5月27日(土)品川の「土風炉」で定例の同袍寮OB会が、ささやかに開催された。昨年11月に亡くなられた46室で同室だった「青柳先輩を偲ぶ」ブログを目にした青柳さんの息子さんと娘さんご夫婦が、この会に参加してくれた。
更に青柳さんと同じ学科の親友・山王さんも駆けつけくれた・・・
幸い参加された殆どの方が、青柳さんと面識のある同年代であり、青柳さんの同袍寮での暮らしぶりを語ってくれた。
私は青柳さんの結婚式で司会を仰せつかったこともあり、その時の写真をプリントして持参していた・・・息子さんと娘さん誕生の原点だ思い、お二人にさしあげた。恐らくお二人ともこの写真は、あまり目にしたことなかったと思う。
青柳さんは、どちらかというとシャイな方で、出不精な人だったという印象が強いが、息子さんと娘さんは快活であった・・・青柳さんの奥様の方の血筋でしようか・・・2,3日前のこと、その奥様から電話がありました。
その後、もっと珍しくも懐かしい方から電話があった。その人は青柳さんの妹さんであった・・・昭和45年ごろ秩父市の秩父鉄道のアンダーパス工事の監督をやっていた青柳さんから連絡が入り、熊谷から出かけて行って呑んだことがあった。そんなことから、青柳さんの妹さんが友だちと熊谷にやって来た。
その頃の私には車も運転免許もなかったので、会社の友人の車で赤城山までドライブに出かけたことがあった・・・それ以来、長い月日が経ったこともあり、随分長い間お話をしてくれた。その中で真次兄さんとは一番の仲良しであったと述懐したことが心に残った。私が、昔々デートしたことあったねと話したら少し照れくさそうにしていました。
ある朝目お覚ますと寮の右側の壁に等身大よりも大きめの映画「夕陽のガンマン」の看板が立てあった。どうも昨夜、青柳さんがよぱらった勢いで上田通りから担いできたらしい・・・
このブログをアップしたところ、早速、郡司さんからメールが届いた。
『夕陽のガンマンの映画の看板と、バス停の椅子は、倉田さんが酔った勢いで担いできました。そのことはしっかり覚えています。』
確かに、農学部林業科の倉田君が、農学部の自啓寮に移るまでの2年間ほど同室であった。普段はとてもおとなしい彼であったが、一旦お酒を呑むと別人のようにヤンチャに振る舞うようになった・・・何時だったか、同室の4人程で呑んで上田通りを寮に向かっているとき、肩に触れたとか言掛りをつけられ、倉田君が街のお兄ちゃんに側溝に突き飛ばされてしまった。止せば良かったのに、そのことに私が抗議したら、私一人が農学部の田んぼの方に連れて行かれ、いきなり殴られた・・・最早これまでと逃げ帰ったが、次の朝のもやしの味噌汁が沁みて飲めなかったのを覚えている。
当時は、まだまだ大学へ進学する人は少なかった頃で、盛岡の人は学生さんに優しかったが、同年代で既に働いていた若者の中には、それを快く思えない人も少なくなかったのだろう。恐らくそんなお兄ちゃんに出くわしたのだ。
こんなことからすると、郡司さんのメールのように看板を担いで来たのは倉田君だったのかもしれない・・・
その頃46室の天袋から寮の先輩が隠しておいた空気銃が見つかった。
その空気銃は大した威力もなかったが、空気銃の玉を買ってきてクリントイーストウッドが握っている拳銃を狙って打った・・・ところが、この空気銃には癖があり、微妙にカーブするので中々命中できなかった・・・
この件は、息子さんも青柳さんから話を聞かせれていたらしく、即座に反応していた・・・トタン張り看板には、右側の写真が貼り付けてあったと思う。
青柳さんは、お茶が好きで大学祭での茶会には欠かさず出かけていたし、寮でも大きな茶椀で、よくお茶を飲んでいた。
また、完全な夜型の人で、授業の無い時はいつも布団をすっぽりかぶって眠っていた。しかし、皆が寝静まると起き出して、黙々と明け方まで勉強した。ですから、46室は不夜城の如く電灯が消えることがなかった・・・
このような思い出話を聞いてつる内に、あっという間に閉会となった。
そして最後に「同袍寮寮歌」を歌った・・・
青柳さんは、お寺さんのご子息でもあり、時々「般若心経」を聞かされたという寮の仲間も多くいた・・・そんな青柳さんのお骨は、お兄さんが住職を務める佐渡市小比叡の蓮華峰寺に納骨されるという。
同袍寮OB会の幹事長の安保さんが、「同袍寮OB佐渡ツアー」を企画しているらしいので、是非とも実現されることを願っている・・・
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