3月27日は朝から元佐川長官の証人喚問を見ていた…そして午後の国会中継も見た。
あの「刑事訴追の恐れがありますので…」という決まり文句を繰り返し聞くことになった…何ともモヤモヤした気持ちで苛立っていたのであろう…勤めから帰った息子のちょっとしたコメントに腹を立ててしまった。
すると息子を帰りがけにスマホで撮った桜並木の動画を見せながら、もう桜が満開だから桜でも観に行ってきたらと勧めてくれた。
3月28日午前中に買い物を済ませ、ワンカップとカメラをバックに入れて自転車で出かけた…自宅から200m位が荒川土手の花見処がある…
土手の登り口に自転車を止め、桜を見ながら花見客で賑わって方へと歩いて行った…
土手下の車道の両側には、所狭しと露店が並んでいた…私は目指す物を探して雑踏の中に入った…それは東松山の名物「カシラと呼ばれる焼き鳥」で、辛子味噌で食べると旨い。
こいつを食べながらワンカップを呑もうという算段なのだが、カシラを扱っている焼き鳥やが中々見つからないのだ…
古びた居酒屋の暖簾を吊るした屋台があった…客が列をなしていたので覗いてみると、確かにカシラと書かれた札が貼られていた。
焼き鳥は次々と焼かれ、客に手渡されて行ったが、カシラを3本ねぎま1本を頼んだら更に焼けるまで5分ほど待つことになった。 やっとゲットした焼き鳥の袋をぶら下げて菜の花の隙間に陣取った…そこに腰を下ろし、ワンカップを開けた。辛子味噌を付けたカシラを食みながらのお酒は実に旨いが、独り花見は侘しかった…誰か気の好い仲間がいたらもっと旨かったろうと…
黙々とワンカップを二つ呑み終え、好い気分になったところで、満開の桜を見ながら写真を撮り、ブログにアップして仲間に見せて上げようと歩き出した…
まずは、お花見で人々が集まってくる荒川公園周辺を紹介しょう…
この公園は熊谷駅南口から真っすぐに熊谷市立図書館に向かって300m位の所にあり、子供が小さいころによくやってきた公園である。この公園には遊具のほかにSLだの慰霊碑がある…
<荒川堤櫻>
<蒸気機関車Ð51>
<大戦の慰霊碑>
この荒川大橋を渡り、緩いカーブを下った一つ目の信号の所が我家であるが、大橋は全長846mとかなり長いので、徒歩や自転車で渡ったことはない…渋滞すると逃場がない。
以前はこれほど川幅も広くなかったが、何度となく河川の氾濫を繰り返し現在のようになったようだ。昔は橋の上から川に飛び込んで遊んだものだと地元の人から聞いたことがある…
<荒川大橋下流側>
<大橋(東松山へ)>
<荒川大橋上流側>
荒川は一級河川なので建設省が設置した標識に河口までの距離が示されている。その標識によると、この荒川大橋は東京湾から約76.4キロ程の所にあり、その上流側と下流側の荒川土手には桜並木が続き、両方合わせると全長4キロもの桜並木が続く…今日28日、家に帰ってからスマホの万歩計を見ると6,331歩で3.2キロとあった…桜を見ながら写真を撮るために3.2キロ歩いた事になる。私が土手を散歩しながら写した写真をスライドショウにしてみた。
ただ、ここでの写真は小さいので「荒川土手の桜」をDVDに編集してYouTubeにアップしましたので、こちらもご覧ください。
<荒川大橋下流側の桜>
<荒川大橋上流側の桜>
この写真中央の遠方に微かに煙突が見える…ここから8キロ程先にある太平洋セメント(旧秩父セメント熊谷工場)の煙突で約150mの高さだという…
この煙突の立つ所が、50年前に初めて勤務した工場である。
これを見ると当時最新鋭と言われた
コンピュータIBM1800のプログラミングに懸命に取り組んでいたころが懐かしく思い出される…
< 熊谷さくら >
この石上寺も直線距離だと我家から200m位のところだが、高崎線の陸橋の下にあり初めてやって来た。
ただ、早咲きの熊谷桜を毎年目にしてきた…熊谷桜は赤みを帯びた花で、早咲きなので桃の花かと思うひともいるようだ…
このお寺は荒川の氾濫のために犠牲になった人々の霊を慰めるために昔々に建立されと聞いたことがある…
今、荒川土手のソメイヨシノが満開の時期を迎えているが、この熊谷桜の盛りは過ぎ、葉桜になり始めているようだ。
碑には熊谷桜産土(うぶすな)と刻まれており、古くからこの地に熊谷桜が植えられ育てられてきたようだ…そして右側には、熊谷次郎直実の孫直宗六代裔と刻まれていた。
案内板によると江戸期より熊谷桜の栽培地であったという…源平合戦で若武者・敦盛を打ち果たした直実は心をいため、出家して逆さ馬に乗って熊谷に帰った来たという。
その6代目の直宗が熊谷桜に関わっていたとは、大いなるロマンを感じるではなか…
この案内板によると、熊谷桜の先駆け(早咲き)と源平合戦における直実公の先駆けが掛詞になっていると解説されていた…また、歌舞伎・文楽の「熊谷陣屋、熊谷桜の段」に語られる敦盛公の最後と直実公の懺悔の物語は、、事実とフィクションを織り交ぜながらの抒情詩の終焉の地が熊谷であったのかと想いを巡らせる「熊谷桜」なのでしょう…
更に敦盛公を詠んだ句も刻まれていた…
南面の 嫩春ゞ(すず)しや 花の雪
この句に「南面の嫩…敦盛公 嫩(どん、のん=若い)」、「すずし…未練がましくない、潔い」と注が記載されていた…
ネットで調べてみると、石上寺は、寛文11年(1671)僧榮光が創建しました。開基は、僧榮光の父で当所(熊谷町)の名主竹井新左衛門信武と記されています。
この武井氏の子孫は旧秩父セメントにお勤めで、板橋の社宅で住まいの頃ご一緒でした。
武井さんは気さくに声を掛けてくれたが、いつも穏やかで、どことなく育ちの良さを感じさせる方でした…
また、石上寺からほど近い所に熊谷市立の星渓園は、武井氏のお住まいだったとも聞いたことがある…
そこには熊谷草が生息していて、絵手紙をやっていた家内が写生に行った時に私も見たことがある。
その熊谷草は、星渓園隅の木立根元の湿った土に生息していた。その薄紫の花は騎乗武者・直実公の幌に似ているように見える…
でも、この慎ましやかな花を咲かせる熊谷草は、今では絶えてしまって星渓園で見ることが出来ないと噂に聞いた…
石上寺の鐘楼の周りには、若い熊谷桜が育っているが、もう花の盛りは過ぎていた…
この鐘楼あたりは、昔々荒川土手であったという話を聞いたことがある。そして水害などの災害時には、避難の合図として、この鐘楼が打ち鳴らされてと言い伝られている…
真偽のほどは知れねど…
この石上寺境内の右側に、あんまりそぐわないとも感じられる外人の銅像があった…
そこで案内板の写真を同期の飛世さんから教わったスマホ・ソフト「文字スキャン」で変換を試みた…文字変換は完璧だった。
少し残念なのは、AIが考え過ぎたようで文節の繋がりが原文と異なる結果となった。
エドワード·シルヴェスター·モース博士
(1838.6.18~~1925.12.20)
明治10年6月、米国メイン州ポートランド生まれの動物学者。研究のため来日の折『東京大森貝塚』を発見、後に東京帝国大学の初代動物学教授としてここを発掘調査し、日本動物学考古学の端緒を開いた。
明治12年8月13日、石上寺に来山し寺内の寺子屋(乙中教院)において、英国動物学者ダーウィンの『進化論』を講義、因って当山は外国人科学者講演の『埼玉県初の地』となった。
余話 博士は難解な「進化論」を比喩的に「人間の始祖は猿」と平易に説いた為、明治期の皇国史観の教育を受けた聴講者から「伊邪那岐命の神孫である我が大和民族を愚弄する邪説」と抗議を受けたと言われる。
ご説明は、上記の案内板の通りであるが、何処かを見学したときスマホで写真を撮っておけば、「文字スキャン」で変換にて後日ゆっくり読むことができるのはありがたいことだ…
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あすなろ (土曜日, 31 3月 2018 23:20)
熊谷堤の桜は「ヒルナンデス」のテレビ番組で関東の桜の名所1番に選ばれれたとか、2位は東京の六義園、あの有名な幸手の権現堂を本当に抜いたのかしら?菜の花と桜の雄大なコントラストが見事と報じたそうです。あるビールのコマーシャルにも熊谷堤の写真がつかわれているそう。今年は県外から訪れた車が多く渋滞したそうですね。熊谷の桜が有名になりますように。
佐川氏の証言には呆気にとられました。与党、皆が声をあわせ潔白だと主張するのもこの人たちジャガイモかと思っちゃいます。いつの間にか道徳教育とかカジノとか決めてしまうのもこわいです。