『毒もみのすきな署長さん』と『種山ヶ原』
最近、コロナ感染防止にまつわる規制緩和が進められていますが、まだまだコロナ以前のマスクなしでの日常生活には戻れないのでしょうね…
「毒もみのすきな署長さん」
まず、劇団シナトラの原田さんに『毒もみのすきな署長さん』を朗読していただいた…流石に説得力があり、私は白内障の視力で文字を辿るよりもずーと理解が深まった…
原田さんは小学生にも読み聞かせの授業をやっているそうです…この物語の終盤で死刑に決まってしまった署長さんは、あの世に行っても『毒もみをやりたい』と応えたが、生徒の皆さんは『あの世に行ってもやりたいことは何ですか?』と問いかけていると云う……
朗読を終えた原田さんは『皆さんは如何でしょうか』と問いを投げかけた…
私は子供ころの体験を話した…
秋田の田舎の方では「あめ流し」と呼ばれいていた。ある日川で水浴びをしていた時に、突然川上の方から白い腹を上にして、口をパクパクさせながら流れてきた川魚を沢山捕まえたことあった。その時にサッテ網(たも網)を持って行けばもっと沢山捕まえられたのにと悔しい思いをしたことを覚えている。
いっとき、やったのは『どこそこのだれだれではないか…』との噂はたつものの署長さんのように現行犯で捕まることはなかったようだ…
私も『風の又三郎の佐太郎』と同じ4年生の頃、同級生のT君と二人だけで「毒もみ(あめ流し)」をやったことがある。やはり悪いことだという自覚はあったようで、山裾を流れる小さな沢へ出かけT君が持ってきた「毒草」を石の上で叩き草の汁を流したが、魚(カジカ)は一匹も浮いてこなかった。けれども、この時は二人だけだったので、佐太郎のように大恥をかくことはなかった。二人は黙ってお互いの顔を見ながら、その場に立って居た。暫くして、二人は沢の中に入り石を起こしてカジカが居るかどうかを確かめた。するとカジカは何時と変らず川底にへばりつくようにしていた。T君が石で叩き潰した「毒草」の汁は、大した効き目もなかったのだ。二人は「毒もみ」を諦めて、ガラスの欠片で川底を覗きながら針ヤスでカジカを突いた。人があまり入らない沢だったので大きなカジカが捕れたのを覚えている。
私は、こんな体験談の後『あの世に行ってもやりたいことは何ですか?』と問いかけには『あの世でも好きなスキーで汗を流し、ビールでも呑みたい…』とあんちょくに応えてしまった…もう年老いて現実には足腰が弱ってきて好きなスキーも思うようには滑れなくなってきたからでしょうかね…
皆さんは、『これまで打ち込んできたボランティア活動』だとか『旅行や読書』などと生きがいに通じるものでした…
最後に萩原先生が、この作品の背景について解説してくださった…賢治は川口慧海の『チベット旅行記』を読んで、この物語の背景を設定したという…
『四つのつめたい谷川が、カラコン山の氷河から出て、ごうごう白い泡あわをはいて、プハラの国にはいるのでした。』
また、その国の第一条(法律)の
「火薬を使って鳥をとってはなりません、
毒もみをして魚をとってはなりません。」
は明治時代に制定された『禁止条例』から引用していると、萩原先生が長年調査・研究の引き出しから引っ張りだして解説してくださった…
どんな賢治作品でもそうでしたが、今更ながら先生の奥深い知識に感銘させられると同時に賢治についての理解を深めさせていただいております…
「種山ヶ原」
私は「種山ヶ原」には行ったことはないが、賢治は「種山ヶ原」の物語中で
『放牧される四月よつきの間も、半分ぐらゐまでは原は霧や雲に鎖とざされます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気しっきのお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。』と紹介しイーハトーブに「種山ヶ原」の場所をイメージさせてくれる…
そして達二が「種山ヶ原」で道に迷った時に、
『風が来ると、芒すすきの穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙せはしく振って、
「あ、西さん、あ、東さん。あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云ってゐる様でした。』とその情景を語っている…
子供の頃、茅刈りの手伝いに行ったとき、時折風が吹いてきて、子供の背丈より高い芒があっちへこっちへと風になびく、こんな情景を見たのを思い出した…
この写真では牛が放牧されているようですが、「種山ヶ原」では馬が放牧されていたようですね…
学生の頃、友達をつれて秋田と岩手の境にある焼石岳を越えて東成瀬に嫁いだ姉のところ行ったことがる…その時キシリングに括り付けあったピッケルを見て『焼石岳は雷の多い処なのに何もなくてよかったね~』と言われたのを覚えている…
その焼石岳の高原は「種山ヶ原」と類似の気候だったのでしょうか、焼石岳の高原でも夏の間に牛が放牧されていて親戚の獣医(定志)さんが、通いで面倒をみていたようです…勿論、獣医さんとして…
「賢治と歩む会」の2週間ほど前に代表の瀧田さんから電話があり、「種山ヶ原」には方言が多くでてくるので東北出身の私に少し解説して欲しいとのお話があった…私も関東に出てきてからの方が、田舎で過ごしたよりも随分と長くなるけど、そのニュアンスは分かるような気がしていたが…
でも、皆さんに紹介するのだから確認してみようと思った。そこで高校の同級生・根本俊夫さんが編集した「湯沢・雄勝弁あれこれ」で調べてみたら、「種山ヶ原」での使われ方とほぼ同じ範例があったので安堵した…
また、大学の同期で高校の教師退職後は花巻で賢治研究を続けている鈴木守さんが送ってくれた「花巻ことば集」でも確認してみたが、湯沢・雄勝弁とほとんど同じ発音で記載されていた…
大変役立たせていただき、両氏には感謝しております。
この物語に登場する三つの夢のお話の中で「山男」がでてくる節では、秋田弁とは全く異なる「南部弁」があった…
それはこんなやり取りの場面だ・・・
「どうか御免御免。何じょなことでも為さんす。」
「うん。そんだら許してやる。蟹を百疋捕って来こ。」
「ふう。蟹を百疋。それ丈(だけ)でようがすかな。」
「それがら兎を百疋捕って来こ。」
「ふう。殺して来てもようがすか。」
「うんにゃ。わがんなぃ。生ぎだのだ。」
耳から入ってくる方言をそのまま表記すると難解になるので、賢治はこのように漢字を交えて意味が通るようにしているようにしていると思われます…
私は盛岡でのアルバイトで家庭教師を4年間続けた…「種山ヶ原」の南部弁は、その時に接した地元の人々の言い回しだった…
その南部弁でも普通の言い方と上品な言い回しの方言があることを知った…秋田弁でも「ジャッチャ(奥様)」と呼ばれる方々と「あば(かあちゃん)」と呼ばれる人々の話し方に違いがあるのと同様だと思った…方言にも丁寧語があるようです…
花巻に何度も足を運んで地元の人々と会話してきた萩原先生も階層によって同じ意味合いの方言も異なってきますと付け加えてくださった
「風の又三郎」は、前作の「風野又三郎」をもとに、村の子供たちを描いた「種山ヶ原」、「さいかち淵」をが挿話として取り入れられた作品ですと萩原先生は話し始めた…
確かに「種山ヶ原」の登場人物も名前も異なるが、「風の又三郎」と同じような場面が出てくるので、初めての作品とは思われなかった…
賢治は地質調査で何度も種山ヶ原を訪れており、岩石や地形などの描写は実に現実的であると萩原先生の体験談も語ってくださった…
いつもは勉強会終了後に先生との懇親会があり、更に詳しいお話をお伺いできるのが楽しみでしたが、先生が足にお怪我をなさったとかで取り止めになってしまいました…
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