第21回 賢治と歩む会 2020.6.30

「鹿踊りのはじまり」紙上での開催

 今年に入って新型コロナウイルスの感染が中国の武漢から始まり、その感染が拡大し、ついに日本にも上陸してきた・・・次第に外出自粛が叫ばれるようになり、2月29日に予定されていた「賢治と歩む会」も中止となってしまった・・・

 しかし、4月に入ってコロナ感染拡大の勢いは衰えことはなく4月7日に「緊急事態宣言」が発信された。そして5月28日に「賢治と歩む会」の号外が発行され「新たな形での勉強会」が提案された・・・

新たな形での勉強会

二〇二〇年二月二十九日に開催されるはずであった勉強会。あれから三ヶ月の月日が流れました。できれば皆さんと顔を合わせて語り合いの場を持ちたいのですが、まだ安全性の面で勉強会を開催することは難しいと考えます。しかし、「賢治と歩む会」の勉強会開催を待つことから一歩あゆみを進めることが大切ではないかと考えるようになりました。

今回の新型コロナウイルスによりさまざまな問題が浮き彫りになっています。この問題を考えるうえで「賢治と歩む会」で学んできたこと、皆さんと語り合ってきたことなどがベースとなり、自分の感性を磨いたり、考えを深めたり、行動を選択したりすることにつながっていると感じています。改めて、「賢治と歩む会」の存在の大きさに気づかされる日々です。そこで、萩原先生とも話し合い、新たな形での勉強会を提案することにしました。

萩原先生からは、皆さんに次回の作品『鹿踊りのはじまり』についての感想など八〇〇字~一〇〇〇字でまとめていただくのはどうかと提案をいただきました。可能な方は、書いていただければ幸いです。

「鹿踊りのはじまり」 背景        小南 毅

 この物語は、嘉十が湯治に行く場面から始まる。私の田舎でも秋の収穫を終えた農家では、春からの農作業の疲れを癒すために米、味噌、鍋を背負って湯元へ出かけていた。そこには貸出用の七輪が並んでいて、小分けした木炭も売られていた。嘉十は小屋を掛けて湯治をするようだが、花巻近くの大澤温泉には今でも湯治客用の部屋があった。もっとも七輪ではなく十円玉を入れてガスコンロを使って自炊していた。そんなことを思い出しながら読み進んだ。

嘉十が出くわした鹿たちの会話は方言で書かれていたが、南部特有の言い回しを除けば、子供の頃に話していた言葉と同じで、そのニュアンスも伝わってきて物語に引き込まれていった。そればかりか、若い鹿たちの振舞いを見ている内に、子供の頃の体験が思い出されますます臨場感が湧いて来た。

    秋田県湯沢市皆瀬字板戸の風景
    秋田県湯沢市皆瀬字板戸の風景

 小学校の頃は、学校が終ると家にカバンを放り出し、いつもの場所で待ち合わせ、仲間と連れ立って山に葡萄やアケビを採りに行った。木によじ登ったりしながら山の中を歩き廻り、お日さまが西に傾いた頃には山道を下った。ある日、道脇の薄暗い藪の根本に獣のようなものがうずくまっていた。みんなで反対側の小径を駆け抜けたが、少年たちの好奇心はそのままにはしておかなかった。暫く行ったところで立ち止まり、輪になってヒソヒソ相談を始めた。

     はんのき(榛の木)の実
     はんのき(榛の木)の実

 その中にモヘショイ(おだてに乗る奴)がいて、短い棒切れを手にあと一歩の所まで近づいて行ったが、棒で触ることなく引き返してまった。そいつの話を聴いてから、「こんだぁ、おみゃえげ(今度はお前が行ってこい)」などと言い合った末に、少しミノゴナシ(度胸のない情けない奴)が棒切れを手に近づいた。その得体の知れぬものが、ぴっくりと動いたらしくびっくりして飛びあがった。それを見ていた悪ガキどもは、一斉に走りだした。それでもまた戻ってきてヒソヒソ相談を始めた。こんなことを何度か繰り返している内に下に見える村の家々に灯りが点り始めた。とうとう諦めのか、てんでに家に帰って行った。

 暫く経ってから、近所の木こりが山仕事からの帰り道で毛皮の尻当てを無くしたという話しを聞いた。

 この物語でも鹿たちが勇気を出して手拭に近づいて行く様子が事細かく描写されていた。更に鹿たちが栃だんごを食べる順番でも「いちばんはじめに手拭に進んだ鹿から、一口ずつ団子をたべ、六疋めの鹿は、やっと豆粒のくらいをたべただけだ」と仲間内の暗黙ルールが守られていた。子供仲間で遊びのルールを覆すことができるのは、ガキ大将にだけ与えられた特権であることを私は知っている・・・

 それでは賢治はこんなことをいつ体験したのだろうか。賢治の実家は質屋をしながら古着を扱い、子供の頃は裕福な家に育ったようだが、近所の子供たちからは疎まれ仲間外れにされていたようだ。そんな賢治は一人で河原の小石を収集したり、星座版を手に屋根に上り夜空を眺めて楽しんだりと一人遊びが多かったようだ。

 しかし賢治は盛岡高等農林に進み、研究室の関豊太郎博士の指導を受けながら、岩手県南のあちこちに宿泊しながら地質調査をして廻った。そんな折りに野生の鹿とも出くわしたかも知れないし、村々で子供の遊びも見てきたであろう。そんな中に私が子供の頃に体験したような場面を目にして、この「鹿踊りのはじまり」という物語の構想が固まって行ったのではないだろうか。それにしても嘉十の眼を通して描き出された六匹の鹿の仕草や好奇心に突き動かされる心の動きまでが、現実のことのように迫ってきた。こんなにも自然の草や木や動物や人間が、その境目を感じさせることなしに物語に登場させることができるのであろうか・・・

 賢治はその答えを明かしてはくれない。

 でも物語を締めくくる一節にある「そうそう、苔こけの野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。」を信じた方が、ロマンチックで夢のある余韻を残してくれますよね・・・

 

賢治とスペイン風邪(妹トシの看病)-「たまむし日記」参照

 6月11日に届いたアベノマスク
 6月11日に届いたアベノマスク

2020年5月25日<コロナ巣籠クッキングー46  こなん亭 鶏むね肉とトマト煮>

 25日に特定警戒5都道県の緊急事態宣言も全面解除されたが・・・

・ウイルスをアベノマスクで防げとふ

   全面解除さるるも手元に届かず

 まだ不安も残るが、とにかくほっとした・・・今後は『新しい生活様式』で暮して欲しいとのことだが、私のような高齢者には『新しい日常』に馴染んでゆけるのだろうか・・・そんな我々に『マスク警察』などの『自粛警察』という同調圧力の眼が向けられたら、この年になって窮屈な余生を送ることになる・・・ 

 NHK NEWS9でインタビューを受けた京大学長の人類学者、霊長類学者・山極 壽一氏は、『これまで人類は、人々が集まり幾多の危機を乗り越えてきた・・・』と語り、宣言解除後には『お互いの寛容力』が大切になると付け加えられた・・・

 緊急事態宣言の4月8日から始めた『コロナ巣籠クッキング』も解除になったので、この46回を最終回とした・・・その後「気まぐれクッキング」を再開・・・

こんな暮らしの中、NHK BS3で『100年前のスペイン風邪』に関するドキュメンタリーがありった・・・その中で司会の磯田道史(国際日本文化センター准教授)が、宮沢賢治は科学者で、その時のインフルエンザ感染予防の対応を書き残していると話していたことが気になり、関連記事をネットで検索してみました・・・その結果、興味深い記事がブログ「たまむし日記」に見つかったので紹介します。

  東京帝国大学医科大学付属医院小石川分院
  東京帝国大学医科大学付属医院小石川分院

「たまむし日記」参照

なぜ賢治は、チフス(感染症)にこだわったのか。もちろん自身にも、感染の疑いが持ち上がったことがある。しかし、さらにその理由を求めるとするならば、大正七年の十二月二十六日から、翌年三月三日まで、東京で発熱した妹トシを看病した経験が大きいだろう。

 日本女子大に在学中だったトシは、十二月二十日から東京帝国大学医科大学付属医院小石川分院に入院した。

   雑司ヶ谷の雲台館
   雑司ヶ谷の雲台館

 賢治と母イチは、雑司ヶ谷の雲台館に宿をとりながら、トシの看病に当たった。

 トシの病は、年譜などには「チフスに類する熱型の病状」と簡単に記されることが多いが、賢治が看病に当たってからは、詳細な報告を父あての書簡に記述している。

 賢治の書簡よるとトシの病は、十二月二十九日には確かに、「チフス菌は検出せられざりしも熱型によれば全くチブスなり」と主治医より告げられている。

  しかし明けて一月四日の書簡によれば、血液検査の結果チフスの反応はなく、「先は腸チブスに非る事は明に相成り候。 依って熱の来る所は割合に頑固なる(医師は悪性なると申し候へども単に治療に長時を要する意味に御座候)インフルエンザ」と、インフルエンザという病名が現れている。

 この書簡では、インフルエンザのほか、肺に軽い異常が見られることをつけ加えたうえ、「今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候由」

 とあるほか、つぎのような但し書きを添えている。

 

「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剝(えんぼつ/塩素酸カリウムの俗称)にて咽喉を洗ひ候」

 

 さらに一月八日のはがきによると、「尚主治医にも相尋ね候処、矢張主なる病気はインフルエンザにて他に肺の一部心臓等弱り居る為熱の降る事余りはかばかしからぬものなる由に御座候」

※「はかばかし」の「ばか」は「〲」で表記。 と記されている。 

 賢治の書簡を読む限り、結局のところ妹トシの病はインフルエンザとするのが妥当であろう。

 大正七(1918)年と言えば、俗に「すぺいん風邪」と呼ばれるA型インフルエンザが、世界的大流行パンデミックを起こした年である。※スペインは発生地ではなく、また、現在では感染症名に地名など特定の呼称を入れるべきではないというガイドラインがあるが、ここでは便宜的に使用する。

  賢治の父・政次郎
  賢治の父・政次郎

 父あての一月二十四日づけの書簡によれば、

「病院にはインフルエンザの後この様にずるずるの病人数人有之前のトシ子の同室の患者中三人はこの類に御座候」

※「ずるずる」の後の「ずる」は「〲」で表記。

 と、インフルエンザで入院している患者がほかにもいることを記している。

 

 日本でも、多くの犠牲者を出したインフルエンザの流行であったが、賢治はトシの入院を機に、その治療の現場を見たことになる。 

  賢治と妹・トシの子供の頃
  賢治と妹・トシの子供の頃

その際、賢治が気をつけていたことは、くり返しになるがあえて言うと、「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剝にて咽喉を洗ひ候」 である。

 現在では、うがいの効果はあまりないとされているようだが、ここを、「手洗い」に変えれば、昨今の新型コロナウイルス対策にも当てはまるのではないか。

 感染が疑われる人混みに出かけたら、着衣を室内に持ちこまないよう、室内着に着替え、手を洗う。ささやかではあるが、個々人のレベルでできる対策を怠らないことは大切であろう。

 トシが療養した宮沢家の別荘
 トシが療養した宮沢家の別荘

 また賢治は、父にトシの病状を伝えるとき、「悪性」を「割合に頑固」などと言い換え、必要以上に留守家族の不安を増大させないよう努めてもいる。

 不安の増大は、このような状況下では最も恐ろしいことで、デマや差別の原因にさえなることは、いま我々が目の当たりにしているとおりである。

 賢治に習い、より確実な言葉を選んでゆきたいものだ。

  なお、大正七~八年のインフルエンザ流行時、病原体は不明とされていたそうで、インフルエンザウイルスの病原性が証明されたのは1933年だという。 賢治の亡くなる年である。

 

  賢治は生前、インフルエンザの病原体がウイルスであることを知ったのだろうか。

  

(号外寄稿文)    「賢治の病気」      萩原 昌好

 賢治の生涯を辿ると、結構病気をしていることに気づく。まず、六歳の時の赤痢が年譜を見ると出てくるであろう。この時看病した政次郎も罹病して後々まで語ったというから、賢治も負目を感じていたということである。

 次は盛岡中学校を卒業して鼻厚性鼻炎の手術を受けるのだが、高熱を発して疑似チフスの疑いをかけられ隔離されてしまう。鼻炎からチフスへというのは不可解で、納得できないでいるが、多分この時に既に結核の症状が出ていたのではないかと思う。在学中に侵されたのであろうか肋膜炎ではないだろうか。隔離する名目としてチフスということにしたのではないかと疑っている。それよりも重要なのは初恋をしたということだ。手帳にもersteliebe(エルステ リーベ・最初の愛する人)とあり、短歌にもその時の心情が詠じられているので、誰かはともかく、看護師の一人に恋したのである。賢治は結婚まで考えたというが、それは無理だ。まだ一八歳で、継がねばならない家業の方も全く関心がない。もしかすると駄々をこねて父親を困らせようとしたのかも知れない。

けれど半ばノイローゼになってしまった彼を救ったのも父親である。当時戸主だったのは祖父の嘉助だが、説得して盛岡高等農林へ進学するのを許したのである。現金なもので、盛中では成績が中の下位だったろうが、盛岡高農では首席入学。以後首席を他に譲ることはなかった。高農で注目すべきは何といっても生涯を決定づける事になった農芸化学であり、恩師関豊太郎教授であるが、もう一つ島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』がある。これらに言及できなくて残念だが、賢治の病気に戻る。

 当時大流行したスペイン風邪の影響も少なからずあるかもしれないが、大正七(一九一八)年六月、賢治二二歳の時、風邪から肋膜炎再発。これは賢治にとってもショックだったろう。友人の河本義行の保阪嘉内宛の葉書には「宮沢氏は肋膜にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと。云々」と記す。そしてその通りになったのである。彼は研究生であったが、辞めたのはその故かも知れない。肋膜炎は、初期なら治るが、ある程度まで進行してしまうと結核となって死に到る。賢治が花巻農学校の教諭となった時代は快方に向かっていたようだが、結局は結核という病魔からは逃れられなかったのだ。いつの事か明確ではないが、花巻農学校の教師を辞めた最大の理由は、自己の結核の度合いを自覚したからだと思っている。即ち羅須地人協会設立の為に、別宅に移って独居したのである。その点については、種々の問題があり稿を改めたいと思っている。

 

 ともあれ、賢治に限らず文学者が結核に倒れる例は多い。多くは不摂生からのものが多いが、生来病の為ということもあろう。私は新美南吉・立原道造だけでも、もっと長生きして貰いたかったと馬齢を重ねた今つくづくと思うのである。

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コメント: 2
  • #1

    にじ (月曜日, 13 7月 2020 18:55)

    こうして書いておくと、ちゃんと記録になり、共有もでき、すばらしいです。
    こんな時こそ、学びの時間。これからもまた色々発信してください。わたしは気仙沼で、桜を植えに行ったときにはじめて、鹿踊りをみました。三年前かな。素朴ですが、感動しました。

  • #2

    湘南Boys・Watta (火曜日, 14 7月 2020 06:19)

    小南さん
    いつもながら 感心して読ませていただきました