「銀河鉄道の父」感想 2018.1.21

「宮沢賢治はダメ息子だった!」

 2018年1月直木賞受賞作品
 2018年1月直木賞受賞作品

 平成30年1月17日の朝日新聞に芥川賞と直木賞に掲載された。それを読んだ息子が「銀河鉄道の父」と「賢治の食卓」をアマゾンに申し込んでくれた。1月18日に届いた…

その帯には「宮沢賢治はダメ息子だった!」その裏側には「父でありすぎる父と夢を追い続けた息子の、対立と慈愛の月日。」と大文字で印刷されていた…

 

 早速、本のページを捲った。賢治の父・政次郎が京都で「ヲトコノコウマレタタマノゴトシ」という電報を受け取ったところから物語が始まった…

 これまで宮沢賢治の事を色々学んできたが、その殆どが断片的な事象としての知識だあった。この本を読み進めると、これまでの知識が物語として時系列的に結びついて行った…勿論、これは小説ですからフィクションを内包している訳だが、物語を読むとそれぞれの事象の背景が見えてきた。これまで単なる知識だけだった事象の理解を深めることができ、私にとっては大い興味が湧いて来た。ただし、賢治の父・政次郎の視点で物語が進展して行くので、賢治自身にとっては重要と思われる事象のいくつかは割愛されたり、事象に至るプロセスも簡略化されている箇所あるように思われた…

 でも、この本は花巻地域における大家「宮善」、「宮右」の生い立ちや、賢治の母・イチの実家「岩田家」との「マキ」としての一族の庇護の中で生きた賢治を理解するために基本となる背景を示してくれた。更に、食事の膳の位置は、旧家の仕来りとしての家長を頂点とする力関係を教えてくれていた…

 東北の田舎の私が子どもの頃の母の実家でも、家族のお膳の配置は代々守られてきたようであり、良く理解できた。そんな中で実家の長男と父親の葛藤を見て来た。囲炉裏を囲んでの親子のお酒では、口論の末茶釜をひっくり返し、囲炉裏の灰が舞い上がるほどの一発即発の場面もあった…親父同様に意地っ張りの兄は、しばらくの間気まずいような接し方も、また普段の日常に戻って行くのであった…いつの世も息子は、父親を越えようと抗しもがくもななのであろうか、哀しい定めを感じた。

 ですから、これまでに知り得た文献や書簡からは、賢治の父・政次郎は信心深く厳格な父親像しか感じなかった…でも、この「銀河鉄道の父」に描かれた賢治との諍いに揺らぐ政次郎の心の動きを見ていると、何処にでもいるような「親ばか」とも思える愛情を感じた。それに父親から見るといつまでたっても「賢治はダメ息子!」で、賢治を偉人扱いするようなことは決してなかった…

 そんな政次郎が長女トシを見送るときの場面は克明に描かれていた。トシの遺言を書き取ろうする父を跳ね飛ばした賢治は、トシの耳元で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」とお題目を唱えるのであった…

 迫りくるトシの臨終場面は映画のワンシーンのように、雨雪の降ってくる鉛色の空に雪の積もった松の枝のシュリエットが映し出され、あの「永訣の朝」の詩がテロップとして流れてくるのである…

 賢治はトシの葬儀が行われた宮沢家の菩提寺の真言宗・安浄寺には姿を現さなかったが、葬儀を終え火葬場に向かう葬列の中で棺を担ぐ男たちの中に賢治の姿があった…

 私の街中でも宗教上の理由から母親の喪主を弟が務める葬儀に参列したことがあった。賢治もこれと同様の理由であったに違いない…

 この物語では、稗貫農高の教師時代と羅須地人協会のことはあまり深くは触れられていない…また、晩年の賢治は、土壌改良のための石灰石のサンプルを抱え東北砕石工場の営業として上京した経緯は割愛され、上京中に病に倒れ帰花したところへと物語は繋がり、自宅療養することになる…

 そして賢治の臨終も詳細に描写されている…政次郎の手厚い介護を受けながら、賢治が「考えてみれば、おらは、いつも病気してたなハ。赤痢がなおっても、中学のときの疑似チフス、高農時代の肋膜炎…」と述懐すると、父親が病院に泊まり込みで看病しているシーンがフラッシュバックされてきた…

 そして父は「教師と質屋はおなじだ、どちらも弱い人間をあいてにすると。それを気にして‥」と賢治を気遣うのだが、賢治はそれを否定した。

 いよいよ賢治の臨終の時が近づき、賢治は父親に「ありがとうがんス」と礼を述べ、弟・清六には原稿の入ったトランクを託した。そして「日本語訳の妙法蓮華経を一千部つくって、みなさんに差し上げてください。」と政次郎に遺言を書き取らせ、賢治は己に迫りくる死出の旅路を前にして「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」とお題目を唱えるのであった。

 そして二年が経ち賢治の三周忌を迎えることになった…岩田家に嫁いだ賢治の妹シゲがその準備を手伝うために5人(純像、フミ、セイ子、杉子、祐吾)の子供をつれて 実家にやってきた…そこで祖父・政次郎が「銀河鉄道の夜」を読んで聞かせると、好奇心旺盛な純蔵が「ふたりは最後、どうなったのす?」と尋ねた…すると政次郎はこの作品は未完成だから「お前たちが書けばいい。ここで」と応え、「自分はお前たちより先に逝くから、そしたら叔父さんに会えるから、じかに聞くよ。」と付け加えた。その時、純蔵は12歳だった…

 私の母の実家は、家から100メートルくらいの所にあった。私も5人姉弟の末っ子で、いつも母親の後をついてあるくので「ドランコ(きざみ煙草とキセルの入れ物)」と揶揄さていたが、それでも母の腰にぶやさがるように母の実家に出入りすることを止めなかった…実家の長男は若くして肋膜炎で亡くなったそうで、18の年上の姉と同級の叔父が後継ぎであった。その「とみおんつぁ(富雄叔父さん)」は、海軍予科に入隊したことがあるとかでラジオを組み立てたり、星座のことを良く知っていて、私はお酌をしながら話を聞いた。ときには、酔った叔父を送って行く冬の夜道で空を見上げて星座のことを教えてくれたことを思い出す…

 こんなことを思うと純蔵少年も母の実家にはしばしば出かけており、物知りだった賢治叔父さんから童話を話してもらったり、星座の話など教わったに違いない…

 昭和40年代には、賢治の甥・岩田純蔵は岩手大学工学部電気科の教授となっていたた…その岩田先生が「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。」と話したことがあった。そして「賢治は、どこにでもいるような只の叔父さんだったよ。」といい、以後に賢治のことを語ることはなかった…

 

 賢治の三周忌を迎える仏壇を前にして、賢治は政次郎の信じる西方極楽浄土ではなく、日蓮の教えの天上にいて、そこでトシに何かしら読んで聞かせているだろうと、政次郎は想いを巡らすうち、政次郎はふと、改宗しようかと思っていた…「銀河鉄道の父」の物語はここで締めくくられていた。

 いつの世も親は子を想い、子は親を思う、そんな普通の家族の中で人間・賢治も生きていたのだと私は思った…

 

鈴木 守氏からのメール (転載許諾済)

鈴木守氏購入(天才の父は大変だ!)
鈴木守氏購入(天才の父は大変だ!)

 「銀河鉄道の父」の感想文をブログにアップしたところ、花巻で「人間・賢治の実証研究」を続けている鈴木さんからメールをいただいた…いつもながら、鋭いコメントをいただいたので、転載の許諾を快諾いただけたので掲載させていただきます。

 鈴木さんはこの度直木賞の候補にノミネートされる以前に購読されていて、即座にコメントを送ってくれたのです。

 その時の本の帯に印刷されてキャッチコピーも興味深いものでした・・・

 

『 天才の父は大変だ! 』

 小南さんのブログ、先程拝見いたしました。

 小南さんは『銀河鉄道の父』をしっかりと読み込まれておられて、渡部さんも間もなくお読みになるということでもありますので、斜め読みだった私はもう一度読み直さねばと反省しております。

 

 仰るとおり、私も「これまでの知識が物語として時系列的に結びついて行った」です。また、「父親から見るといつまでたっても「賢治はダメ息子!」で、賢治を偉人扱いするようなことは決してなかった」と改めて思いました。

 

 私は地元に居りますので、実は「賢治はダメ息子」だったとか、「本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ」などと云われていたということをしばしば仄聞しております。

 それゆえ、そのような噂は父政次郎の耳にも届いておったはずですし、一方で賢治の天賦の才を父は早い時点で見抜いていたと思われますから、賢治が亡くなった通夜の席で、

 『あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかりしることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上につなぎとめておくために、生まれてきたようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目ををしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきた。』

 <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)256p>

と政次郎が述懐したことは尤もだと私は思っています。つまり、賢治の父はとても偉かったと思います。このような父でなかったならば、賢治は「賢治」ではなかったはずです。

 しかし、これまで父政次郎は賢治に比べてあまりにも軽く、あるいは冷ややかに扱われていて、政次郎のことを高く評価した人は公的には殆どいなかったはずです(せいぜい、内田朝雄の『私の宮沢賢治―付・政次郎擁護 』ぐらいではないでしょうか)。

 それが今回の門井氏のこの本によって父政次郎の再評価が為されてゆくものと私は思って、嬉しく思っております。

 ところで、小南さんの本の帯は「賢治はダメ息子!」となっておりますが、私のは、「天才の父は大変だ!」となっており、違っていましたね。

 賢治が天才であるということは論を俟たないところですが、一方で冷静に考えてみれば、人間「賢治はダメ息子!」です。が、そのようなことを堂々と公言するということは最近まで憚られてきました。ところが、平成29年に出版された『銀河鉄道の父』が直木賞候補作品になった途端に、その「帯」に堂々と「賢治はダメ息子!」と書かれて売られるようになり、そして同書が多くの方々に読まれるでしょうから、今のこの時期が賢治受容の仕方の大きなターニングポイント<*>となって、今後は賢治の新たな魅力が発見されて、今まで賢治に関心のなかった人々、とりわけ若い人達が賢治作品を読んでくれることが期待できるものと私は楽しみにしております。

 また、純蔵先生は自然科学者でもありますから、これでやっと、これからは次第に「賢治の真実」が明らかになってゆくぞと少しく安堵しておられるものと私は確信しております。

 

 なお、純蔵先生と賢治」についてですが、『新校本年譜』等によれば、例えば、「賢治は農学校を退職した大正15年の夏、妹シゲとクニそしてシゲの長男(純蔵先生)を帯同して計四人で八戸旅行に行った。」ということになっております。しかし、純蔵先生の誕生日は大正13年11月26日ですから、この時はまだ満2歳になっておりません。この夏には羅須地人協会を立ち上げると教え子の菊池信一に言っていた、などと云われておりますから、妹二人と2歳に満たない赤ちゃんをわざわざ連れて、三日間もかけて八戸くんだりまで行かなければならなかったのか不思議ですね。

 

 末筆ながら、寒暖の差が激しい日々が続いておりますので、どうぞご自愛下さい。                           鈴木 守

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<*:註> 平成29年4月11日のNHKEテレの先人たちの底力 知恵泉

「宮沢賢治 ”好き”こそ苦しみと生きる道」

において、齋藤環氏が、「賢治は変わった人で、引きこもり的、コミュニケーション下手」とか、「賢治はニートであり、パラサイトだ。」

と堂々と言えて、しかもそれが放送される時代になりましたから、賢治の受容の仕方は今大きく変りつつあるのだと私はなおさらに思っております。

 

<鈴木さんへの転載許諾依頼メール>

 

鈴木さんには、いつもより深堀りしたコメントをいただき、勉強になります。

ありがとうございます。実は、いつもそれを期待しつつブログを書いております・・・ 

 私と叔父さんとは18歳(姉と同じ)でしたが、お酒好きの叔父さんから色んなことを教わりました。

模型飛行機の作り方も教わったし、叔父さんが作った各胴のセスナ機をもらうため2キロもある砂利道を歩いて、叔父が務めていた村役場まで行ったこともある・・・

 私が子どもの頃に村内では、富雄(叔父)さんはお酒を呑むと調子が良くて、その時の話(約束)は当てにならないとの陰口を聞いたことがある・・・

ですから、これもお酒の勢いでうっかり私と約束してしまったのであろうと、後々、大人になってから気が付いた・・・

でも、模型飛行機の主翼と尾翼の角度を調節しながら、浮力がどうして生まれるのかを教えてくれた。

その時「ベルヌーイの定理」を実験を通して教えてくれたのですね・・・

私が三浪(医学部を落ち続け)の末、すっかり自信喪失で志望学科を決めかねていたが、工学部の電気科を選んだのは叔父のラジオとか無線技術に惹かれたせいだと思う。叔父も電気科を選んだことを大層喜んでくれた・・・

 

 こんなことを思うと、純蔵少年と賢治叔父さんは27歳の歳の差ではあるが、純蔵少年も賢治叔父さんから、色々教わったであろうし、普段着の人間・賢治叔父さんの暮らしぶりを見聞きしていたに違いないと想像しています。

 

鈴木さんの貴重なコメントを私のブログに転載しても宜しいでしょうか。

   こけし職人の三郎さん
   こけし職人の三郎さん

< 三郎さんからの手紙 >

 私が自宅浪人中の昭和40年2月末に自宅が全焼し行場がなくて困っていた時、牛小屋を改造して一家を住まわせてくれた方が三郎さんでした…三郎さんは、若い頃から宮沢賢治が大好きで、村の祭りで兄と組んで「植物医師」の演劇をやったと聞いている…

 三郎さんは私にとっての賢治さんである。

今回、直木賞作品「銀河鉄道の父」をお届け先三郎さんに設定してアマゾンから送ってもらったが、どうも送り主が記載されていなかったようだ…しばらく経ってから、私も心配になり、直接電話してみたら「読み終わって手紙をだした。」との事でした…その手紙を紹介させていただく。

 

小南 毅 様

 お元気のことと思います。こちら今日はさかんに雪が降っております。

北陸の大雪が連日報道されておりますが、とうとうこの雪国秋田にもやってきました。

 さて、この間は「銀河鉄道の父」を御送り頂き、ありがとうございました。

実はゆうパックで届いたのですが、送り主がわからず、そのうちにわかるだろうと思って、とりあえず読みはじめ全部読み終わりました。「宮沢賢治」の事だから「毅」さんに間違いないと家内とも断定し、別に問い合わせの電話もせず、今日迄に至ってしまいました。直木賞作家とは言え門井慶喜氏のこの小説は素晴らしいもので最後は涙なしにはよまれないほどのものでした。

 これもやはり宮沢賢治という実在の、しかもその実像を知っていればこそではあります。よくもまあ、ここ迄と思われる程の緻密な描写、心理、膨大な資料と賢治身辺の取材なくしては到底書けないものだと、ほとほと感心してしまいました。父政次郎との愛情、トシ、イチなど家族との暖かい交わりが、手にとるように伝わってきました。

 

 賢治は二十九年生まれ、私の母と同じです。その年 三陸大津波の年だったそうですが、私の母は八十五才、賢治は三十七才、私は今、数えの九十才になりました。馬齢を重ねてきたばかりですが、人間は多令ではないのだと感じました。こけしつくりも二十年も前のものと今のを比べてみて少しも進歩していない。むしろ昔の方が良かったと思うことがしばしばです。

 世は賢治を聖人化するきらいはありますが、賢治もただの人間、カゲもウラもある。その人間の機微をとり立て、あざやかに表現した門井慶喜氏の「銀河鉄道の父」は感動の一篇です。ありがとうございました。

2018.2.12  小南 三郎

 

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コメント: 2
  • #1

    渡部雅幸 (火曜日, 23 1月 2018 04:57)

    小南さん
    訪れました
    そうです。私も福島の山間の村で生を受け家長制度の中で育ちました。
    今でも、私は母より教えられたシキタリを会津に帰ると守っています。
    [朝の挨拶、仏壇への挨拶、家のなかでの座る席順、座る場所・・・等]
    これから「銀河鉄道の父」をamazonにたのもう私も

  • #2

    あすなろ (月曜日, 29 1月 2018 19:38)

    とても、面白く読ませていただきました。本のコピーの文字は何故変えたのかしら?このコピーはとても値打ちの或るもので本を保存するなら帯を付けないと値打ちがないと本好きな人に教わりました。
    賢治さんもそうですが’小南さんも)親戚の大人の方の交流があってうらやましいです。
    今は失われているのでは、、いいなー。
    芥川賞は「おらはおらでいぐも」ばあさんが書いた小説と息子が買ってきました。こちらは賢治さんと関係あるのかな。息子に借りて読んで見よう。