第18回 賢治と歩む会 2019.01.19

『 土神ときつね 』

今回は賢治作品には珍しい「恋物語」を萩原先生のご推薦で取り上げることになった…それは白板に掲げられた龍前先生の筆によるタイトル「土神ときつね」である…丁度、午前中から全豪オープン・テニスで錦織圭の試合があったので、ぎりぎりまで観戦し、錦織圭が勝ちを決めたところで、息子に送ってもらった。

何とか間に合ったが、萩原先生は一服吸い終えて会場に向かうところだった…会場に入ると劇団シナトラの原田さんが熱心に本を読んでした…それなのに私は先日の演劇「フランドン農学校の豚」をご紹介いただいたお礼を言いたくて割り込んでしまった…本原田さんが本日朗読する本のリハーサル中だとも知らずに…

今回も新しい仲間が二名増えた…

埼玉新聞に掲載された「賢治と歩む会」の記事を見て申し込んだそうだ。お二人とも「朗読会」で活動しているそうで、それぞれ浦和と蓮田からわざわざ参加してくださった…

それを聞いた原田さんは少し緊張気味に「土神ときつね」の朗読を始めた…

ところが、一旦幕が上がると流石に劇団シナトラの名女優に変ってしまったのです…聴いている内にグイグイ物語に引き込まれてしまい、眼を瞑って聴きいると、そこには賢治ワールドが広がっていた…

これは私だけではなかった…後の感想で皆さんは、まずその感動を述べていたのです…

さて、「土神ときつね」のあらすじをご紹介して置きたい。まず、これら写真をご覧ください…原田さんが持参してくれた絵本なのですが、これらの原絵は、全て木材を切り張りした張り絵だと聞いて驚き、とても自然な色合いだったのでスマホで撮らせてもらった…

< 土神ときつね >

本木の野原の、北のはづれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺かばの木がありました。・・・

この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地やちの中に住んでゐる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐きつねだったのです。樺の木はどちらかと云いへば狐の方がすきでした。

・・・たゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。

夏のはじめのある晩でした。樺には新らしい柔らかな葉がいっぱいについていゝかをりがそこら中いっぱい、空にはもう天の川がしらしらと渡り星はいちめんふるへたりゆれたり灯ともったり消えたりしてゐました。

 その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴くつもキッキッと鳴ったのです。

「実にしづかな晩ですねえ。」

「えゝ。」樺の木はそっと返事をしました。・・・一方、土神は・・・

その東北の方から熔とけた銅の汁をからだ中に被かぶったやうに朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くささうに腕を拱こまねきながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。・・・

「たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」

「狐さんにでも聞いて見ましたらいかゞでございませう。」

 この語ことばを聞いて土神は俄にはかに顔いろを変へました。そしてこぶしを握りました。「何だ。狐? 狐が何を云ひ居をった。」

 樺の木はおろおろ声になりました。

樺の木は折角なだめようと思って云ったことが又もや却ってこんなことになったのでもうどうしたらいゝかわからなくなりたゞちらちらとその葉を風にゆすってゐました。土神は日光を受けてまるで燃えるやうになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしてゐましたが考へれば考へるほど何もかもしゃくにさはって来るらしいのでした。そしてたうとうこらへ切れなくなって、吠るやうにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。・・・

 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何とも云へずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向ってゐたのです。本当に土神は樺の木のことを考へるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなってゐたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考へたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもへて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神ぢゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたひがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教へました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思ひ出したらまるでからだが灼るくらゐ辛かったのです。

 賢治作品には珍しく、土神の樺の木に対する恋の悩み、ライバル狐に対する嫉妬心などが生生しく描かれている・・・土神もやっと自分の気持を落ち着かせたある秋の日のことです・・・樺に木に近づいてくる狐の姿を見かけると土神の嫉妬心がメラメラと湧き上がってきてしまったのだ・・・

向ふに小さな赤剥の丘がありました。狐はその下の円い穴にはひらうとしてくるっと一つまはりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込まうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかってゐました。と思ふと狐はもう土神にからだをねぢられて口を尖らして少し笑ったやうになったまゝぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れてゐたのです。

 土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。

 それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。

 それからぐつたり横になってゐる狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はひって居ました。土神はさっきからあいてゐた口をそのまゝまるで途方もない声で泣き出しました。

 その泪なみだは雨のやうに狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったやうになって死んで居たのです。

 

参加者の皆さんは時折眼をつむり、原田さんの朗読に聴き入り、それぞれイメージを膨らませていた…

それから順番に皆さんから「土神ときつね」を読んだ感想、疑問点などが発表されたが、それぞれの方の視点が異なり、大変興味深い示唆を与えてくれるものであった…

それから萩原先生から解説があり、多くの疑問に応えてくださった…私は、賢治自身に内在する相反する心象が、この物語に登場した狐と土神に象徴的に表現されているのではないだろうかとの疑問を投げかけた。そして更に賢治の親友・保坂嘉内に対する同姓愛が心の中に潜んでいたのではないだろうかとの疑問も述べた…この疑問に対して先生は、賢治には修羅が心の中に住んでいたであろうとの説明してくださったが、賢治の同性愛について触れられなかった…それから賢治の恋に関して、具体的な二名の女性を上げて、当時その恋人のモデル探しが熱心に行われたことを紹介された…先生のご配慮なのか、その中に鈴木守氏が実証研究を続けてきた「高瀬露」は登場しなかった…

< 『土神ときつね』の感想文 >

 賢治は、なぜこのような物語を書いたのだろうか・・・

女の樺の木に恋する土神と狐を通して、人間に内在する他人を愛しむ慈悲の心と邪なる「修羅」の心を併せ持ちながら生きて行かねばならぬという哀しさを描きたかったのであろうか。

 賢治自身の中にも嫉妬に苦しむ情念のような土神と、文学、天文、岩石など知的にスマートを装い、狡猾に生きる狐のような自分がいたのかも知れない。人と接する時は、たぶん狐のように振舞うが、心の奥深くの方に土神がいたのではないだろうか。狐は、生々しく激しい自分の感情を知性という他所行きの衣でそれを包み、それを隠そうと努めるが、本性に潜む土神は、いくら抑え込もうとしても頭をもたげてきてしまう。

物語では「樺の木はどちらかと云いへば狐の方がすきでした。」と若い娘は、カッコイイ狐の方に心惹かれるが、「たゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。」と付け加えている。

 土神は、「美学や、本や望遠鏡」などで樺の木を引き付けようとする狐への嫉妬心に悩み苦しむが、何とか落ち着きを取り戻し二人の仲を許そうと決めた。ところが、狐が見え透いた嘘をついて樺の木を惹きつけようとしているのを見かけた土神は、押さえてきた感情が怒りとなって爆発してしまった。そしてごうごう鳴って汽車のごとく狐を追い詰めて殺してしまいました。土神が飛び込んだ狐の穴には何も無く、レインコートのポケットにかもがやの穂二本だけだった。土神は、哀れな狐を殺してしまった己の愚かさと、嘘をついてしまう狐の性に初めて気付いて茫然と立ちすくんだのだろう。

 生身の賢治は心の中に住み着いている修羅と付き合いながら生き、人生の最後に願望を込めて「雨ニモマケズ」を書き残したのであろうか・・・

 

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (金曜日, 16 8月 2019 22:28)

    土神さんの姿や表情が型破りで面白いです。
    死んだ狐がうすら笑っているのも気味わるい。
    その時の樺の木が書かれていませんがどうしたのかなー。