「賢治 秩父路の旅」を訪ねて 2018.5.5

 街燈の下に「梅乃屋」のプレート
 街燈の下に「梅乃屋」のプレート

 連休の終わりに特に当てもなく車に乗り出かけた…どこへ行っても混んでいるだろうから寄居近くの川の公園でも行ってみようと言って車を走らせた…

 今頃は秩父の羊山公園の芝桜が盛りで秩父街道は混んでいるはずなのだが、10時を過ぎていたのでそれほどでもなかった…

 その内に私が小鹿野まで行ってみようかと言うと、ハンドルを握っていた息子が直ぐ同意してくれた…

 実は、8月末に花巻の鈴木さんと萩原先生をご案内する計画があったので、予めルートを確かめておくのも好いと思いついた。

 長瀞を過ぎ親鼻橋を渡らずに赤平川沿いの道路を進んだ…その道を暫く走った所で一服したくなり車を止めてもらった…車を降りて煙草を取り出しながら、道路の反対側に眼をやると偶然にも「梅乃屋」のプレートが目にはいった…あまりにも偶然の発見だったので煙草に火を点けずスマホで写真を撮った。

それから道路をわたり「梅乃屋」のプレートに近寄ってみると広い門構えの家があった…

 「梅乃屋」なのだろうか…
 「梅乃屋」なのだろうか…

 その家の門の外から中を覗いてみると、二階の欄間や窓の並びなど、どうも旅館風の造りに見えた… ひょとすると「梅乃屋」さんだったのかも知れないと思うと、急に心の昂ぶりを感じていた…丁度、ご夫婦で庭の芝生の雑草を抜いていたので、思い切って声を掛けてみた。少し大きな声で「こんにちは…」と声をかけると、ご婦人が帽子のひさしに手をかけながらこちらを振り向き顔を上げた…

 庭のご婦人に声を掛けてみると…
 庭のご婦人に声を掛けてみると…

 ご婦人がこちらの方にやって来たので、「ここは梅乃屋さんでしょうか」と尋ねるとご婦人はにっこりしながら「そうですよ」と言った…

 私は心の中で「やはりそうだったか」と思っていると、ここは金崎「秩父駅」の終点であったと説明してくれた。私はこれまで色んな話を聞いてきたが、どうしてもこの駅の場所を正確に確認できずにいたので、ほっと安堵した気がした。この駅が後に国神駅と改名されたと説明してくれた…

  「梅乃屋」さんの奥様
  「梅乃屋」さんの奥様

 ここ梅乃屋の奥さんは、喜んでお話してくれたので立ち話を続けた…私が夢中になっていて息子が車からLineで電話したらしいが、まったく気が付かぬ程に話が弾んだ…

 私が熊谷の「賢治と歩む会」で萩原先生から教わっているというと、すかさず萩原先生は何度も「梅乃屋」を訪れたとのことで、懐かしそうに「萩原先生はお元気ですか」と尋ねられた…

 私は萩原先生にお渡しするからと言って奥様の写真を撮らせてもらった。

 ここ「梅乃屋」の奥様は、私のような賢治フアンを大歓迎してくれた…家に入ってお茶をどうぞと勧めてくださったので、車へ戻って息子を連れて戻ると奥様は玄関先に立ち待っていてくださった…

 奥様は教師だったとも話しておられたので、奥様ご自身も賢治一行が「梅乃屋」に宿泊しということに誇りを持っていて私のように賢治に興味を持っている人を歓迎してくださったのでしょう… 

 この写真の右手に2間ほどの間口の玄関があった…おそらく「梅乃屋」を営んでいた当時にお客様を迎え入れた玄関の造りが、そのまま残されているのだろうと思った。

 奥様の招きに応じて入ってみると、やはり広い玄関となっており、直ぐに応接スペースとなっていた…今はそこに小さなテーブルとソフアが二つ置かれおり、そこに腰を掛けさせてもらった…

 奥様は台所へ入り、暫くするとお茶を運んでくれた…暑い日だったので喉も乾き、そのお茶は美味しかった。そうこうしている間に今度は「裏の山で採ったウドですよ」と言って、丼一杯のウドの煮物を持ってきてくれた。これを気に入った息子は、美味しい美味しいと言って沢山いただいていた。子供頃は苦手だったウド特有の強い香りがあり、雪解けの春一番の懐かしい香りを思い出させてくれた…

 奥様の話によると、上武鉄道(秩父鉄道)が明治44年9月19日に熊谷から、ここ金崎「秩父駅」まで延長され、その時農家だった家を改造して二階建ての「梅乃屋」の営業を始めたそうだが、当時のまゝですよ奥様が語ってくれた…

 そうなると賢治一行も大正5年9月3日(1916年)にここ「梅乃屋」の玄関にやって来たとうから、そこから102年後の今日(2018年5月5日)、私は同じ場所に立っているのかと思うと感慨深いものがあった…

  保坂康夫ご夫妻の手染めの手拭
  保坂康夫ご夫妻の手染めの手拭

 山ウドをいただきながらお茶を飲んでいると奥様がガラス入りの重い額を持って来てくれた。保坂さんが「梅乃屋」を訪れた時に賢治の親友・保坂嘉内の次男の保坂康夫ご夫妻手の染の手拭を頂いたそうで、その手拭を裁断して額に納めたものだと説明してくれた…

 嘉内は賢治の1年後輩で翌年の大正6年に研修旅行で「梅乃屋」やって来ていたのです…

この手染の手拭には、それぞれ保坂康夫ご夫妻の歌が染められていた。

 

 君も老い吾も棄(すた)れぬ

   八十路超ゆる径

     狭く険し晴れし朝も

 

  保坂 康夫

 1927.5.29 ~ 2016.7.5 (89) 銀河鉄道 

 

 久びさに旅に出る夫

   送り居て空しき心

     青空に吐く

 

    保坂 志津子

         1933.10.24 ~ 2015.3.28 (81) 銀河鉄道

 

 この手染めの手拭に何故「銀河鉄道」と染められたのであろうか…

 嘉内が中学の頃、地球に最接近したハレー彗星をスケッチし、「銀漢ヲ行ク彗星ハ、夜行列車の様ニテ 遥カ虚空ニ消エニケリ」(彗星は、銀河を走る列車のようだ)とも書き加えられている。

 その後盛岡高等農林学校へ進学し自啓寮で嘉内は賢治と同室になる。

そして嘉内のスケッチは後に「銀河鉄道の夜」のモチーフにもなったと言われている…

こうして唯一無二の親友となった賢治と嘉内は、岩手山に登り満天の星空を眺めながら夜通し語り合い、 「人々のほんとうのしあわせのために生きよう」と誓い合ったという。賢治が嘉内に送った手紙は73通も保坂家に残されている…

 最後は「我が友保阪嘉内、われをすてるな」とまでしたためましたが、 その後二人が出会った頃のように、心の友として交流することはもうなかった…

 この別離を通して賢治は、銀河鉄道の夜で「どこまでもどこまでも一緒にいこう」と言葉を交わし合う、 あの、ジョバンニとカムパネルラの友情を描いたのではないだろうかと想いを馳せるのである。

 この額の写真を撮らせてもらっている間に奥様は「秩父の歴史」という本を持って来て見せてくれた…この本には古からの民家で秘蔵されていた写真が沢山納られ、またその地の長老からの聞き取り調査に基づく解説が掲載された極めて信憑性の高い内容で構成されていると思った…

 私が秩父セメントに勤めていた頃、昭和53年の夏から7年ほど秩父の社宅で暮らしたことがあるが、秩父の歴史を深く知るチャンスはなかったので興味深い本であった。

 特に「秩父に学んだ 宮沢 賢治」の章を見させていただいた…そこには「梅乃屋」さんの頁があった。今回は時間がなかったので写真を撮らせてもらった…

 金崎「秩父駅」⇒ 国神駅に改名
 金崎「秩父駅」⇒ 国神駅に改名

< 金崎「秩父駅」:国神駅 > 

 「秩父の玄関」とも言うべき金崎「秩父駅」は、明治44年9月14日に開業された。

 開業に合わせ、駅と畑2枚を挟んだ西側道路上方で、農家を改造した梅乃屋旅館(二階建て)が営業を開始して現在に至っている。

 賢治一行が秩父にやって来る2年前に秩父町まで開通し、大正3年(1914)に大宮に「秩父駅」ができたことにより国神駅と改称された。その後荒川駅と改称された駅で、その頃は大いに栄えていたという。

  金崎「秩父駅」のホーム
  金崎「秩父駅」のホーム

 これは金崎「秩父駅」(国神駅)のホームの写真である…左端に白い煙を吐く蒸気機関車が写っている。ただ全体が定かでないのは残念である。これまで色んな方に尋ねても国神駅の場所を正確には認識できなかった…

 一昨年に「賢治 小鹿野町来訪100周年」のイベントへ向かう電車で、萩原先生に「国神駅」の場所を教えていただいたが、あっと言う間に通り過ぎてしまった…

   ガタ馬車(トテ馬車)
   ガタ馬車(トテ馬車)

 写真のガタ馬車は、ボロの馬車ではないが道をガタガタ走ったのでそう呼ばれた…

 馭者は、出発の合図のほか道の途中でも、テト、テトとラッパを吹き鳴しらして走ったので、ガタ馬車(二頭立て乗合馬車)またはトテ馬車とも呼ばれたという。

 後部から七、八人乗せて金崎から吉田·小鹿野方面、三峰·大宮方面、そして児玉方面に向かい、駅前は大いに活気に充ちていたという…馬車は随時停止し、山越えには重要であり、料金はその都度話し合いで決めていたという。

 「梅乃屋」9月3日賢治一行宿泊
 「梅乃屋」9月3日賢治一行宿泊

< 賢治一行が宿泊した「梅乃屋」 >

  梅乃屋旅館(皆野町金崎·設楽冨士雄氏蔵) 金崎(「秩父駅」)前旅館。駅開業に合わせ営業開始、現在に至る。

 大正5年(1916) 9月3日には、岩手農林高等学校一行(25名学生23名の中には宮沢賢治も含まれていた)が一泊した。

 翌日、賢治一行は三台のガタ馬車に分乗して赤平川沿いに小鹿野町へ向かった…

    「梅乃屋」当時の庭先
    「梅乃屋」当時の庭先

 賢治は、小鹿野町の「寿旅館」に宿泊し親友保阪嘉内宛のハガキ(9月5日小鹿局消印)に書かれた五首の短歌の中に「霧はれぬ分かれて乗れる三台のガタ馬車の屋根は光り行くかな」がある。賢治が一泊した時、創作した短歌を紙に書いて「梅乃屋」の当主に渡していったという…

 現在の「梅乃屋」2018.5.5撮影
 現在の「梅乃屋」2018.5.5撮影

 奥様は、厚く綴られ梅乃屋の宿帳を見たことはあるが、その後物資が豊かではなかった時代に襖の下張りにしていまい、今は残っていないと残念そうに語った…

 また、地質調査の客が多く宿泊した「梅乃屋」には、岩石標本が棚に並べられいたが、それは長瀞の「自然博物館」に寄贈したと話していた。

 私はお礼を述べて小鹿野へ向かうことを告げると奥様は「小鹿野までは4里位で車で30分位でしょう」と教えてくれた。それから「8月末に萩原先生と参りますので、宜しくお願いします。」と挨拶して、車に乗りカーナビに小鹿野町庁舎をセットして走り出した…

 賢治一行が行った道を辿りたいと思い赤平川沿いに走っていたが、途中から山道に入っていった…それでもカーナビに従って進むしかなかった。

 出かける前のイメージでは、小鹿野町庁舎の手前で「ようばけ」が見えてくると感がていたが、そのまま庁舎に到着してしまった…

この辺は、長年にわたり調査してこられた萩原先生に伺うしかないようだが、後でGoogle Map で調べてみると金崎からルート44を進み根古屋集会所の先の信号を左折しルート284を小鹿野へ向かい泉田交差点の一つ手前の信号を左折するルートが「ようばけ」の解り易い道順のようだ…

  小鹿野町庁舎前の賢治の歌碑
  小鹿野町庁舎前の賢治の歌碑

 「梅乃屋」さんで見せて頂いた「秩父の歴史」によると小鹿野町庁舎前の賢治の歌碑の写真に次のようなコメントが添えらていた。

 小鹿野町役場前に建てられた賢治の歌碑。

表には「山峡の 町の土蔵の うすうすと夕もやに暮れわれらもだせり」という賢治の歌が刻まれ、裏面には「小鹿野町と賢治の貴重な出会いの証を永く後世に伝え」とある。

 ここ小鹿野町庁舎前の賢治の歌碑の写真を撮ったりしている内にお昼時になってしまったので、観光案内所の中にいた中学生にお食事処を訊いてみた…するとスマホで検索してくれたが、壁に貼られた大きな地図上でその場所を特定することができなかった…

 そこで車を庁舎前の駐車場に置いたまま、観光交流館まで歩いて行くことにした…

 ところが以外に遠くて暑い中をトボトボと歩いた。観光交流館には二回も行った事があったのに次第に不安になってきたが、信号機の向こうに旧寿旅館が見えてほっとした。

  小鹿野観光交流館(元寿旅館)
  小鹿野観光交流館(元寿旅館)

 賢治一行は9月4日にここ寿旅館に宿泊し、賢治は葉書に5首の短歌をしたため小鹿野郵便局5日の消印で保坂嘉内に送っている。

 寿旅館は平成20年に営業を中止したのを機に小鹿野町が買い取り、観光交流館かとして再スタートすることとなった。その際に寿旅館の荷物を整理する過程で平成23年に当旅館の当主の日記が発見された…

毎日新聞 2011年平成23年8月4日)
毎日新聞 2011年平成23年8月4日)

賢治 小鹿野に宿泊

小鹿野町にあった旅館「寿旅館」(2008年12月に閉館)に、詩人で童話作家の宮沢賢治が95年前に宿泊していたことが分かった。当時の7代目旅館夫、田島さんが1903年から1949年まで書きつづっていた日記を同町が解読し判明した。   【岡崎博】 

 平成29年5月31日に熊谷短歌会の文学散歩で「賢治 秩父路の歌碑」を巡ったが、その時に小鹿野文化センターの山本正実さんに案内していただいた。

 その山本さんが「日記」の第一発見者だと伺い感動したのを思い出した…

大正5年9月4日 寿旅館当主の日誌
大正5年9月4日 寿旅館当主の日誌

< 田隝保日記 >

「9月4日本文の欄」

○盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス、同一行ハ本日三田川村ニ向ハレ今夜投宿、明日ハ三峰山ヘ、(三峰ハ一行初メテナリ)明後日ハ大宮魚惣角屋旅館宿泊ナリ

 これまで賢治一行が三峰神社の宿坊に泊まったことは、三峰神社の社務所日誌にも記載があり明らかとされてきたが、これで大宮(現在の秩父市)の角屋旅館に宿泊したことも明らかになった。

 

「9月5日の日記上段」

○三峰三宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヨウノ手紙ナリ

○魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車屋要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石ヲモ送レリ

 当時の事実関係だけでなく館主田隝保の優しい心配りが伺われる。 

 小鹿野町観光交流館の賢治の詩碑
 小鹿野町観光交流館の賢治の詩碑

 昨年の文学散歩で山本さんがこの場所に立って説明をくださった。今回、改めて賢治の詩碑横の碑文に目をやると萩原先生からのメッセージが刻まれていた… 

「雨ニモマケズ」について

「雨ニモマケズ」は 残された手帳の一冊から賢治没後に発見されたものである。後年広く支持され愛唱されるようになった。

執筆時期は昭和六年十一月三日とされる。 デクノボー精神と「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という悲痛な希願は 私達に限りない希望と励ましを与えてくれる。 また十一月三日(当時は明治.節)が執筆日である事 カタカナ書きてある点も大切である。カナ書きは当時公文書に用いるべき書式であった賢治が病中襟を正して記したこの詩の一言一句を噛みしめながら読むべきであろう。そして今後私達が如何に生きるべきか よく考えて欲しいものである。

埼玉大学名誉教授

萩原昌好 

 八幡旅館の「代官の間」
 八幡旅館の「代官の間」

 この詩碑の後ろの建物の玄関先に写真のような説明書があった… 

この建物は旅館として使用されていた際には「代官の間」と呼ばれていました。

殿の御座所・お付きの間控えの間と段違いになっていて、天井が高いのは変事の際 槍や刀などを扱いやすくするためであったと伝えられています。

文学散歩で山本さんから「殿の間には隠し扉の仕掛けがある」と聞いたのを思い出した…

 それから息子を伴い、この建物の壁に貼られている「賢治生誕100年祭」の展示物を見た… 昨年の文学散歩では沢山の人が同時に見学したので良く見えなかった掲示をゆっくりと見学できたが、私には字が小さくて読むのが辛くて、結局同じこと…

 小鹿野名物 草鞋カツ丼セット
 小鹿野名物 草鞋カツ丼セット

 昨年の文学散歩では頼み込んで観光交流館で昼食を摂らせてもらった。今日は食堂で「草鞋カツ丼セット」のミニを頼んだ。

5月の連休でお客さんも多く、中々できて来なかった…もう1時を過ぎ空腹であったが、二枚のカツは手ごたえがあった…

カツには味が沁み込んでいて美味しかった。

それにも益して手打ち蕎麦は絶品であった。

 9月4日賢治一行が宿泊した二階
 9月4日賢治一行が宿泊した二階

 昼食後、女将さんにお願いして賢治一行が宿泊したという二階を見せてもらった。

この写真の道路を挟んで斜め後ろに小鹿野郵便局があり、賢治はそこから嘉内宛の葉書を投函したという…そんなことを息子に説明しながら観て廻った。

 それにしても20畳の部屋に23名もの学生たちが枕を並べて寝ていたのかと思うと…

 小鹿野歌舞伎のくまどりパネル
 小鹿野歌舞伎のくまどりパネル

 観光交流館の二階から撮った上の右端の写真には、二棟の土蔵が写っているが、賢治たちが小鹿野を来訪した頃には、沢山の土蔵が軒を連なり、賢治が短歌に詠んだのであろうと思いを馳せた…

 また、二階の部屋の壁には小鹿野歌舞伎のパネルが沢山貼られていた。昨年の文学散歩のバスの中で小鹿野の山本さんから小鹿野歌舞伎のご紹介をいただいたことがご縁で、今年の熊谷短歌会の文学散歩では、11月18日の「小鹿野歌舞伎・郷土芸能祭」に参加する企画が進められている…

   宮沢賢治のお宿 詩碑
   宮沢賢治のお宿 詩碑

 観光交流館の女将さんにお礼を述べ、小鹿野町庁舎に向かったて歩いた…これが、結構な距離であったことを感じつつ暑いなかを歩いた…

 賢治たちは、9月4日の午後に三田川村に調査に向かわれたと田島日記にあるので、そのルートを辿るために皆本川の古鷹神社をカーナビにセットして走り出した…庁舎前から観光交流館に向かってルート209を進み小鹿野高校横の交差点を左折してルート299を9.1km約15分ほど走った所に古鷹神社があった。

 古鷹神社の賢治の歌碑(平成28年)
 古鷹神社の賢治の歌碑(平成28年)

 霧晴れぬ分かれて乗れる三台の

   ガタ馬車は行く山岨のみち  賢治

この歌碑とはほぼ1年ぶりの再会でもあり、迷わずにたどり着くことができたが、神社隣の民宿の駐車場に入れてしまい、女将さんにお断りすることとなった…

 境内の杉の大木を指しながら、樹齢三百年というから、この杉は百年前の賢治一行を観ているはずだと得意げに息子に説明していた…賢治たちは、この先の赤平川と合流する皆本沢を登って調査したようだとの山本さんの説明を思い出した…

  < 古鷹神社の賢治の歌碑説明 >

 岩手県花巻市生まれの詩人·童話作家として名高い宮沢賢治が盛岡高等農林学校二年生の時関豊太郎教授に引率されて地質調査の目的で秩父地方を訪れたことは早くから知られている。

 平成二十三年に発見された旧本陣寿旅館館主田鴎保日記によって宮沢賢治が同旅館へ宿泊し皆本沢へ向かったことが判明した。これを記念して皆本沢近くに賢治一行来訪時の様子を彷彿させる新たな歌碑を建て賢治がこの地を訪れ優れた歌を詠み遺したことを永く後世に伝え先に建立した歌碑(三基) 詩碑とともに町の教育·文化の向上と観光の振興に寄与する目的で小鹿野町と有志の浄財により歌碑を建立する。

 本碑の建立は株式会社田嶋造園土木より碑身の寄贈を受け古鷹神社の御好意により宮沢賢治小鹿野町来訪百年及び生誕百二十年を記念して行った。

揮毫は小鹿野町在住の木村英一氏による。

平成二十八年七月

小鹿野町·小鹿野賢治の会

 この写真の碑の説明のように、平成二十三年に発見された旧本陣寿旅館館主田鴎保日記によって宮沢賢治が同旅館へ宿泊し皆本沢へ向かったことが判明した。この日記には、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、 原町箱屋辺迄ムカヒニユク」とあり、賢治一行の帰りが遅いので、主人は原町箱屋辺まで迎えにいったことも明らかになった。そうなると

山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり」は、皆本沢へ行った帰りに詠んだ短歌ではないかと思われる…

 ようばけ全景(おがの化石館前)
 ようばけ全景(おがの化石館前)

 古鷹神社からルート299を小鹿野方面に向かい泉田交差点を直進しルート283に入り、次の信号を右折して案内板に従って進むと「おがの化石館」に到達ができた…

 一年ぶりの「よいばけ」の景色は五月晴れにくっきりと見えた…あの時、山本さんが模造紙に描かれた断層の図を示しながら日本列島の生い立ちまでも解説くださった…

 息子がどうしても化石館を見学したいと言い出した…そういえば子供の頃、石ころや水晶などを集めていたようだったが、秋田の祖父が鉱石らしき物を集めていた趣味に似ているのかも知れぬと思い出していた…

 私は直ぐにでも賢治と嘉内の友情の歌碑へ行きたかったのを堪えて化石館に入った。

 「おがの化石館」のベランダより
 「おがの化石館」のベランダより

 息子が熱心に化石を観て廻っている間に、私は「おがの化石館」のベランダに出て誰もいなかったので一服させてもらった…

 昨年の五月末の天候は、梅雨前の薄曇りだったような気がするが、今日は正に五月晴れの気持よい青空だった…

 今から2億~1.5億年前頃の地層で、第三紀層土台の古生層の断層が眺められた…

 「おがの化石館」の3Ð動画装置
 「おがの化石館」の3Ð動画装置

 5月の連休中なのに館内の見学者は少なかったが、一つ一つの化石を熱心に観て廻る親子を見かけた…その少女は、パパへと言って恐竜型のクッキーを買い求め、それから母親にせがんで3Ð動画を観ていたので、好奇心が旺盛ですねと話しかけるとにっこり微笑み返しした…息子も興味があったようで、約10分の3Ð動画を観ていた…

 化石館から見た賢治と嘉内の歌碑
 化石館から見た賢治と嘉内の歌碑

 私は早く「賢治と嘉内の友情の歌碑」に再会したいと思いつつ、その歌碑の背面を化石館のベランダから撮った…

 盛岡高等農林時代の同人誌「アザリア」発行の仲間4人のためにこの丘に植えられた4本の欅の木陰に賢治と嘉内の歌碑が見えた…

 この景色を見ていると背後の「ようばけ」で採取した化石を手に欅の木陰に腰を下ろした二人が語り合っているようにも思えてきた…

 保坂嘉内と宮沢賢治の友情の歌碑
 保坂嘉内と宮沢賢治の友情の歌碑

さはやかに 半月かヽる 薄明の

  秩父の峡のかへり道かな                                                                     宮沢賢治

 

この山は小鹿野の町も見へずして

 太古の層に白百合の咲く

               保阪嘉内

   「ようばけ」の宮沢賢治の歌碑
  「ようばけ」の宮沢賢治の歌碑

 平成23年に発見された寿旅館館主田鴎保日記によって賢治一行が同旅館へ宿泊し皆本沢へ向かったことが判明した。この日記には、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、 原町箱屋辺迄ムカヒニユク」とあり、賢治一行の帰りが遅いので、主人は原町箱屋辺まで迎えにいったことも明らかになった。そうなると

さはやかに 半月かヽる 薄明の

  秩父の峡のかへり道かな

の短歌も皆本沢へ調査に出かけての帰り道で詠んだのではないかと思われる…

この様に「田鴎保日記」により新たな推定が可能になってきた。平成23年に寿旅館の荷物を整理する際に古書に関心を持ちつつ作業を行い、「田鴎保日記」を発見して下さった山本さんに多いに感謝せねばならないと改めて思った…

後列右から:宮沢賢治、保坂嘉内     前列右から;河本義行、小菅健吉
後列右から:宮沢賢治、保坂嘉内     前列右から;河本義行、小菅健吉

<アザリアの木>

 この場所に植えられた4本の欅ば、宮沢賢治たち4人で作った同人誌「アザリア」の絆を現在に再現したように見えます。

 この4人は出会い共感し、誓い、そしてぶつかり、惜別、心の友へとなりましたが、

4人の歩みは時代の若者の典型と言えるでしょう。

小鹿野賢治の会では、この木を「アザリア」の木とし、この木の下にある宮沢賢治、保阪嘉内の歌碑を「友情の歌碑」としました。

  「アザリア」の同人は12名だったそうであるが、中でもこの4人が中心的に活動し、大正6年7月3日「アザリア」創刊の夜、午前零時に秋田街道を雫石(春木場)に向かって歩き出したという…嘉内はこれを「馬鹿旅行」と称し60首もの短歌を綴り、賢治は「秋田街道」という短編を残している…

9月5日小鹿野から三峰口への県道37を検索
9月5日小鹿野から三峰口への県道37を検索

 賢治一行が寿旅館を出発し、土壌や林業の調査を繰り返しながら、三峰口へ徒歩と馬車で進んだと萩原先生が「賢治 修羅への旅路」で述べられている…そこで古鷹神社の賢治の歌碑から三峰口への道順を検索してみた。まず古鷹神社からルート299を戻り「黒海土バイパス前交差点」を右折して県道37を通るルート(14.2㎞、20分)を検索してみた…果たして県道37を賢治一行がたどった道順なのかどうかは、後ほど萩原先生に確かめてみたいと思っている…

 贄川と荒川の合流点の八幡橋か?
 贄川と荒川の合流点の八幡橋か?

 峡流の白き橋かもふるさとを

   おもふあらず涙あふれぬ   賢治

これは賢治が贄川と荒川の合流点に架かる八幡橋を見て詠んだものだという…

 賢治は美しい白い橋を見て、古里を思い出しノスタルジアを感じたのであろうか…

しかし八幡神社は地図上で確認できたが、残念ながら「八幡橋」は見つからなかった…

   三峰神社の古い写真
   三峰神社の古い写真

< 「秩父の歴史」のコメント >

  三峯神社(大滝村) 三峯山(標高1,100mル)に鎮座している。江戸時代、徇眷属(おけんぞく)のお犬様ことオオカミ信仰が盛んで栄えた。

 このあたりには、秩父中·古生層の泥岩や砂岩、黒いチャートが点々と露出している。

 賢治一行が三峰神社の宿坊で一夜を過ごしたことが 9月5日の日誌に記されていたというが、賢治はたその夜に三峰神社から見えた雷光のようすを次のように詠んでいる…

  星月夜なほいなづまはきらめきぬ

     三みねやまになけるこほろぎ

  こほろぎよいなびかりする星の夜の

     三峰やまにひとりなくかな

このことは萩原先生が熊谷気象台の当日の気象データを調査し、同日の秩父地方に雷雲が発生していたことを既に明らかにしているが、更に田鴎保日記」の次のような記録があり、それを裏付けられる結果となった。 

  「今夜ハ八時頃雷鳴電光多シク、点燈滅シ、

    二時間モ立テバ点火スベシトノ話ナリシガ遂ニ終夜点火無シ」

 

 このように「田鴎保日記」は、様々なことを明らかにしてくれる小鹿野地域の貴重な文化遺産になるのであろうと感慨深い思いがこみ上げてきた。。。 

   賢治・嘉内の友情の歌碑
   賢治・嘉内の友情の歌碑

 連休中は何処へ出かける予定もなかったのに、車で小鹿野へ向かい、偶然「梅乃屋」を見つけたり、賢治一行が辿ったと思われる道を車で辿ることが出来た。家の中に籠っていたら、こんなチャンスはなかった訳だし、「犬も歩けば棒に当たる」という幸運に恵まて良かったと思っている…

 これを機に8月末に計画している鈴木さんと萩原先生とご一緒に「賢治 秩父路の旅」を巡るルートを確かめてみた…

 昔、秩父に7年も暮らしていた頃、色んな所へ出かけていたが、それらがどういうルートで繋がって解っていなかったことに気つかされた。良いドライブであった…

 

 さて、ここまで思いつくままに書き綴ってきたが、最後に賢治一行に秩父路の旅の日程を簡単に整理しておくことにする。

 

 < 大正5年9月 > 

・9月2日熊谷町松坂屋旅館泊(1日 盛岡を出て上野経由、15時20分熊谷着)

・9月3日国神村梅乃屋旅館泊(熊谷より寄居、末野を経て国神まで調査)

・9月4日小鹿野町寿屋旅館泊(国神より小鹿野へ、ようばけ、皆本沢を調査)

・9月5日大滝村三峰神社宿坊泊(小鹿野より三峰山へ、途中林業等を調査)

・9月6日秩父町角屋旅館泊(三峰より秩父大宮まで、影森の石灰洞を調査)

・9月7日秩父線野上駅(秩父大宮より長瀞、本野上を経て、熊谷経由帰盛)

 この旅は、車中の2泊を含め8日間のハードスケジュールであったが、賢治はこの調査旅行で110余首の短歌を詠んだという…