会・文学散歩「秩父路の賢治の歌碑を訪ねて」の案内をしていただき、大変お世話になった…いやいや今年の文学散歩も「小鹿野歌舞伎」の観劇ツアーを予定し、その企画段階から山本さんにお世話になり進めてきたが、その「小鹿野歌舞伎観劇ツアー」11月18日も来週に迫ってきた…
そのお手紙の「地図から消えたムラの暮らし」にダム建設で埋没するムラの森を伐採することになったが、木を伐った切り株に若木を刺して、山にお祈りする話が出てきた…
第16回の「賢治と歩む会」で『狼森と笊森、盗森』を取り上げていたので、山本さんはその会報を読んでお手紙をくださったのだと思うが、私の田舎・秋田でも同じような祈りを見たことがある…
杉林を伐採するとき、その林の大きな杉を選び、倒す方に切り込みを入れ、反対側から座布団のような大きな鋸で挽いて杉の木を伐り倒した。そして伐り倒した杉の切株にお神酒をふりかけ、何やらお祈りをする「木挽き」たちを見たことがある…何か、秩父地方の山林伐採時の儀式と通じるものがあるようにも思う…ただ、残ったお神酒は、帰りがけに皆で呑んでましたけどね…
その時の山師(バイヤー)だった義姉の父親(良吉)に杉の小枝を集めるお手伝い(アルバイト)をさせてもらい、その春から中学へ持って行くズックの手提げカバンを買ったのを思い出している。雪国では伐採した木材を橇で搬出していたので、雪が硬く締まった春先に木を伐ることが多かった…
今回は、萩原先生の体調も宜しくないようなので、会終了後の懇親会は取り止めかと思っていたら、先生はどうも懇親会のつもりだったらしく、このメンバーで1時間ほどお話した…
その時、鈴木守さんからお預かりしていた本「本統の賢治と本当の露」と「注文の多いお弁当」のDVDを先生にお渡した。いつもより早めに切り上げ、改札で先生をお見送りした。
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コスモス (木曜日, 17 10月 2019 22:19)
賢治さんの作品に「注文の多いお弁当」の作品があるのでしょうか?
賢治さんの家には田畑が沢山あったようですね。小作人であった人の
やっかみはあったかもしれませんね。それにしても大人のいじめ、最近の
先生のいじめ問題を思いだし校長先生迄関わっていたなんて信じられないです。どうゆう神経なのかな唖然としてしてしまいます。