第19回 賢治と歩む会 2019.4.20

十月の末

この『十月の末』は萩原先生の推薦作品である。少し見捨てられがちではあるが、賢治童話の起点となった作品で、『光の素足』、『風野又三郎』へと繋がって行くという…

 やがて賢治は『イーハトーブ童話』と呼ぶようになるが、その過程で「心象スケッチ」、「村童スケッチ」、「花鳥童話集」へと展開し、そして「少年小説」を目指すようになり生まれたのが、『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』であると語った…この『風の又三郎』は『さいかちが淵』と『種山ヶ原』を再編集して作品にしており、その前段での『風野又三郎』では、自然のもつ意味を子供たちに伝えようと『大気の大循環』を取り上げ「水沢緯度測候所」に通って得た知識(ℤ項やℤ気流)を又三郎を通して村の子供たちに伝えようとした…科学者・賢治の立ち位置が色濃く出ている作品かと思う…

 更に賢治は下根子桜の別邸に「羅須地人協会」を作り農村改革に乗り出し、自らも園芸を行い「ティア・フル・アイ(盛岡少年監別所)」や「南斜花壇」の設計も行っている…先生が『少年監別所はどうなっているかなあ…』と呟いたので、50年も前のことだが、新入生に各クラブの活動を紹介する冊子を編集し、その印刷を少年監別所に頼んだ時のことを思い出した…印刷代が安い

 というのでお願いしたが、ゲラ刷りの校正に苦労したのを覚えている…

 この作品『十月の末』は、子供の目、子供の心を通して、秋から冬へと移行する季節を描いている…

そして花巻の西の西根山が登場するが、その北には「なめとこ山」、「秋田駒」、「岩手山」と続き賢治作品に取り上げられている…

また、賢治の物語「紫紺染について」には、西根の大男が出てくる。

 県のえらい先生方や研究者たちは、一体どうしたらいいのか困って、古い文書を探しまわり、昔、紫根を売ってお酒に変えていたという大男の記事を見付けました。そこでその息子の大男を「ハイカラなレストラン」に招待し、教えてもらおうとしたのです。「内丸西洋軒」(おそらく「多賀」でしょうか?)、当時最もハイカラなレストランに、(前日こっそり本屋さんで「知っておくべき日常の作法」という本を買って読んだらしい)大男がやってきます。バターや極上のパンや、ビールが並んだ席で、大男は何故か思いきりビールを飲んでちょっと皆のひんしゅくをかったりもしますが・・・

 こんな風に萩原先生のお話は、賢治を中心に360度、あらゆる方向にお話が展開して行くので、いつも置いてきぼりの自分を感じつつ、貴重なお話の落穂ひろいをするように記憶のかけらを拾い集めてブログに書いているのが情けない気がする… 

 私はこの「紫紺染について」の物語を読んでいないが、紫根染はムラサキという植物の根からとった染料で染めた反物だそうで、地元の高校生がムラサキを育て、伝統的な染め方を老婦人から教わっている様子をテレビで見たことがある…賢治は「紫紺」と「紫根」と表現しているようであるが… 

この『十月の末』という作品には方言が沢山用いられているので、萩原先生が東北出身の私に朗読するようにと言い出した…私が生の東北弁で読んだら外国語を聞いているようになるだろうと思い躊躇していると、劇団『シナトラ』の原田さんが朗読を引き受けてくれたので、ホットした…彼女は近々に方言の多い『水仙月の四月』を朗読劇として一人芝居で演じる予定だったらしく、その練習のためにもと思い朗読してくださったようだ…

 みんなは黙って彼女の朗読に聴きいった…ある人は眼お閉じて、またある人は作品に眼を落しながら聴いていた…

 そして皆さんが感想を発表し合ったのですが、登場人物の二人の子ども嘉ッコと善ッコを女の子だと思ったというのです…

 そこで、私は子供の頃の友だちの呼び名を紹介した・・・たばこやのショッコ(正一)、むごのえ(向かいの家)のアツコ(篤)、あらさのショッコ(昭一)、ケンボ(恵時)など、男の子でも・・・コをつけて呼び合っていたことを紹介した…ちなみに私はツヨ(毅)と呼ばれていた…女の子のケースでもモグベのカッコ(勝子)というように、どうも短縮形をあだ名にする習わしだったように思う…

 もう古稀も過ぎたというのに、子供の頃のからの友だちを昔と同じあだ名で呼び合っているのは何とも…

 私にとっての『十月の末』は子供の呼び名だけでなく、体験してきたことが描かれいて懐かしさを感じる作品なのだ…

 ぽかぽか暖かくなる頃には家の周りの畑仕事が終り、山の畑へ出かけた…朝、味噌をまぶしたにぎりまま(握り飯)と暖かくなり少し酸っぱくなったダャゴズゲ(たくわん)数切れをホノハ(朴木の葉)で包んで藁で結び、それを風呂敷に包んでタスキ掛けに背負わされ山の畑へ向かった…あば(母)とばっぱ(祖母)はトガ(唐鍬)を担ぎ、かます(藁ムシロで作った袋)に灰汁を入れて背負っていた…子供の足ではかなり遠く感じる程の所に開墾した山の畑があった…この『十月の末』のように林を抜けると豆畑が広がっていたのを思い出す…

 ばっぱ(祖母)は荷を下ろすと煙管たばこで一服していた…今ならその気持ちが良く判るのだが…

 それからばっぱ(祖母)は手拭を縫い合わせ作った袋に灰汁を小分けして、それを畑に撒いていた…あば(母)は、トガ(唐鍬)で畝を作り、それに豆を等間隔に撒いて行くのが私の役目だった…それにばっぱ(祖母)がトガ(唐鍬)で土を被せる作業が続いた…

 そしてお昼には山のスズ(泉)から清水を汲んできて、木陰に腰を下ろしてニギリママ(おにぎり)を食べた…木陰を吹き抜ける風は汗を涼しさに変え、ほんのり立ち込めるホノハ(朴木の葉)の香りが今でも懐かしい…

 大豆や小豆は山の畑に撒いてもあまり手間のかからない丈夫な作物なのだが、あとは山鳩に盗み食いされないよう願うだけなのだ…

 こうして山の畑も一段落すると味噌造りが始まる…庭に杭三本を組んでカギを下げ、それに大きな鍋を架けて火を焚き昨年収穫した大豆を茹でる訳だが、その前の日から豆を水に漬けてふやかし置く必要がある…

 ですから味噌煮は日取りを決めて取り掛かる大仕事なのでバッチャ(叔母)も手伝いに来ていた…

 茹で上がった大豆を粉砕機に入れハンドルを回すとニュル・ニュルとうどんのように茹でた豆が出てきた…それに麹と塩をある比率で調合して振りかけ、こねながら空気が入らなように丸めて味噌玉をいくつも作って行く…当時はまだ尺貫法が日常使われていて、麹一升に塩いくらの割合がその家のお味噌の味を決めることになる…家の味噌樽はお風呂にできるほどの大きさで一年分のお味噌を仕込んでいた…その樽に味噌玉を隙間なく並べ、手拭を敷いて素足で踏み固め空気を抜いていた…それに中蓋を置いて石の重しをして、麹が発酵するのを待つのです…少しカビが着くこともあったようですが、それを取り除き熟成するのを1年待つと我家のお味噌の出来上がりである…

 村の旧家には二年もの、三年ものなど真っ黒に成熟したお味噌を使っていたが、私は麹がプツプツと浮いてくるようなお味噌汁の方が美味しいと思った…

 あば(母)は、大根、人参、胡瓜などを味噌の中に入れ味噌漬けを仕込んでいたが、これもお味噌の味次第なのです…

 私が子供のころに断片的に見て来た味噌造りの風景を思い出しながら繋ぎ合わせてみたが、もっと大事な工程が欠落しているかも知れない…

 この味噌煮も釜戸と茹で鍋がセットになったものが使われるようになったり、兄貴の時代になるとお味噌屋さんに委託して1年分の味噌を作ってもらうようになった…

 梅雨が明ける頃には雑草も勢いをますので、蒸し暑いなか山の畑の草取りに出かけた…私は大きな草を引き抜き、ばっぱ(祖母)は鍬で小さな草を削りながらサク上げ(作物の根本に土を盛る)をしていた…むんむんと青葉の香る中草取りを終え、帰る時には藪に絡んだ葛の蔓を手繰り寄せて束ね、羊の餌に持ち帰った…

 家で飼っていた羊の毛は秋には毛糸になって戻ってきた…1年上を担任していた姉は『いなばの白兎』で使うセーターを編んでいた…学芸会が終り、その白いセーターを着せてもらった時の暖かさを懐かしく思い出す…

 『十月の末』の嘉ッコ家の山の畑でも春にはこんな作業をしていたに違いない…嘉ッコも善ッコも就学前だから畑仕事の手伝いは出来なかったかも知れないが、私は小学校に入り豆撒きの手伝いをした記憶がある…

 また、嘉ッコのように山道を駆け回って遊んでいたから、何処にどんな石があり、坂道のアマ石(粘土質の石)は雨が降ると滑り易くなるから気を付けた処を知っていたし、いまでもその場所を想像できるのだが、もはや舗装されてしまい確かめようはない…

 さて、嘉ッコが『ダア。』といいながら、両手を挙げて飛び出す場面が出てくるが、私も子供の頃によくやった悪戯である…先回りして藪に身を潜め、あば(母)とばっぱ(祖母)の目の前に『ワア!』と叫んで飛び出すのである。そんな時の大人の反応は二通りで、本当にびっくりして怒り出す大人と驚いたふりをしてニコニコ笑ってくれる大人である…ばっぱ(祖母)は後者だったように思う…

 それから嘉ッコの爺ごぁは大そう飲んべいで、この時も朝になっても帰って来なかったようだが、母方のジサ(祖父)も若い頃は道楽者で町に出かけては飲み歩いていたそうだ…挙句の果てに博打で田畑を失い『釜きゃし(釜戸をひっくり返した=倒産)ジサ(爺)』と言われていたが、年老いてからは物静かで控えめで、若い頃にしでかしてしまった過ちに対して、明け方になると念仏のように繰り返されるばっぱ(母方の祖母)の小言を黙って聞いていた…

それでも、道楽だった魚釣りに孫の私をよく連れて行ってくれたものだ…

 また、嘉ッコが善ッコに爺さまを取り換えっこしようと持ち掛けている時、

「なにしたど。爺ご取っ換ぇるど。それよりもうなのごと山山のへっぴり伯父(おじ)さ呉(け)でやるべが。」 「じさん、許せゆるせ、取っ換ぇなぃはんて、ゆるせ。」嘉ッコは泣きそうになってあやまりました。そこでじいさんは笑って自分も豆を抜きはじめました。

 このくだりも愉快だが、秋田の田舎でも酷い悪戯をしたり、ダダをこねたりすると『山のへっぴり伯父さ呉でやるぞ!』と脅された記憶がある…

 それから採り入れ時期の豆は、嘉ッコや善ッコ家の豆と同じように厚い茶色の外套を着た兵隊さんがサッサッと行進しているように何列も並んでいた…

 それを一株一株引き抜いては根っこの泥を振るい落して行く作業が延延と続けられた…

 私はそれを一ヶ所に集める役割だったが、豆の殻は硬くて素手で触れると痛かったので、気を付けて根本を掴んで運んだ…それでも時々間違えて硬い豆の殻を掴んでしまい痛い思いをしたことを苦々しく思い出す…

 夕方まで収穫した豆の木を束ね木の背負子にくくりつけて背負った…家にはオド(父)が作った木の背負子があったが、一般的には藁で編んだ背中あてが使われていた…右側の写真がネットで検索した背中あてで、お尻に敷いて座れる位長いようだが、私の田舎では背中までの長さでもっと綺麗に編み込んであったように記憶している…しかし、今では軽トラックで物を運ぶようになり昔ながらの『背中当て』は農家にも残っていないかも知れない…

 私には背中当てもなかったので豆の木の束を藁ムシロで包んでもらい、それを背負って山道を下りた…

 み(殻やごみを煽りながら飛ばす道具)
 み(殻やごみを煽りながら飛ばす道具)

 畑から収穫したばかりの豆は、まだ乾燥していないので軒下の雪囲いの横棒に豆の木の束を掛け、豆が爆ぜるまで干しておいた…

 それから庭にムシロを敷いて豆の枝をハゼ棒(二股の棒)で叩いて豆を殻からはじき出した…

 今度はムシロに溜った豆を「み」に移し、「み」を煽りながら殻やごみを風で飛ばすのです…それから虫食いの豆をはじき出し、それを『かます』か南京袋に入れる作業を続けるのである… 何とも手間のかかる最終工程だ。

 その袋をハノエ(囲炉裏の部屋の天井に横木を渡した倉庫)に持ちあげて一冬乾燥させるのですが、これが家鼠のターゲットになってしまうので、猫を飼ったり、鼠取りを仕掛けていた…それでも鼠の開けた穴から豆がこぼれてくることもあった…

 また、乾いた豆の木でお風呂を沸かした…ガチャポンで井戸から水を大きなバケツに汲み、何度も風呂まで運んだ。それから風呂釜から灰汁をかき出し、火を燃し点けた…豆の木は直ぐに燃え尽きるので風呂釜の前に座り込んで風呂を沸かした…今どきの母親は、火事になるかも知れないような、こんな危ない仕事を子供で任すはずはあるまいが…

 こうして土で育った豆の木を燃して灰ににし、その灰をまた土に撒いてあげて一巡する訳です…

 おそらく嘉ッコや善ッコの家でも、こんな風にして豆を収穫していたのだろう思うと『十月の末』を懐かしい気持ちで読むことができた…

 今では大豆の殆どを輸入に頼り、味噌を造るための大豆も栽培しなくなったのではないかと思いながら、昔のことを書き残して置こう思った…

 

 今回の『賢治と歩む会』終了後の反省会は先生と私の二人だけだったが、『水仙月の四月』の朗読劇を演ずる原田さんが萩原先生にお尋ねしたいことがあるからと遅れてやってきた…先生と私はすでに生ビールを呑み始めていたが、原田さんはコーヒーとケーキを頼むと早速本に貼った付箋をくくりながら熱心に質問されていた…私はその様子を眺めながら、黙ってビールを呑んだ…

 原田さんが帰られてから先生は『東北の方言はイントネーションが難しいからね~』と呟かれた…確かに同じ発音でもイントネーションによって違った意味に伝わることがあるなあと思いながら、4月からBS3で再放送されている『おしん』を思い出していた…『おしん』は山形弁ですが、兄嫁が庄内生まれなので庄内弁には馴染みがあった…秋田に嫁いできた当初、裏の家のおばあさんに『あらくなってくださいね。』と挨拶したところ、大いに憤慨されたという…義姉は『お元気で過ごしてくださね!』という意味の挨拶をしたつもりだったと言うが、秋田では『荒げる』は酔っぱらって暴れる時などに使われるので、その意味と取り違えようであった…

 映画やドラマに色んな方言が使われるが、『おしん』に登場する酒田の米問屋の大女将役の長岡輝子の東北弁のイントネーションや東北弁独特の鼻濁音が一番本物に近いと思って観ている…最も長岡輝子は岩手の遠野の出身だというから、すごく当然のことかも知れない…

 それから暫くの間、私の友人・鈴木守氏の著書に関するお話などもされ、9月に行われる賢治学会の『賢治祭』に参加する予定だと話されていた…

 

 4月20日に行われた『第19回 賢治と歩む会』から随分と時間が経ってしまったので、その記憶も薄れかけてきた…憶え違いもあるかも知れないが一応ブログにまとめてみた…勘違いがございましたらご容赦ください。

令和元年8月2日 小 南  毅

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コメント: 3
  • #1

    ayako (金曜日, 02 8月 2019 22:22)

    暑いのによくやっていますね。私は作品展の準備をしなければならないのに、読書に走ってさぼっています。反省して明日から頑張ります。きずかせていただきありがとうございます。

  • #2

    湘南Boys・Watta (土曜日, 03 8月 2019 01:21)

    いつもながら 最後まで読むのは大変だ
    今年も 熊谷は暑いね �では水分補給になりませんヨ
    おたがいに 熱中症に気を付けましょう

  • #3

    あすなろ (月曜日, 05 8月 2019 09:38)

    賢治さんの作品に「10月の末」とゆう作品があるのですか。初めて知りました。農作業のことが綴られているのでしょうか?
    私の持っている全集の中にその作品はあるかしら。
    ブログの文と童話がごっちゃになって、不思議な感じです。
    東北の人の方言は確かにこを付けますね、お茶をお茶っコといつたり、相手に事をおめえ様と言ったり丁寧なのか乱暴なのか、解らなくて笑っちゃいます。
    暑い中良く頑張りますね。